達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

考証学読書会(2)―阮元「王伯申經義述聞序」下

 前回の続き。

 嘉慶二十年、南昌盧氏宣旬讀其書而慕之。旣而伯申又從京師以手訂全帙寄余。余授之盧氏。盧氏於刻『十三經注疏』之暇、付之刻工。伯申亦請余言序之。

 王引之による『経義述聞』の自叙の執筆は、嘉慶2年(1797年、王引之32歳)の時ですが、 阮元による本序文の執筆は嘉慶22年(1817年、王引之52歳)の時になります。上に書かれているのは、嘉慶20年(1815年)、阮元が盧宣旬に委託し、『経義述聞』を出版する運びとなった、という話です。(尚、『春秋名字解詁』二巻と『太蔵考』二巻は、道光七年の重刊の際の増入です。)本文中にある通り、この時期はいわゆる「阮元本十三經注疏」の出版とちょうど同時期です。
 盧宣旬といえば、『経典釈文』の「盧宣旬摘録」でよく名前を見掛けますが、その事蹟はほとんど分からないようです。

 昔余初入京師、嘗問字於懷祖先生、先生頗有所授。既而伯申及余門。余平日説經之意、與王氏喬梓投合無閒。

 ここは阮元が王念孫、王引之との昔話をするところ。かつて阮元が初めて入京した際、王念孫から手ほどきを受けたことがあったようです*1。具体的な教授内容については、一例ですが、『揅經室集』卷一・釋且「説文訓且為薦字、屬象形。元按諸古誼、且、古祖字也。古文祖皆且字。……王懷祖給事謂元曰、詩言、終風且㬥、終和且平、終溫且惠。終皆當訓既。言既風且㬥也。元為之加證曰、終即既。既、終也。且、始也。……」などに伺うことができます。

 阮元が試験官の時の進士及第が王引之であることは、前回述べました。「伯申及余門」とはそのことを言っています。「喬梓」とは、父子の意味。*2

 是編之出、學者當曉然於古書之本義、庶不致為成見舊習所膠固矣。雖然、使非究心於聲音文字以通訓詁之本原者、恐終以燕説為大寶、而嚇其腐鼠也。
 嘉慶二十二年春、阮元序於荊州舟中。

 ここが最後のまとめ。本書の学問的意義を改めて宣言し、また他の学者への警鐘を鳴らしたところで、筆を措きます。

 まず喩え話から過去の学問の問題点を語り、それに比べて考証学者の学が優れていることを述べ、著者についてその祖から思い出を交えながら語り、最後にその意義が重大であることを述べるという流れは、全体的に序文の典型的なパターンを備えているように思います。(棋客)

【追記 2019/7/24】
 有志の方より、『揅經室集』の引用部分に句読の誤りがあることを指摘して頂き、訂正いたしました。

*1:『國朝先正事略』卷二十一・阮文達公事略「乾隆五十一年、公年二十三、舉鄉試、入都、與邵二雲(邵晉涵)、王懷祖(王念孫)、任子田(任大椿)、三先生友、作考工記車制圖解。有江戴諸家所未及者。」

*2:陳壽祺輯『尚書大傳』卷四・梓材「伯禽與康叔見周公、三見而三笞之。康叔有駭色、謂伯禽曰、有商子者、賢人也、與子見之。乃見商子而問焉。商子曰、南山之陽有木焉、名喬。二三子往觀之、見喬實高高然而上。反以吿商子。商子曰、喬者、父道也。南山之陰有木焉、名梓。二三子復往觀焉、見梓實晉晉然而俯。反以吿商子。商子曰、梓者、子道也。二三子明日見周公、入門而趨、登堂而跪、周公迎拂其首、勞而食之、曰、爾安見君子乎。」

考証学読書会(1)―阮元「王伯申經義述聞序」上

 暫く休止状態にあった漢文読書会を再開いたしました!(参加者募集中です)。
 今年は、考証学者の文章を中心に読み進めることにいたします。折角の機会ですので、時間が取れる限りは、復習を兼ねて読んだ部分を振り返ってみることにします。

 今回読んだのは、王引之『経義述聞』に附された阮元の序文である「王伯申經義述聞序」です。阮元は乾隆29年(1764)の生まれ王引之は乾隆31年(1766)の生まれですからほぼ同世代ということになります。とはいえ、王引之は阮元が試験官の時の科挙(嘉慶四年)で進士及第していますから、両者はむしろ師弟関係と言えるようです。
 前半と後半で、全二回となる予定です。では早速、本文を少しずつ読み進めてみましょう。

阮元「王伯申經義述聞序」
 昔郢人遺燕相書。夜書、曰「舉燭」、因而過書「舉燭」。燕相受書、説之曰「舉燭者、尚明也。尚明者、舉賢也。」國以治、治則治矣。非書意也。
 鄭人謂玉未理者璞、周人謂鼠未腊者璞。周人曰「欲買璞乎。」鄭賈曰「欲之。」出其璞乃鼠也。

 冒頭、二つのエピソードが並べられています。
 一つ目は、『韓非子』外儲説左上に見えるもので、「他国の大臣に手紙を書く際、夜に書いていたので手元が暗く、「火を灯せ」と使いに指示したが、誤って「火を灯せ」と手紙に書いてしまった。それを受け取った大臣は、「火を灯すとは、賢者を任用せよということだ」と誤読し、かえって国は治まった。」という話。
 二つ目は、『戰國策』秦策三に見えるもので、「鄭の人は、宝石の磨かれていないものを「璞」と呼び、周の人は鼠の干していないものを「璞」と読んだ。周の人が「璞はいらないか」と言うと、鄭の人は(宝石かと思い)「欲しい」と言った。しかし、出てきたものは鼠だった。」という話。*1

 以下、上の二つのエピソードから、古書の誤読へと話題を繋げます。

 夫誤會舉燭之義、幸而治。誤解鼠璞、則大謬。由是言之、凡誤解古書者、皆舉燭鼠璞之類也。古書之最重者、莫逾於經。經自漢晉以及唐宋、固全賴古儒解注之力。然其間未發明而沿舊誤者、尚多。皆由於聲音文字假借轉注、未能通徹之故。

 古書の誤読というものが先の二つのエピソードのようなものであると述べ、過去の経書読解に問題が多かったことを指摘し、その理由を「聲音、文字、假借、轉注」といった小学の知識に乏しかったことに求めます。このあたりは、聞き飽きるほど聞かされた、清朝考証学者お得意の言説とも言えましょうか。

 そして以下に、「その一方で、我々清朝の学者は・・・」と続くわけです。

 我朝小學訓詁、遠邁前代。至乾隆間、惠氏定宇、戴氏東原、大明之。高郵王文肅公、以清正立朝、以經義教子。故哲嗣懷祖、先生家學、特為精博。又過於惠戴二家、先生經義之外、兼覈諸古子史。

 「恵定宇」は恵棟、「戴東原」は戴震。ともに、王氏の師匠筋にあたる偉大な考証学者。
 そして、王氏三代の紹介に入ります。王引之の祖父が王文肅公、即ち王安國(康熙33年-乾隆22年、1694-1757)。そして父が王懷祖、即ち王念孫(乾隆9年-道光12年、1744-1832)。両者の輝かしい経歴は書き始めると長くなってしまいますので、ここでは省略。「哲嗣」は子の尊称です。

 哲嗣伯申、繼祖又居鼎甲、幼奉庭訓、引而申之、所解益多。著『經義述聞』一書。凡古儒所誤解者、無不旁徵曲喩而得其本義之所在。使古聖賢見之、必解頤曰、吾言固如是。數千年誤解之今得明矣。

 「伯申」は王引之の字。殿試に合格したもののうち、トップ3(状元、榜眼、探花)の第一甲を、別に「鼎甲」とも呼びます。先に述べた嘉慶四年(1799年)の科挙で、王引之は第一甲の第三人で合格しています。ちなみに、この時の首席合格は姚文田。他、合格者一覧の中には陳寿祺の名前も見えます。
 「無不旁徵曲喩而得其本義之所在」とは、「遍く証拠を挙げて詳しく理解し、その本義のありかを得ないということがない」ということ。「解頤」とは、にっこり笑うということ。本書によって、数千年来続いてきた古書の誤読が是正され、聖人もにっこり笑い満足するほどである、という感じでしょうか。

以下、次回に続きます。(棋客)

↓つづき

chutetsu.hateblo.jp

*1:両者とも、よく引き合いに出される話のようです。少し面白い例として、『抱經堂文集』卷五・新校説苑序庚子(乾隆四十五年)に、「昔、郢人有遺燕相書者。誤書「舉燭」、燕相得之、以爲欲其舉賢。賢者所以為光明也。於是任用賢者、而燕國大治。以此觀之、雖其傳會淺陋者、誠善用之、安在不可以為治、而況其大經大法格言正論之比比而是哉。」を挙げておきます。こちらでは、「誤解によって伝わった文章でさえ治国に役立つ場合があるのだから、正しく権威ある文章が治国に役立つのは、言うまでもない。」という話の例として用いられていますね。

京大中華街探訪録

 ここ最近、京都大学から五分ほど北に歩いた「田中里ノ前交差点」近辺に、中華料理屋が乱立しています。

 これは、京都に拠点を置く中国古典愛好家である我々としては、決して看過することのできない大問題です。その謎を探るべく、我々は暴飲暴食を重ねました―

①方圓美味

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方圓美味

 田中里ノ前交差点を西に入ってすぐ。昔「松之助」があった場所に入ったお店で、現在二年目ぐらいでしょうか。家族で経営されているお店です。定食もありますが、やはり中華ということで、「数人で一緒に行って、大皿料理を数皿頼む」という食べ方の方が楽しめると思います(これは以下のお店にも共通して言えます)。
 夜は結構行列ができているので、時間をずらしていく方が良いです。本格派であることは間違いありませんが、実はやや日本人向けの味付けだと留学生に教えていただきました。中華料理の辛さと痺れが苦手な方は、まずこの店で肩を慣らし、徐々に下の店に進んでいくと良いかもしれません。私はまさに、この店から中華料理の魅力にハマりました。
 オススメは酸菜白肉鍋と皮蛋豆腐!!!

②鑫源

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鑫源

 田中里ノ前交差点の北西角。この近辺では最も新しいお店で、ポップでかわいい看板が目印。こちらも家族で経営されているお店のようです。「四川料理」という看板がありますが、実際のところは東北料理系統か。本格的な味付けで、辛さと痺れを楽しみたい方は是非どうぞ。最近、メニューの日本語が正しくなりました。
 この並びの中華料理店の中では、最も落ち着いた雰囲気のあるお店です。新しいというだけでなく、店の作りや雰囲気など、全体的に清潔感があり、その上ボックス席は分離されていて騒々しい感じもありません。四人ぐらいでゆっくり飲みたい時におススメでしょうか。その分、①と③に比べるとやや割高かも(ま、あまり変わりませんが)。私は試したことがないですが、昼のランチはなかなかお安いようで、また別の意味で魅力的。
 オープン間もないということもあってまだ人の入りが良くないので、行くなら今がチャンス! 氷の浮かぶ冷えたビールが君を待っているぞ!!!

 

③火楓源

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火楓源

 田中里ノ前交差点の南東角。こちらも新しいお店です。ガラス張りで、夜はまばゆく金色に輝いているので、初めてでもすぐに分かります。田中里ノ前近辺を歩くと暴力的な中華の香りがするのは、大体この店から。店の目の前の水槽で金魚が泳いでいますが、夏に暑さでやられないか心配しています。
 このお店は、料理の提供速度がとにかく速く、そのうえ味と量の充実感もピカイチ。壁一面の巨大なメニューが、また食欲を誘ってきます。少し味が濃いと感じる人もいるかもしれませんが、ビールと江小白を飲む分にはむしろ相性が良く、やみつきになる味付けです。 唯一の問題点は、毎回食べすぎかつ飲みすぎてしまい、我々の金銭面と健康面に多大な影響が出てしまいそうなことです。
 おススメは炒め物全般!!! 何でも旨すぎて要注意!!!
 

④東朋

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東朋

 田中里ノ前交差点から少し南の東側、地下のお店で真っ赤な看板が目印。「火楓源」と同時期にオープン。ここも暴力的な香りを歩道に撒き散らしています。見掛けの通り本格的で、特に串料理が充実している印象。
 店内は中国語のテレビやカラオケが流れていたりと、日本人はアウェイな感覚になるかもしれませんが、気にせず踏み込みましょう!

 

⑤華祥

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華祥

 田中里ノ前交差点の北東角。ここは昔からあるお店で、ちょっと前までは京大近辺で「中華」と言えば、まずこのお店だったのではないでしょうか。もちろん中華料理ですが、日本人的なやさしく複雑な味付けが特徴で、先生方と一緒に行く店という印象があります。昼は定食あり!

 

⑥四川亭

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四川亭(写真は閉店時)

 華祥のすぐ北、「担々麺」ののぼりが目印の、日本人店主のお店です。中華料理というより「担々麺屋」といった方が正確かもしれませんが、花椒の香りが利いた本格派の味付けで、留学生にも高い人気を誇るお店です。
 この店の担々麺には汁あり・汁なしの二種類がありますが、まずノーマルに美味しいのが汁ありで、より本格的で中毒性があるのが汁なし、という印象。非常に人気のお店で、昼も夜も行列ができることがあるのでご注意を。麻婆豆腐も絶品!!!

 ……以上、「田中里ノ前交差点」近辺にいかに中華料理が集まっているか、分かっていただけたのではないでしょうか。実は、四川亭と華祥の間にも、老舗の「長江辺」を含めて二軒ほど中華料理屋があるのですが、力尽きたので今日はここまで。

 他に書き切れなかったのは、「田中里ノ前交差点」から5分ほど歩きますが、「百万遍交差点」を東に進んだ先にある「味香園」(昔「宏鑫」があった場所)と「龍門」です。こちらも旨いですよ。京大近辺は「中華激戦区」と称されることもあるようですが、ここでは思い切って、「京大中華街」と名付けてみました。
 これまでの記事で一番気合いを入れて書いてしまいました。書ききれなかったお店がたくさんありますので、いつかまた書きます。みなさん、行った感想をぜひコメントしてください!

 

喬秀岩「經學與律疏」―論文読書会vol.12

※「論文読書会」については「我々の活動について」を参照。

 

 喬秀岩「經學與律疏」(『北京讀經説記』萬巻樓2013、初出『隋唐五代經学國際研討会』文哲所出版2009)

【概要】

 喬氏は南北朝の義疏学から『五経正義』に至る学術史の研究を進めてきた研究者。唐朝による『正義』の編纂とほぼ同時期、『律疏』の選定も行われていた。両者は相似する点も多く、『正義』の学術の特徴を描写する上で、『律疏』への研究は必要不可欠である。

 まず、喬氏は『律疏』の形式上の特徴を整理する。『律疏』には初期の姿を残す敦煌本と宋元以降の刻本の二系統が存在している。元の律文の存在を前提として書かれ、疏文だけが書かれる敦煌本は経疏の単疏本に近く、律文を分離させて見出しとし疏文を付す形式の刻本は注疏彙刻本に近い。

 次に、『律疏』の疏解の具体的な検討と『正義』との比較に移る。第一に、『律疏』の篇題の疏文で「篇の次第の意義」を説く点に注目する。これは經学に於いても典型的に見られる手法であり、その共通性が認められる。但し『律疏』の場合、皇侃の義疏に代表される牽強付会の説とは異なり、真を捉えている場合も多い。故に、義疏の影響を完全に否定することはできないにしても、基本的には律学の自然な発展の結果と言えるだろう。ここには、皇侃疏を継承しつつも空理玄虚な説を排除した孔頴達『正義』に近い態度が見受けられる。第二に、『律疏』の「事同文異而無其義」という語と、『正義』の「無義例」という語の共通性とその背景を述べる。そもそも經学と律学は異なる原理で動いているのであって、それは杜預の「律注」に明らかである。杜預の「少しの異文に対して義例を立てない」という現実的・実践的即ち律学的な原則は、二劉から孔頴達にも共通しており、少しの異文に対しても完璧な理論体系を求める義疏学は『正義』で反駁されることとなった。この点にも『律疏』と『正義』の共通点が垣間見える。第三に、両者の相違点として、『律疏』は文義の解釈に重点を置かないという点が挙げられる。『律疏』は晋律から唐律に至る過程で体例が成熟しつつあった上、用いられている言葉も古語ではなく、文義への注釈は必要ではなかった。『律疏』の重点は、律を運用する上で必要となる補足事項が主であり、時おり存在する訓詁釈義の疏文も、伝統的な訓詁とは全く異なるものになっている。ここには、『正義』と比較した時の『律疏』の実用的な面が現れていると言えよう。尤も、少ないながらにも『律疏』にも歴史的背景を説明する疏文はあり、その権威性を高める役割を果たしている。また、時おり緯書や『孔子家語』、陰陽五行説を引く点には、「唐律―開皇律―北斉律」という継承関係に見える北学の系譜を感じさせるものがあり、学問の因襲関係も存在するのだろう。以上の四点をまとめると、『律疏』の疏解には現実的・実用的な色彩があり、これは律学そのものの本質である実践性に符合する。『律疏』の内容としては、経書の義疏と共通するところもあるが、義疏最大の特徴である論理や理論の追求は見られず、「疏」と名付けられているが「章句」に近いものがあると言える。

 結論として、義疏学と『正義』、『律疏』の内容の相異から、学術史を概観する。南北朝の義疏学は専門の学者によって行われ、その発展の自然な帰結として膨大で繁雑な理論を生み出した。律学はその学の特質と漢以後専門家が少なかったことから、このような発展は生まれず、『律疏』では具体的な例を平易に解説することが旨とされた。同時に編纂された『正義』も、義疏学を生み出した社会が失われた以上同じ学術は成り立たず、簡明かつ常識的な解釈を行った。両者の学問の整理と体系は大きな成果だが、終始平坦な解釈には生気が感じられず、理論や哲学に欠けるという点は否定できない。そこで生じる、より深層の哲学を求めようとする動きが、中唐以後の儒学の新展開へと繋がるのである。

 

盧文弨と疏・経典釈文の単行説(補遺)

 前回の記事について、有志の方より、「『経典釈文』の単行については、清初の頃から知られていたのではないか」とコメントを頂きました。少し調べてみたところ、あくまで一例ですが、以下のような言及例がありました。

顧炎武『亭林文集』巻二 音學五書後序
 嗚呼、許叔重『說文』始一終亥、而更之以韻、使古人條貫不可復見。陸德明『經典釋文』割裂刪削、附注於九經之下、而其元本遂亡。成之難而毀之甚易、又今日之通患也。『孟子』曰「流水之爲物也、不盈科不行。」記曰「不陵節而施之謂孫。」*1若乃觀其會通、究其條理、而無輕變改其書、則在乎後之君子。*2

 大意は、「許慎『説文解字』が、もともと「一」に始まり「亥」に終わる、秩序だったものであったのに、後に韻によって字を並び替えられた結果、その一貫性が失われてしまった。陸徳明『経典釈文』も、一書を断ち切り削り取って、それぞれが経文の下に附されたので、その原本はそのまま失われてしまった。一書を作り上げるのは大変難しいが、壊すのは大変容易い。云々」となりましょうか。

 『説文解字』を検索の便のために韻によって並び替えた本には色々とあるようですが、顧炎武が念頭に置いているのは、南宋の李燾の『五音韻譜』ではないかと思います。これは、『説文解字』の説解はそのままに、まず部首を二〇六韻で並べ替え、更に部首の内部の文字も二〇六韻で並べ替えたものです。調べる際には便利ですが、原著の体系を失っていることは、顧炎武の指摘の通りです。
 そして同じ文脈の中で、『経典釈文』が出てきます。同じく調べる際の便宜のために、経文に各条を附すという改変を行った結果、旧来の一書の姿を壊してしまったいうことが言いたいのでしょう。

 考えてみれば、経典釈文と疏を、前回の記事ではなんとなく同列に扱っていましたが、成立過程は言うまでもなく、後の合刻の時期なども異なっておりまして、単行本の話に関しては、同列に並べてよいものではありませんでした。
 ここで再度、前回引用した盧文弨説を見てみると、疏については「蓋正義本自爲一書、後人始附於經注之下。」とありますが、経典釈文については「古來所傳經典、類非一本。陸氏所見、與賈孔諸人所見本不盡同。」と言っているだけなので、盧文弨の見解を「疏・経典釈文の単行説」という一言で説明するのは不適当です。
 盧文弨説の重要な点は、『文献徴存録』がまとめているように、「疏と経典釈文はかつてともに経注とは別行していたため(うち疏の単行の指摘は、清朝考証学者の間では盧文弨が早い)、それぞれが基にした経注の文章は、現行本の経注とは異なっている可能性がある」という新見解を提出したところなのでしょう。

 またこの点について、別の有志の方から、関連する論文の紹介を受けました。→水上雅晴「近藤重藏と清朝乾嘉期の校讐學」北海道大学文学研究科『北海道大学文学研究科紀要』117、2005)
 水上先生は、『十三経注疏校勘記』の研究でよく知られています。特に、当時の学問的背景、社会的背景を考慮しながら、段玉裁や阮元、またそのほか校勘記担当者の実際の動きを明らかにする研究が多く、非常に興味深いです。上の論文もその一環のものですが、私が見落としておりました。
 この論文に、以下のように書かれています。

 『四庫全書總目提要』は乾隆四十六年(一八八一(※筆者注、一七八一の誤り))に献上されており、「豈に其の初め疏と註と別行するか」という書きぶりからは、当時、『爾雅』に限らず他の諸経の単疏本の存在が殆ど知られていなかったことが推察される。
 汪紹楹氏によると、乾嘉期の学者で単疏本の存在を最初に指摘したのは、盧文弨である。乾嘉期における著名な校勘学者たる盧氏は、「周易注疏輯正題辞」において、「・・・(※筆者注:前回紹介しました)」と述べているように、単疏本の存在を認識していた。この「周易注疏輯正題辞」は乾隆四十六年(一七八一)に書かれているから、『提要』が最初に完成する頃には単疏本の存在を知っていたのである。しかし、盧氏の著作中に単疏本を見たことは記されていないから、単疏本の実物は見ていないようである。
 管見によると、盧文弨が単疏本の存在を知ったのは、『七経孟子考文補遺』を読んだのがきっかけとなっている。・・・(p.103-104)

 以下、盧文招が単疏本の存在を知ったのは、『七経孟子考文補遺』がきっかけであると考えられる理由が述べられ、更に、その発見が銭大昕や阮元ら考証学者の間で共有されたことに触れられています。
 偶然前回の記事で、「周易注疏輯正題辞」において、『七経孟子考文補遺』に触れられていることを述べました。ここで『七経孟子考文補遺』が単疏本発見のきっかけになっているという話が出てきて、非常に興味深い指摘であると感じた次第です。

 さて、ついでですので、疏の単行本についてちょっとだけ余談。単疏本については、概説書を覗いてみると以下のようにあります。

 疏はもと経注とは別行し、我国の古写本や南宋初年覆北宋刊本などは単疏本であり、紹興年間経注疏合刻本ができ、宋末坊間に附釈音本を生じた。*3

 まずは、これが基本的な理解かと思います。(どの単疏本がどこに残っていてどこで見られるのかという点について、私はあまり整理できていませんので、いずれここでまとめてみようと思います。)

 ただ先日、東博の「顔真卿展」に行った際、経・注・疏を合わせて書いている唐代の抄本(毛詩並毛詩正義大雅残巻、東京国立博物館藏)を見つけて、おおおおお!と興奮してしまいました。上段に経文と注文、下段に疏文を記すというスタイルで、後の合刻本のように文中に疏が入り込んでいる訳ではないのですが、いつの時代の人もやはりバラバラでは不便だったのだな、と思いました。調べてみると、この本については既に色々と研究はあるのですが、何かに気が付いたときの「!」というあの体験を何度でも味わいたくて、学問をやるのかもしれませんね。(棋客)

 

*1:礼記』学記篇「大學之法、禁於未發之謂豫、當其可之謂時、不陵節而施之謂孫、相觀而善之謂摩、此四者教之所由興也。」

*2:顧炎武『音學五書』は音韻学上非常に重要な著作です。すぐにオンライン上で読むことのできる論文に、渡邉大「顧炎武にとっての古音研究 : 「音学五書敘」および「答李子徳書」から」  があります。「叙」であって「後序」への言及はありませんが、平易で読みやすいもので、参考になるかと思います。

*3:長沢規矩也支那学入門書略解』