達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

小倉芳彦『古代中国を読む』

 前回、小倉芳彦『古代中国を読む』(岩波新書、1974)(論創社、2003)を話題に出すに当たって、数年ぶりに読み返してみました。やはり、何度読んでも面白いものです。

 折角ですので、少し引用しながら紹介してみます。

 前回、この本は「小倉氏の研究者としての苦悩を描き出す本」だと紹介しました。当然、論文・研究書に近い専門的な部分も含まれるのですが、その研究に至る動機、研究の経過と自身の生活、結論が出るまでの思考過程といった、研究者の非常に個人的な面が同時に描かれている点に、大きな特徴があります。

 さて、私が好きなのは「『論語』耽読」章です。この章は、若かりし頃の小倉氏が、自己流でがむしゃらに研究を進めていた頃のノートを再現した部分が主要な部分を占めています。

 あの二十歳代の無償のエネルギーは、今いくら掻きおこしても、再燃はしない。仕事から逃れようとする自分を罰する思いで、一思いに髪を刈って丸坊主になったときのような燃焼は、もはや今の私にはない。(中略)そういう傷つきやすい時期が私にもあった。(p.29、以下頁数は岩波新書版に準ず。)

 「傷つきやすい時期」に、「無償のエネルギー」をもって、自分一人で進められた研究とは、如何なるものだったのか。

 例えば、学而篇の第一章「子曰。學而時習之、不亦説乎。有朋自遠方來、不亦樂乎。人不知而不慍、不亦君子乎。」には、こんなノートがつけられています。

 貝塚さんは、『孔子』で、学ぶことのよろこびを、これほど簡潔に、しかも余韻をこめて語る人格、とかなんとか言ってたが、さてそういうものを、どうやったら汲み取れるのか、私としては何を汲みだしたらいいのか。教師としての確乎たる教訓の口調、といったものの方が残るのだがなァ・・・(ここで妄念しきり)・・・ともかくこの章にもどって―、学びながら時々それを習う、反復する、それが楽しい、はたして楽しいだろうか・・・(ここで突き当たってアクビが二つ出る。しばらく休憩)・・・、学と習、朋と来、不知と不慍、この三つが対になって並んでいることの意味は何だろう。(中略)

 どうも、よくわからぬ。三つのうちで、朋と来、がなんとなくわかりそうだ。朋って何だ。来てはじめて朋とわかるってことか。朋と思ってたやつが来て、やっぱり朋だったとわかる、というのか。前の方を自分はとりたい気がする。(以下略)(p.34)

 つづいて、私が最も印象に残っている第二章「有子曰。其為人也孝弟、而好犯上者、鮮矣。不好犯上、而好作亂者、未之有也。君子務本、本立而道生。孝弟也者、其為仁之本與。」のノート。

 どうも平凡なことばだ。考弟ということばが死んでいる。有子(有若)は考弟なるものの本質をなにも知っていないみたい。そのくせ、というより、それだから、「考弟ハ仁ノ本」なんて言ってみる。これでは、少しこきおろしすぎかな。「有子曰」と冠してあるので、孔子と較べてあげ足を取りたくなっているのちがうか。・・・

 有若のこの理屈は、なるほど、そういうことになるでしょうね、と同意する以外にない。ハッとさせるようなものがない。有若―理屈だけのすました先生。かえって孔子よりも偉そうな話しぶりだ。(p.38)

 終始こんな調子で、学而篇を読み進めていきます。ここはまだ整っているところですが、徐々に若者の意気や悲鳴が交じり、非常に生々しく『論語』と格闘する姿が見えてきます。これだけ深く研究者の内面を暴露した本は、他になかなかないでしょう。

 最後に、小倉氏がこの本を紹介するときの言葉を引いておきます。

 この本は、私にとっての解毒剤ですよ。だから、あなたの体内の毒に利かないこともないが、へたに飲むと栄養どころか、毒にあたりますよ、と。(p.25)

 毒にあたって(?)、中国学の泥沼に引きずり込まれたのが、私というわけです。

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(棋客)

『左伝』の訳書と概説書の紹介

 とある方にリクエストを受けて、『春秋左氏伝』の訳書や概説書の手引きを作ってみることにしました。(この方の学識には及ぶべくもないのですが、何故私が…。)週一回更新を守りたいのですが常にネタ切れ気味ですので、何か良いネタがありましたら教えてください。

 『春秋左氏伝』は歴史書ということで、その訳を求める初学者の多くは歴史物語的なものを想像するのかも知れません。が、手に取ってみれば分かるように、その記述は非常に簡潔なものになっており、翻訳だけを見てその背後にあるストーリーを読み取るのは至難の業です。また、基本的に年代順に書かれている(=”編年体”)ため、一連の事件があちこちに分断され、筋が追いにくくなっている場合もあります。

 この点に配慮し、初学者向けに読みやすい訳を作ったものとして、松枝茂夫『左伝』(徳間書店、1973)があります。
 これは抄訳で、なおかつ分断された事件を再構成し、系図や解題を逐一載せて、極力読みやすい作りにされています。訳も口語的に読みやすく訳されており、『左伝』入門の一冊としては良いのではないでしょうか。

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 また、比較的新しい概説書としては野間文史『春秋左氏伝:その構成と基軸』(研文出版、2010)があり、これも平易で読みやすく、よく紹介されます。『左伝』が持つ史学の面と経学の面を、ともに整理した優れた概説書です。こちらにも、『左伝』の実際の内容を抄訳で紹介している部分もありますので、雰囲気を掴むことが出来ます。(竹内航治氏の書評がありますので、参考まで。)

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 入門的な本を紹介したところで、全訳本に移ります。

 第一に推薦されるのは、小倉芳彦『春秋左氏伝』上岩波文庫、1988)でしょうか。岩波文庫なので最も入手が容易で、かつよく推薦されているもの。ただ、原文・訓読はついていません。以下に、より詳細な解説があります。
archer0921.hatenablog.com

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 蛇足ですが、私の好きな小倉氏の著作は『古代中国を読む』(岩波書店)(論創社、2003)です(『小倉芳彦著作選1』にも収められています)。研究者が、自身の苦悩をここまで赤裸々に語った本を、私は他に知りません。個人的には、『左伝』はもちろんですが、特に『論語』のところが印象に残っています。また、小倉氏の『左伝』研究は、『春秋左氏伝研究』(『小倉芳彦著作選3』論創社、2003)に載っています。

 

 さて、漢籍の全訳本と言えば、「新釈漢文大系」と「全釈漢文大系」のシリーズはやはり外せません。

 新釈漢文大系は、鎌田正『春秋左氏伝』全4巻(明治書院、1971)です。新釈漢文大系は、訳者によって質や方針の差が大きいことはしばしば指摘されますが、左伝研究の第一人者である氏のこと、信頼性は高いでしょう。これは原文と訓読も付いていて、注釈も手厚いです。

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 また、鎌田氏の研究書として今でもよく引用されるものに、鎌田正『左傳の成立と其の展開』(大修館書店、1992、もと1963)があります。左伝研究に名を残す大作であること、疑いないでしょう。

 

 続いて、全釈漢文大系は、竹内照夫 『春秋左氏伝』上・中・下(集英社、1974)です。これは、後に平凡社の中国古典文学大系に収められています。
 こちらも原文・訓読を付しています。ただ、新釈本に比べて、やや語釈が手薄でしょうか。

 

 『左伝』をはじめとする経書類には、のちに注釈が施され、その後の読者たちは基本的にはその注釈を通して経書を読むことになります。『左伝』の場合、最も広く受け入れられたのは、西晋の「杜預」という人による注釈です。

 この杜預注を含めて訳注を施したものに、岩本憲司『春秋左氏伝杜預集解』上汲古書院、2001)があります。

 更に、現在出版中で未完ですが、経文・杜預注・孔穎達正義の訳注を全て備えたものに野間文史『春秋左傳正義譯注』第一冊(明徳出版社、2017)第二冊第三冊があります。但し、吉川幸次郎ら訳の『尚書正義』ですら、かなりの難産であったことが知られている中、その数倍の量を全訳するわけで、内容の評価は難しいところもあるでしょうか。実際、本書の誤謬の訂正を試みた、岩本憲司『春秋学用語集 補編』(汲古書院、2018)も出版されています。

 

【2019/04/18 加筆】
 この記事をアップした後、「とある方」に他の著作を教えて頂いたり(ありがとうございます)、自分で書く予定だったものの入れ忘れたものがあったりしたので、少し追加します。

博文館編輯局『春秋左氏伝 1~5』(博文館、1941)
 全体の解説+各巻ごとの概観+経伝の全訳というスタイル。特に「各巻ごとの概観」が抜群で、先に述べたように経伝を読み進めるだけでは歴史の筋を追いにくいところのある『左伝』を、上手く整理しています。ここで「整理」とは書きましたが、あくまで各年ごとの概要紹介、というスタンスを取っていて、経伝から離れすぎていないところもちょうど良い塩梅です。
 今は手に入りにくいようですが、国会図書館のデジタルコレクションに収められていますので、誰でも無料で読むことが出来ます。

・竹添光鴻『春秋左氏会箋 上・下』(冨山房、1904)
 先に挙げた二種の「漢文大系」の親玉的存在とも言える、冨山房の『漢文大系』シリーズから。訓読と独自の注釈を施しますが、全て漢文で書かれていて、あくまで研究者向けといったところでしょうか。私は、訓読が必要だが上手く読めないときに、参考にすることがあります。注釈の出典が明記されない欠点はしばしば指摘されます。
 ※国会図書館のデジタルコレクションあり。

・楊伯峻『春秋左伝注』(中華書局、1981)
 「訳本」というカテゴリーからは外れますが、個人的によく利用する本なのでリストアップしておきます。ちょっと読みに迷うとき、かゆいところに手が届く本で大変便利です。他の中国での研究書や訳本は、張尚英氏の紹介記事を参照のこと。

おすすめ動画:梁文道「一千零一夜」

 本日は一休みして、個人的におすすめの動画をご紹介します。

 それは、梁文道氏の「一千零一夜」シリーズです。Youtubeに、优酷の公式アカウントによってアップロードされています。
 梁文道氏は香港出身の文人で、非常に幅広い知識を持ち、過去に数多くの論稿を発表されています。「一千零一夜」シリーズは、文学作品を中心にその概要、歴史的意義、魅力について語る動画です。街中を歩きながら一人でよどみなく語り続ける姿は、非常に印象的。もちろん中国語の勉強にも役立つでしょう。

 上に貼ったものは『論語』をテーマにしたものの第一回です。しかしテーマは中国のものに限らず、西洋古典、ラテンアメリカ文学、SF小説など非常に広範で、日本の作品がテーマにされていることさえあります。
 雰囲気を感じて頂きたいので、動画のタイトルの和訳だけ並べておきますと…「牡丹亭」「般若波羅蜜」「古文観止」「狂人日記」「陳寅恪の唐史研究」「リア王」「ドン・キホーテ」「老人と海」「ボルヘス短編選集」「闇の左手」「源氏物語」「坂本龍馬」…と、私も観れていないものが多いのですが、どれもとても面白く魅力的なシリーズです。

 毎回最後に参考文献が出てくるのですが、中国はもとより、日本や欧米の研究もよく含まれており、なかなかに驚かされます。つまり、決して「教養ある人がある作品を読み自分の考えを語った」だけのものではなく、「教養ある人がきちんと研究を踏まえた上で、再構成し、そのエッセンスを人に語った」ものであると感じられます。

 日本に同様のタイプの語り手は、全く存在しないように思います。もちろん中国語の字幕は流れていますので、それほど敷居は高くないと思います。是非、ご覧ください。

 

考証学における学説の批判と継承(5)

 前回の続きです。問題となる疏文を再度掲げておきます。

尚書』堯典(阮元本『尚書注疏』卷二 三葉上)

(疏)以庸生賈馬之等、惟傳孔學經文三十三篇、故鄭與三家同以爲古文、而鄭承其後、所註皆同賈逵馬融之學、題曰古文尚書、篇與夏侯等同。而經字多異、夏侯等書「宅嵎夷」爲「宅嵎䥫」、「昧谷」曰「柳谷」、「心腹腎腸」曰「憂腎陽」、「劓刵劅剠」云「臏宮劓割頭庶剠」、是鄭註不同也。

 この疏文の読解の相異について、現在の定説と同様の読みを提示したのは段玉裁で、その証明もほとんど段氏に尽きています。ただ、両者の説の由来や誤読の要因、正しい論拠を整理して示したのは陳喬樅(嘉慶十三・一八〇八~)まで下るようです。考証学の最晩年に入り、各説の整理が進んだ時期という背景もありましょうか。

○陳喬樅『今文尚書經説考』優賢颺歴

 ・・・又案王鳴盛尚書後案曰「・・・」。喬樅謂、王説誤也。作優賢揚者、非鄭古文尚書本、乃夏侯等今尚書文也。何以明之。堯典正義云「・・・是鄭注不同也。」按、「鄭注」上疑去一「與」字、正義語不甚明晰、近儒因而致誤。故説尚書今古文異同、皆以作「嵎夷」「昧谷」「心腹腎腸」「劓刵劅剠」者爲夏侯等書、作「嵎」「柳谷」「憂腎陽」「臏宮劓割頭庶剠」者、爲鄭古文本。以愚考之、・・・。

 まず彼は、「按、「鄭注」上疑脱去一「與」字、正義語不甚明晰、近儒因而致誤。」と、もとの疏文が若干読みにくいことを、誤読の要因として挙げています。思えば、吉川訳も「鄭注同じからぬ点である。」となっており、「與」を補って読んでいますね。もしかすると、陳氏の説を参考にしたのかもしれません。

 以下陳氏は、疏文を「現行本・鄭玄本の上四句―夏侯氏の下四句」で理解すべき証拠を挙げていきます。(尤も、段氏と共通する証拠が多いのですが。)他の文献の中に、前者のものが「鄭注」に見える例や、後者が「今文尚書曰」として引かれる例を積み重ねていけば、この説が揺るがないものとなります。

 全ての例を挙げるのは煩雑ですので、これまで使ってきた「心腹腎腸」の例を下に挙げておきます。

 此篇優賢颺歴、見唐扶頌。「優臤之寵」見袁良碑。「優賢揚歴」見三國志管甯傳及左思賦、是漢魏晉初所習用者、必本於今文尚書無疑。若古文尚書漢時竝未盛行、又未立於學官、非博士所以課弟子者。故漢碑文字引用絶尠。況裴松之魏志注明稱「今文尚書」、則其訓誼亦必今文家相傳經師舊説矣。劉與裴二注皆不著鄭姓名、今何得屬之鄭注乎。且馬鄭所注古文尚書、歴魏晉宋齊梁陳以迄隋唐、其書現存、載於隋書經籍志及新舊唐書藝文志、章章可考。裴松之三國志、司馬貞作史記索隱、豈得無所見聞而誤以馬鄭本爲今文。孔冲遠作尚書正義、屢引鄭注、又豈絶無考訂而罔識優腎陽有譌字此必不然矣。

 まず、漢碑に引用される例を挙げ、漢代に古文が博士に立てられたことはなく、それほど流行していないと思われることから、これを逆に今文であることの傍証とします(この話自体は王鳴盛も引くのですが、後半の議論が真逆になっていましたね)。更に、裴松之注に「今文尚書」とあるのだから、当然今文なのだろう、という議論です。
 王鳴盛は、「裴松之は偽古文流行後の人であり、僞孔を古文、鄭本を今文と逆転して認識していたため、誤った。」という説を立てていましたが、これに対しては、「鄭注尚書は、隋唐の目録にも残っており、裴松之の頃に伝来していたのは確かで、混乱のしようがない。」と述べます。

 このような議論を他の三例でも行い、この種の傍証を加えていけば、どちらが自然な結論なのかはっきりするというものです。陳氏は段氏説をもとにしつつ、最終的にこの疏文の読解に決着を付けたと言って良いでしょう。最後にこう述べています。

  江聲尚書集注音疏、孫志祖讀書脞錄、説此條皆與尚書後案同其違失。故特詳辨之、以訂其誤焉。

 これは、輯佚と整理に努めた陳喬樅の能力が発揮されている例とも言えますし、彼の今文経学を重視する立場が現れているとも言えるでしょうか。
 その後の尚書関連の著作として皮錫瑞『今文尚書考證』などがありますが、ここではもう「今文尚書では『心腹腎腸歴』を『優賢揚歴』に作る」と言うのみで、論争の決着がつきこの説が定説化していることが分かります。

 最後に、簡単にまとめておきましょう。
 この疏文の誤読は、「閻若璩による偽古文論証」という考証学を象徴する学術成果の陰で、副産物的に生まれたものと表現できそうです。閻若璩の意図と目的でこの疏文を読むと、誤読に陥るのは止むを得ないとも言えるからです。更にその後、当初は江声や王鳴盛によって、他の文献から閻説は理論の裏付けを与えられようとしていました。しかし、却ってそこでその矛盾が露呈することとなり、段玉裁によってその反論の根拠が徐々に肉付けされることになります。そして最終的には、考証学の最晩年になって正当な説が確立したのです。
 このように考えてみると、考証学の展開を見る上で、なかなか興味深い例であると言えるのではないでしょうか。実際の各人の書籍の出版状況やその流通、書簡のやりとりなどを調べてみれば、もっと面白い内容になるかもしれません。これはまたの課題です。

 …と、マニアック過ぎる内容を無理気味にまとめてみましたが、お楽しみ頂けたでしょうか。全五回、今回をもって完結といたします。ご意見ご感想あれば、是非お願いします。(棋客)

 

考証学における学説の批判と継承(4)

 前回の続きです。問題となる疏文を再度掲げておきます。

尚書』堯典(阮元本『尚書注疏』卷二 三葉上)

(疏)以庸生賈馬之等、惟傳孔學經文三十三篇、故鄭與三家同以爲古文、而鄭承其後、所註皆同賈逵馬融之學、題曰古文尚書、篇與夏侯等同。而經字多異、夏侯等書「宅嵎夷」爲「宅嵎䥫」、「昧谷」曰「柳谷」、「心腹腎腸」曰「憂腎陽」、「劓刵劅剠」云「臏宮劓割頭庶剠」、是鄭註不同也。

  ここでようやく、段玉裁(雍正十三・一七三五~)の登場となります。彼は銭大昕と同世代に当たりますが、その所説は大きく異なっています。まずは『古文尚書撰異』の堯典の項を見てみましょう。

○段玉裁『古文尚書撰異』堯典

又按、尚書正義曰「庸生賈馬之等、惟傳孔學經文三十三篇、故鄭與三家同、以爲古文、而鄭承其後、所注皆同賈逵馬融之學、題曰古文尚書。篇與夏侯等同而經字多異夏侯等書(句絶)。宅嵎夷(此謂古文)爲宅嵎(禺之誤)䥫(此謂夏侯等書)、昧谷(古文)曰柳谷(夏侯等)。心腹腎腸(古文)曰憂(優之誤)腎(賢之誤)陽(揚之誤○夏侯等)劓刵劅剠(古文)云臏宫劓割頭庶剠(夏侯等)、是鄭注不同也。」此四條皆上句古文、下句今文、本自明白。不意善讀古書如閻百詩氏、尚誤會而互易之。(尚書古文疏證第二十三)。近注尚書者、皆襲其誤甚矣。句度之難也。四條皆有左證、各見當篇。

 段玉裁は、堯典疏文を現代の定説と同じく「鄭玄本・現行本(梅賾本)―夏侯氏の今文説」という対応関係で理解しています。つまり、閻若璩以来の説を否定したということなります。それは「不意善讀古書如閻百詩氏、尚誤會而互易之。」(百詩は閻若璩の字)という言葉でよく分かりますし、「近注尚書者、皆襲其誤甚矣。」という語から、閻説を多くの学者が継承しており、段氏がその誤りを正そうとしたことも分かります。

 但し、段玉裁は「篇與夏侯等同而經字多異夏侯等書。」と句読しています。(原注の「句絶」の語より明らか。)これは吉川先生や北京大十三經注疏整理本の句読(つまり冒頭に掲げた句読)とは異なっています。この辺りの事情は、また後の記事で述べますが、当該箇所の疏文がやや読みにくい文章になっていることが原因のようです。

 次に、「心腹腎腸」の経文が現れるところの段注に注目してみましょう。

○『古文尚書撰異』盤庚下

 今予其敷心腹腎腸、歴告爾百姓于朕志。

 ・・・文選左太沖魏都賦曰・・・、張載注曰・・・。按左時未經永嘉之亂、夏侯歐陽等書無恙也。

 魏志管寧傳・・・、裴松之注曰・・・。玉裁按裴氏於此篇、鳴鳥弗聞引尚書君奭曰云云、鄭元曰云云、於命東序之世寶引尚書顧命曰云云、注曰云云、於武帝紀亦言文侯之命曰盤庚曰、而此條獨分別之云今文尚書曰。然則君奭顧命文侯之命盤庚皆爲古文尚書可知矣。漢魏人於夏侯歐陽曰尚書、於孔壁則分別之云古文尚書。范氏後漢書體例尚如此。裴氏正與相反、蓋古文尚書盛行、遂易其偁焉爾。但言今文尚書曰、而不言何篇、略之也。裴氏時歐陽夏侯書已亡度裴所引即魏都賦注。故兼引賦語以足之賦注歴試也。此今文家語、裴演之曰「・・・」、或系諸鄭注、誤矣。

  後半の話は少し違いますが、面白い議論だと思うので少し中身を見てみましょう。

「漢魏の人(ここで挙げられる例は『文選』魏都賦の張載注、范曄『後漢書』)は単に「尚書」と言うと「今文尚書」を指し、「古文尚書」の際にはわざわざ「古文尚書」と断る。しかし、裴松之の頃になると、単に「尚書」と言うと「古文尚書」のことになっており、「今文尚書」の方をわざわざ断るようになっている。」

 要約するとこのような論理になっています。これだけでは大雑把な議論ですが、偽古文尚書が奏上された後、いつ頃どのようにより広く受容され、一般的な存在になるのか、というのは非常に興味深い話題です。(加賀栄治『中国古典解釈史』など参照。)

 段氏は最後に「此今文家語、裴演之曰「・・・」、或系諸鄭注、誤矣。」と述べ、ここに見える訓詁を鄭玄注として取り込むこと(前回紹介した王鳴盛の説)を批判しています。確かに経文が今文由来のものであれば、その注が鄭玄注である可能性はかなり低くなるでしょう。

 つまり、段玉裁は疏文の読解の誤りを指摘した上で、その誤った認識に基づいて推理された結論の部分も合わせて批判していることになります。当時、現代の「学会」に相当するものはなく、書簡のやりとり等で最新の研究を知っていたのでしょうが、俊敏かつ正確なリアクションを取っているのは面白いものです。*1

 現代、段玉裁の学問はしばしば「武断が多い」という言葉で評価されます。これは裏返しで言えば、当時の主流の見解、一般的な理解に容易に迎合しなかったとも言えるでしょう。ここの例では、彼のそういったところがプラスに発揮されていると言えるでしょうか。(念のため申しておきますが、この数回の論考で「段玉裁は他の学者より優れている」といったことを言いたいわけではありません。)*2

 さて、この段玉裁の読解は、正確なものとして広く受け入れられることとなります。一例として、乾嘉期の尚書学の集大成と言える孫星衍(乾隆十八・一七五三~)の『尚書今古文注疏』を挙げておきます。これは再び「心腹腎腸」のところ。

○孫星衍『尚書今古文注疏』

 今予其敷心腹腎腸、歴告爾百姓于朕志。

(注)夏侯等書説「心腹腎腸」爲「優賢揚歴」。

(疏)「夏侯等書爲優賢揚歴」者、見書卷二。疏云「夏侯等書心腹腎腸曰憂腎陽。」疏文舛誤、當爲「優賢揚」三字。文選左太沖魏都賦曰「優賢著於揚歴。」張載注云「尚書盤庚曰、優賢揚歴。歴、試也。」魏志管寧傳陶丘一等薦寧曰「優賢揚歴。」裴氏注曰「今文尚書曰、優賢揚歴。謂揚其所歴試。」未知此云「歴、試也。」及「謂揚其所歴試」、是鄭注否、不敢妄載爲注。案、心腹二字似優、賢字似腎、腸字似揚、歴字上屬、則下「告百姓于朕志」爲句。漢咸陽令唐扶頌「優賢颺歴」、國三老袁良碑「優賢之寵」、皆用今文尚書

 段玉裁同様、鄭玄「心腹腎腸」と今文「優賢揚歴」という対応で捉えています。但し、鄭玄注として認めるかどうかについては「未知此云「歴、試也。」及「謂揚其所歴試」、是鄭注否、不敢妄載爲注。」とやや慎重な態度を取っており、そもそも鄭玄注ではありえないとする段玉裁とはやや温度差があるかも知れません。 

 その他、『尚書』でなく『文選』の側からこの問題に言及している例として、梁章鉅(乾隆四〇・一七七五~)を挙げておきます。これまで登場してきた人物よりは大分遅れる人物です。

○梁章鉅『文選旁證』

 注盤庚曰「優賢揚歴」。

 書堯典疏云「鄭注尚書篇與夏侯等同而經字多異。夏侯等書心腹腎腸曰憂賢陽。」蓋「憂」本作優、誤分爲心腹二字。「腎腸」本作賢揚、皆以字形相似致誤耳。而歴字當屬下句讀也。王氏鳴盛曰「・・・」。按王氏引隸釋裴注以證、是也。其今文古文之説、則非。釋書疏語謂作「優賢揚歴」者、正夏侯等書今文尚書也。作「心腹腎腸」者、正鄭注本。鄭習古文尚書者也。孔傳多依鄭本、故今書亦作「心腹腎腸」也。從來無以鄭本爲今文者、且書疏是謂夏侯等書與鄭不同、非謂梅賾書與鄭不同。何得顛倒而爲之説耶。此疏語在虞書標目下、疏云「・・・、是鄭注不同也。」段氏玉裁以爲此四條皆上句古文、下句今文、本自明白。・・・。

 彼も段玉裁の説を引き、その説に賛成していることがよく分かります。

 以上の説明で、段説が閻説に代わって受け入れられるようになったことは、よく分かると思います。しかし、今日の話はやや省略したところがあり、結局「どうして閻説は誤りと言えるのか」という点については、まだ説明不足という感じを覚える方がいらっしゃるかもしれません。次回、その誤りの理由を整理した学説を紹介し、最終回とさせていただきます。(棋客)

↓つづき

chutetsu.hateblo.jp

*1:当時の学術共同体のあり方については、ベンジャミン・エルマン『哲学から文献学へ』が代表的な研究として挙げられる。

*2:段氏の学問については、挙げ始めればキリがないですが、例えば喬秀岩『北京讀經説記』を参照。『説文解字注』に関しては阿辻哲治『漢字学 説文解字の世界』東海大学出版会頼惟勤『説文入門』を参照。