達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

頼惟勤『説文入門』を読む(一)

 『説文解字』並びに段玉裁『説文解字注』に関する、“高度に学術的な入門書”(語義矛盾にあらず)といえば、頼惟勤先生の監修にかかる『説文入門』(大修館書店、1983年)が有名です。参照→『説文入門』 | 学退筆談 

 本書の第三章「段注の実際」の第三節は「段注の会読(「一」)」と題され、頼先生を中心とする段注の読書会を擬似的に再現した様子が描かれています。ここで例に挙げられているのは、『説文』の冒頭、「一」の字を読み進めるところで、その高度な内容には圧倒されるものがあります。

 さて、最近、段玉裁『古文尚書撰異』をパラパラと眺めていたところ、『説文入門』との関わりでちょっと問題にしたい例が見つかったので、ちょっと皆様のご意見をお伺いしたいと思います。まず今回は『説文入門』の文章を読み進め、次回、問題提起を行うこととします。

 『説文解字注』の冒頭の原文を掲げておきます。

段玉裁『説文解字注』一篇上
 「一、惟初大極、道立於一、造分天地、化成萬物。」
 段注:漢書曰、元元本本、數始於一。

 このうち「大極」の部分について、『説文入門』で再現される読書会の様子を、ちょっと覗いてみましょう。なかなか面白い本だということが、分かって頂けるかと思います(p.171-172より、一部省略を交えて引用。下線、強調は引用者による。)

司会:まず以上について、説文のテキストによる文字の異同があれば指摘してください。
副講:説解の「大極」について、大徐本と小徐本とに相違があります。すなわち大徐本は「太始」で、小徐本は「太極」です。従って段氏は小徐に拠ったわけです。なお、「一」の説文は、この点のみ異同があり、あとはありません。
発難:ここはどうして「太始」では駄目で「太極」でなければならないのでしょうか。理由を挙げてください。
主講:理由と言われても困ります。もともと「太始」も「太極」も『周易』繫辭傳(上)の語です。すなわち「乾知大始」「易有大極」というように出て来ます。どちらが、より由緒ある語とも言えません。本当はどちらでもよいのではないでしょうか。
発問:この件は「始」と「極」との他に「大」と「太」との違いもからんでいるようですが……
主講:「大」と「太」とは字体の違いに過ぎません。いわゆる「大音泰」の場合で、どの道「タイ」(tai)です。「大小」の「大」(da) ではありません。
発問:『周易』の諸本では「大」「太」はどうなっていますか。
副講:一覧表を作りましたから次に掲げます。
主講:易についての異同の大略は阮元の『校勘記』でわかりますし、殊に足利本の場合は山井崑崙の『七經孟子考文』でさらによくわかるわけです。ただ、足利学校の「越刊八行本」については、影印本でつらつら見ましたところ、疏の基くテキストは「太始」「太極」とあって「太」ですが、それに附けられている経文は「大始」「大極」とあって「大」です。『考文』もそういうところまでは書いていないようです。
発問:そうするとここの易の宇体としては「太」と「大」とどちらが古いのでしょう。
主講唐石經・岳本・釋文所據など、易としては古い系統のものは「太」でなく「大」です。そうすると「大」がより古い形だと思います。段氏が「大」とするのもそういうことによるのでしょう。〔「大」「太」終り〕

 なお、途中に出てくる「一覧表」を見ると、以下のことが分かります。
 唐石經、岳本、釋文所據本、八行本經字は「大始・大極」に作り、八行本疏引は「太始・太極」に作り、通行本は「大始・太極」に作る。

 さて、まず前提知識ですが、『説文』という書物はその伝来に問題が多く、版本によって字句の異同が多い書物です(『説文入門』第一章を参照)。段玉裁は、その校訂作業と注釈作成の両方を行っているので、注釈を附すところだけでなく、『説文』の本文を定めるという作業においても、段氏の主張がにじみ出てきているものです。そしてしばしば、その過程は段注において言及されません。

 上のやり取りは、『説文』の代表的な版本では「太始」「太極」となっているところについて、段氏がなぜ「大極」の字句を選択したのか、何とか解き明かそうと試みているところです。
 なお、ここは「大」と「太」の相異と、「始」と「極」の相異の二種が交じっていてややこしいところですが、この記事で問題にしたいのは「大」と「太」の部分ですので、上ではその結論が述べられるところのみを引用しています。

 読書会の結論は、『周易』の各版本を調査したところ、古いものはいずれも「大」に作ることから、段氏は「大」を用いたのだろう、とするものです。ここで一応断っておくべきことは、『説文』の代表的な版本だけを調べるといずれも「太」となっているわけで、純粋に『説文』の校勘から考えれば、まずは「太」としておくのが普通、と考えられることです(「極」の方は実際の小徐本の字句に従っているわけで、また意味が異なります)。
 ただ、段玉裁という人は、何といえばよいのか分かりませんが、「そういうタイプ」の学者ではありません。自分の中で、理想的な形・正しい経文というものがはっきり固まっている場合であれば、多少武断に見えるところでも、どんどん字句を改めるタイプです。

 さて、今後の議題は、“「太」を「大」に改めた段氏の意図は、以上の説明でよいのか”という点にあります。次回ここを問題にして、少し議論してみます。
 細かな一例ではありますが、何と言っても大著『説文解字注』の冒頭であり、段氏が特に考えを練ったところであったはずです。『説文入門』でもこう述べられています。

 段氏のころの学問の水準では、説文の開巻第一の説解が「太始」である位のことは常識であったと思われます。それを破って「大極」としたところに、この大著の始めを飾る著者の意気込みを見るべきです。(p.173-174)

 少しでも「意気込み」を見るべく、頑張っていきましょう。次回に続きます。

(棋客)

銭大昕「與段若膺論尚書書」について

 最近、訳あって銭大昕「與段若膺論尚書書」を読んでいます。これは銭大昕が段玉裁と『尚書』に関して議論を交わした書簡であるということで考証学史において重要であると同時に、内容自体もなかなか興味深い書簡です。

 もとは、四部叢刊本『潜研堂文集』で読んでいたのですが、少し句点を確認しておこうと標点本を見たところ、銭大昕が見たら悲しむであろう誤字や句点の誤りを発見しました。標点本の誤りというのは日常茶飯事ですが、ちょっと面白い例だったので紹介してみます。
 ここでいう「標点本」とは、陳文和主編『銭大昕全集』(江蘇古籍出版社、1997)です。まずは内容の確認のために、冒頭から読んでみましょう。以下の句点は、一部カギ括弧を加えた以外は標点本のままです。

 承示考定『尚書』,于古文、今文同異之處,博學而明辯之,可謂聞所未聞矣。唯謂史漢所引『尚書』皆係今文,必非古文,則蒙猶有未諭。『漢書』儒林傳謂「司馬遷從安國問故。遷書載堯典、禹貢、洪範、微子、金縢、多古文説。」是史公書有古文説也。地理志「呉山,古文以為汧山。」「大壹山,古文以為終南。」是『漢書』有古文説也。

 銭大昕は、段玉裁による『尚書』の今文・古文の考定を評価しながらも(博學而明辯之、可謂聞所未聞矣)、段氏の主張する「『史記』と『漢書』に引かれる『尚書』は、全て今文に係る」という結論には、異議を唱えています(則蒙猶有未諭)。
 銭氏はその根拠として、①『漢書』儒林傳に司馬遷が古文説を採る場合があると指摘されていること②『漢書』地理志に「古文以為○○」の語が見えること、を挙げます。なお、ここでいう「段氏の『尚書』今文・古文の考定」は、最終的に段玉裁『古文尚書撰異』に整理されています。
 実際のところ、このようにすっぱり今文・古文を分けられるのか、というのは疑問の多いところですが、乾嘉の学のこの時期、更にその後の今文学派と呼ばれる人々にかけて、この問題が大きなテーマの一つとなっていたことは事実。

 とにかく、史記』と『漢書』が今文・古文のどちらを採るのか、というのが議論の主題。両者の相異は、段氏は今文であるとし、錢氏は古文も混じっているとする、というところにあります。以下、銭氏は『史記』と『漢書』が古文を用いる実例を列挙していくのですが、一部省略し、問題となる部分に進みます。

(中略)又如「漾」之為「瀁」、「冏」之為「臩」,此古文之見于許氏書者,而『史記』正與之同,是又『史記』兼用古文之明證也。
 足下以漢志、禹貢「瀁水」不從水旁,遂謂今文作「瀁」,『史記』亦當作「瀁」,淺人增加水旁。無論「莫須有」三字難以服天下,恐世間如此淺人正不易得。何也?淺人依『尚書』改『史記』,必改為「漾」,其能改作「瀁」者,必係通曉六書之人,豈有通人而肯妄改古書者!此可斷其必不然矣。
 『説文』以「瀁」為古文,則「漾」必是今文。『漢書』之「瀁水」即從古文而省水旁,决非今文別作「瀁」字。僕于經義膚淺,不敢自成一家言,聊罄狂簡,以盡同異,幸足下之教我也。

 ここは「漾」と「瀁」の字句の異同と、今文・古文の関係について述べるところです。銭氏の主張は、『説文解字』の「漾」字に「瀁、古文」とあって、『史記』は「瀁」を用いているのだから、『史記』も古文を用いることがあることが分かる、ということ。一緒に挙げられている「冏」と「臩」も同じ例です。(ここまで第一段落)

 問題が多いのは第二段落。まず、冒頭の「「瀁水」不從水旁」の語に、違和感を持たれないでしょうか。「いやいや、『瀁』って、『水旁』に従っとるやないかい!」ということです。
 版本に当たれば正解は一瞬で分かるのですが、折角なので、与えられた材料から推理していく体裁で進めていきましょう。この引っ掛かりを解く参考資料として、字句の異同は「尚書(現行本):漾」「史記:瀁」「漢書:養」という対応になっていることを挙げておきます。

 ①まず、“漢志、禹貢「瀁水」不從水旁”は、“漢志「禹貢養水」不從水旁”に作るべき。『漢書』地理志にそのまま「禹貢養水」とあって(正確に言えば、班固の自注に入っています)、この「養」は水旁に従っていないのだから…と続くわけです。
 ②次に、“遂謂今文作「瀁」”も、やはり“遂謂今文作「養」”に作るべき。『漢書』に「養」とあることから、段氏はそのまま「養」を今文と判定した、ということを言っています。「遂」は「それをそのまま」という語気。段氏にとっては、『漢書』が今文を採ると考えているので、ここも「養」は今文であろう、と考えるわけです。
 ③更に、“史記』亦當作「瀁」”も、やはり“史記』亦當作「養」”に作るべき。段氏にとっては『史記』は同じく今文ですから、現行本の「史記:瀁」は字句が改められており、もとは「養」だったはずで、そこに浅人が水旁を加えた(淺人增加水旁)と考えるわけです。

 最初の「漢志、禹貢」のところは、流れ作業で句点を入れるとうっかりしてしまいそうですし、その後のチェックもすり抜けてしまいそう。「養」が「瀁」になっている方は、版本を見れば明らかに「養」である上、「瀁」では文意が明らかに通じなくなるので、何とかしてほしい感じも。当然ながら、第三段落“漢書』之「瀁水」”もやはり誤字。
 つまり、「養」と「瀁」の区別が肝心なところなのに、「養」が全て「瀁」に化けてしまっているわけです。銭氏、そして段氏にしてみれば、自説の肝心な部分が解読不明になってしまっているということになり、ちょっとかわいそうです。念のため、四部叢刊本の画像を載せておきます。赤丸が「養」、青丸が「瀁」の字です。どちらも『説文』の字体に従っているので通行字「養」と字の作りが異なりますが、さんずいの有無ははっきり分かるでしょう。

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 さて、正しい句点になったところで、次は内容面に踏み込んで考えてみたいところですが、なかなか深い問題と関係してくるので、正確に整理するにはまだ時間がかかります。また期間をあけて書こうかと思います。

 さわりだけ段氏の説を整理しておくと、『古文尚書撰異』では「壁中故書:瀁」「孔安國:漾」「今文尚書:養」という対応、『説文解字注』では「壁中古文:瀁」「篆書:漾」「今文尚書:養(假借)」という対応で説明されています。ここには、銭氏と段氏の、『尚書』今古文の字句・義説に関する認識の差だけでなく、『説文解字』の体例に関する認識の差、『漢書』の体例に関する認識の差、といった幅広い問題が背景にあります。また、ここまで言えるかはまだ分かりませんが、単なる部分的な学説や認識の差ではなく、両者の思考法や考証法、学術の特徴の差といった話まで繋げられるかもかもしれません。もっとも、上記の通り重要な書簡ですので、既に研究があるかもしれませんが。

 余談ですが、少し不思議なのは、「中国基本古籍庫データベース」の字句も上の標点本と全く同じように誤っていること。版本で明らかに「養」のところを全く同じように誤るとは考えにくいので、もしかすると、標点本のデータをそのままデータベースに用いているのかもしれません。

・追記(2019.9.27)
 読者の方が、他の標点本についても調査して下さいました。
 まず、上の陳文和主編『銭大昕全集』の増訂版が、鳳凰出版社より2016年に出ています。これは同じく誤りを継承しているとのこと。
 もう一つ、活字版で出た少し古い本の、呂友仁標校『潛研堂集』(上海古籍出版社、1989)にもこの手紙が収められています。こちらでは、基本的に正しい字に作ってあります。(但し、「漢志禹貢瀁水」のところの標点は同様に誤っていました。)
 古い標点本の方が正しい、というのは少し悲しい結果ですね。

(棋客)

「達而録」活動記録

 ここ1~2年の間、ネット上の中国学界隈で、色々と新しい企画が始動しています。私が直接見知った人が行っているものだけでも、このようなものがあります。

東洋史の院生botさん:「宮崎市定科挙』を読む会」等の読書会。
中国史史料研究会さん:学会「中国史史料研究会」の運営、会報・会誌の発行。
東京大学漢詩研究会さん漢詩の創作、鑑賞サークル。『楚辞』の読書会。

 これはほんの一部の紹介で、他に少し調べただけでも、三国志漢詩、書道、漢方医学、小説・イラスト創作など、相当に広範囲で企画が試みられています。このようなネット上での交流の試み、まとめてリストにしてみると面白いかもしれませんね。

 さて、我々「達而録」グループも、いかんせん地味ではありますが、読書会なら負けてはいません!! そしてアピール不足は否めませんが、他の活動も色々やっています!! ということで、本ブログ開設後の活動を、備忘録の意味も兼ね、振り返ってみようと思います。

①漢文の読書会(原典の講読)

・研究室の学生同士の読書会:『日知録』、『世説新語』、『中庸』の新注・古注読み比べ(これはある先生の主催)など

・外に開かれた読書会:『文選』(学部生や国文関係の院生が参加)、『左伝旧疏考正』と『尚書古文疏証』(東洋史の学部生が参加)、『経義述聞』(外部の方が参加)など

 このうち現在進行中のものは、『中庸』の新注・古注読み比べと、『経義述聞』読書会です。また、いつ何が始まるか分かりません。外部の方が参加される際、直接その場に来られない時には訳文や資料をデータで送付し、エア参加して頂いていることもあります。この辺りは、試行錯誤しながら良い形を探っているところです。

②論文読書会

 研究室の学生と、ころころメンバーが替わりながら実施中。このブログのカテゴリー「論文読書会」に入っている記事は、この時のレジュメを整理したものです。
 去年は相当ストイックにやっていたのですが、今年に入ってから数回しかできていないので、復活を目論んでいるところです。論文を読み、要点を整理し、その批判を行うという作業は、論文を「書く」上で必要不可欠なことだと思っています。

 以上が読書会関係のもの。まとめると何だか少なく見えますが、それぞれ数回以上はやっていることを考えると、なかなかの数ではないでしょうか。

③本ブログの執筆

 そこそこの量の文章を、できる限り分かりやすく、質を保って書こうと試みています。読者の方やブックマーク、スターの数も徐々に増えてきて、嬉しい限りです。実際に上手くいっているかは分かりませんが、このぐらいの記事を週に一回というのは、実はなかなか大変です。
 例えば、中国古典の翻訳書の紹介記事などは、アクセス数もそこそこ多いようです。少しでも皆様の参考になっていれば良いのですが…。

④『中国思想史研究』廃棄本の配布

 これは純粋なボランティアで個人的に行った作業で、もう廃棄分の処理は終了しているので、今後はもう何もできることはありません。しかし、数日間の猶予の中で、曲がりなりにも千冊以上の本を救うことができました。オンライン公開されている論文は半分以下という状況ですから、貴重なものを残すことができたと思っています。

 もし本の妖精がいるのであれば、いつか我々を救ってくれるのではないでしょうか?

⑤「達而録」会議

 中の人やその関係者が集うただの飲み会…ではありません。苦境にあえぐ文系研究者が、今後いかに生き残っていくべきなのか、お酒の勢いに任せ議論しています。先日、その様子をツイッターライブにて実況してみました。前回は本の紹介をしただけですが、また機会があればやってみたいと思います。

 さて、実はこのブログも、そんな「語り合い」の中から生まれた場所です。正直に言えば、「瓢箪から駒」で始まったものです。当初は、日頃のちょっとした勉強の成果を、どのように文章にして「発信」してゆくのが良いのか、手探りで進めながらその技術を身につけようという算段でした。
 少しずつ板に付いてきた感じもするので、そろそろ次のステップ、つまり「研究者として、今後いかに生き残っていくべきなのか」というところへ進んで、色々考えているところです。これは上品な言い方で、結局は「自分の研究を、どうやってお金に換えていくか」ということになるわけですが、そのためにはまだまだ足りない所が多いのも現実です。これは「能力不足」というのがもちろん最も大きな要因ですが、「どのような場を設ければ、それが実現できるのか」というアイデアが足りていない、という面もあります。

 まず第一歩ということで、Amazonのほしいものリストを公開します!

 加えて、半年後を目途に、ある企画を準備しているところです。それまでしばらく、今まで通り「地味」な活動が続きますが、応援よろしくお願いします。

地元の儒者を尋ねて―「亀井南冥」篇・おまけ

 中哲ブログということで、前回までの記事の中に出てきた「典拠のある言葉」を、少し振り返ってみましょう。第1回はこちら。第2回はこちら。

 まず、修猷館の「修猷」という言葉。これは尚書』 微子之命の一節を踏まえる言葉です。修猷館高校の公式サイトには、このように書かれています。

 修猷館の名は 『尚書』 の一篇「微子之命」の中の「践脩厥猷」を典拠とする。
 「践脩厥猷」は「厥(そ)の猷(みち)を践(ふ)み修(おさ)む」と読み、「その(成湯の偉大な)道を実践し修める」ということである。「微子之命」は、周の成王が微子を宋の国に報じた時の誥命であり、殷の祖である成湯(湯王)の猷を修めて有徳の誉高い微子に、永く殷の祭祀を継承させようとしたものである。

※引用元:践修厥猷・六光星・孔子像 / 福岡県立修猷館高等学校

 『尚書』微子之命の該当部の前後を引くと、「爾惟踐修厥猷、舊有令聞。」とあり、偽孔傳では「汝、微子、言能踐湯德、久有善譽、昭聞遠近。」(あなた、微子は、湯王の道を踏み治めることができ、久しく善い誉れを受け、その評判は遠くにも近くにも伝わっている。)と解釈されています。
 公式にここまで解説されているのでもう疑問はないのですが、「微子之命」は偽古文ですので、一応そのもう一段階前までさかのぼってみたくなるものです。
 あまりぴったりした例はないのですが、「踐脩」は『左傳』文公元年「踐脩舊好、要結外援。」の例があります。杜預注は「踐、猶履行也。」といいます。
 いずれにせよ、きちんとした典拠のある校名があるというのは、羨ましいものです。

 続いて、甘棠館の「甘棠」という言葉。これは『詩』國風・召南にある「甘棠」の詩を踏まえています。この詩は、詩序に「甘棠、美召伯也。」とあるように、伝統的には召公を讃える詩として解釈されてきました。「甘棠」とは直接にはナシやリンゴの木を指すようですが、それだけではなぜ校名に採用されるのか分からないので、もう少し読んでみましょう。
 詩の冒頭は、「蔽芾甘棠、勿翦勿伐、召伯所茇。」という一説から始まります。ここの鄭玄箋には「茇、草舍也。召伯聽男女之訟、不重煩勞、百姓止舍小棠之下、而聽斷焉。國人被其德、說其化、思其人、敬其樹。」とあります。
 つまり、召公は甘棠の木のそばで民衆の訴えを聞いて善政を行っていたため、みなその甘棠の木も敬うようになった、ということ。とにかく良いイメージのある言葉なわけですね。

 続いて、当仁小学校の「当仁」という言葉。これは論語』衛靈公の一節の「子曰、當仁不讓於師。」(子曰く、仁に当たっては師にも譲らず。)から来ているのでしょう。孔子の教えをそのまま校名にしているパターンです。
 「当仁」が、小学校のある場所の地名である「唐人町」に引っ掛けてあるわけで、なかなかお洒落な校名ですね。「師にも譲らない」という大胆な言葉を学校の名前にしてよいものか逡巡してしまいそうですが、そこを敢えて名付ける辺りに、ちょっとした心意気があるのかもしれません。(そこまで考えていたのかは分かりませんが…笑。)

 最後に、「咸宜園」の「咸宜」という言葉。これはそのまま読んでも「咸な宜し(みなよろし)」となって意味は分かりやすいですが、そうはいっても、ただ意味から考えて名付けられたものではなく、経書に典拠のある言葉を選んで名付けています。これは『詩』商頌・玄鳥の「殷受命咸宜、百祿是何。」という一節から取られています。「玄鳥」は、詩序によれば高宗を祀った頌ということです。

 最後に、今日出てきたところを一覧にまとめてみましょう。

修猷:『尚書』微子之命「爾惟踐修厥猷、舊有令聞。」
甘棠:『毛詩』國風・召南・甘棠「蔽芾甘棠、勿翦勿伐、召伯所茇。」
当仁:『論語』衛靈公「子曰、當仁不讓於師。」
咸宜:『詩』商頌・玄鳥「殷受命咸宜、百祿是何。」

 身近なところにも、典拠のある言葉というのは隠れているものですね。(棋客)

地元の儒者を尋ねて―「亀井南冥」篇・下

 前回の続き。同じ部分図を掲げておきます。全体は→[福岡城下町・博多・近隣古図] - 九大コレクション | 九州大学附属図書館

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 今回は地図の下側に見える「今川橋(旧今川橋)」が出発地点。

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 今では「裏通り」と呼ばれ、写真でも完全な裏道に見えるこの道、実は唐津・福岡・小倉を結ぶ「唐津街道」に当たり、江戸期には福岡城下のメインストリートでした。
 当時の面影は、この道を東西に進むと商店街にぶつかるところに残っています。まず、西に進むと徐々に店が増え、そのまま西新中央商店街中西商店街)に入ります。

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 時は天明4年(1784年)、福岡藩藩士の教育のため、西学問所と東学問所を開設します。西学問所は「甘棠館」、東学問所は「修猷館」と名付けられました。この時、甘棠館の館長となったのが亀井南冥です。なお、金印が発見されたのもこの年です。

 前回述べたように、亀井南冥は荻生徂徠の弟子筋ですから、甘棠館では徂徠学を講じていたようです。しかし、寛政2年(1790年)に「寛政異学の禁」が始まると、朱子学以外の学問は逆風に立たされることになります。修猷館朱子学派でしたから問題はなく、甘棠館だけが存続の危機に立たされたようです。結局のところ、寛政10年(1798年)、甘棠館は大火事で焼けた際にそのまま廃止となってしまいます。

 しかし、修猷館の方は存続し、後に「修猷館高校」として名を知られることになります。先程の商店街から更に西へと足を延ばして途中で北に折れると、修猷館高校に行きつきます。

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 「東学問所」なのにだいぶ西に建っているのは、一度移転しているから。現在の修猷館高校近辺は文教地区として整備されていて、西南学院大学福岡市博物館などが並んでいます。

 ここで足を戻して、今度は「今川橋」から、東へ(つまり福岡城下の中心へ)進んでみましょう。古地図で言うと、この辺りです。

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 斜め下から来ている下側の太い道が唐津街道。「古簗橋」(後のやな橋)が架かっていますが、ここは今では暗渠になっています。

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 歩いてみると、橋の欄干だけが残されていました(写真左)。写真右はその交差点。手前から奥に抜けるのが唐津街道で、道の向こうは「黒門」という地区。川が暗渠になったのは十数年前の話なので、筆者はここの左右に川が流れていたのをまだ覚えています。

 この道をそのまま進んでいくと、一度明治通りに突き当たるのですが、そこも真っすぐに突き抜けると、今度は唐人町商店街にぶつかります。つまり、かつてのメインストリートには商店が立ち並び、幹線道路としては適さなくなったため、逆に今では裏通りになっている、ということですね。

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 先の古地図でいうと、 「古簗橋」を東に渡って最初に交差する道が、上の写真左の交差点です。ここまで「唐津街道」を示す標識は全くありませんでしたが、唐人町商店街の入り口に、唐津街道がここで折れることの表示が出ていました(写真右)。せっかく歴史のある道なのですから、もう少し標識を増やしてほしいものです。

 ここで商店街に入らずに次の交差点まで歩くと、「西学問所跡」の石碑が建っています。ようやくゴール。きっと南冥も、この道を歩いていたのでしょう。

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 写真右は、商店街の中にある「甘棠館」の名前が冠せられた施設。パン屋やラーメン屋や文具屋、小劇場が入っています。
 この辺りは、福岡城の防御の関係上、寺社や墓地が多く設置され、現在も「歴史の町」という印象の街並みになっています。「唐人町」「黒門」といった地名にも、レトロな雰囲気が漂っていますね。詳しく知りたい方には、読みやすいものでは柳猛直『福岡歴史探訪 中央区編』海鳥社、1996)がおススメ。

 前回、上の古地図の作成は1802~1804年ごろだと書きました。「甘棠館」の焼失は1798年ですから、甘棠館は上の古地図には載っていないということになります。

 余談ですが、甘棠館跡地のすぐそばには、「当仁小学校」という小学校があります。

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 こ、これは典拠の香り…。ここまで「修猷」「甘棠」「当仁」と、中哲典拠おじさんの血が騒ぐワードが出てまいりましたが、ここでぐだぐだと説明するのも気が引けるので、また次回に回したいと思います。

 なお、甘棠館はすぐに焼失してしまいましたが、亀井南冥のもとで学んだ弟子には俊英が多いのです。最も有名なのは、大分の私塾「咸宜園」の創立者として知られる、広瀬淡窓でしょうか。咸宜園は日本最大の私塾とも言われ、のちに高野長英大村益次郎を輩出したことで知られています。おっと、「咸宜」も典拠のある言葉ですね。

 最後に、まとめとして、今回歩いた道を載せておきます。

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 赤いマーカーが唐津街道、青点がブログに写真を載せた地点。地下鉄の通る太い道が明治通りです。

 普段は漢文ばかり読んでいますが、地元の歴史を掘り返してみるのも楽しいものですね。(棋客)

 

おまけもあります。