達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

顧千里『撫本禮記鄭注考異』と段玉裁(4)

 続きです。前回はこちら

 且千里又云「偏者、唐律謂之偏犯。『疏義』云、偏犯者、謂複名單犯、不坐。」

 愚按、此「奏事犯諱」條、「二名偏犯不坐」、自是唐人語、用禮「不徧諱」之意、而非用禮之「偏諱」字。如千里説、「偏犯」卽禮之「偏諱」、然則經云「不可偏諱一字」、律云「偏犯一字不坐、犯二字者乃坐」、何禮之嚴而律之寛、豈後人之律不出於聖人之禮耶。『五經正義』『唐律』皆進於永徽四年、其時『禮記』未誤、桺州拜監察御史、在貞元十五年、尚未誤、至開成石經而誤矣、此固名儒所不闚者、不得因其有數字勝於俗本者、遂以燕石爲結綠也。

 『唐律疏義』に、諱を犯した場合の罰則が記されています。ここにはっきり「偏」の字が使われているのですが、段氏はこれを「不徧諱」の意から取った「偏」であり、禮に「偏諱」とあるから「偏」の字を使ったわけではない、とします。

 「何禮之嚴而律之寛・・・」辺りは前回述べた段氏の誤解に基づく批判ということになりそうです。

 千里又云「岳氏『沿革例』踵毛氏之誤、云合作徧。又云、不敢與蜀大字本興國本輕於改也。是在宋時竟有因誼父之言而輕改經文者、其爲誤不淺。」

 愚按、『九經三傳沿革例』云「曲禮二名不偏諱、偏合作徧。」亦引疏「不徧諱者」云云、亦引舊杭本桺文載子厚「奉敕二名不遍諱」云「此作遍字、是舊禮作徧字明矣。然仍習旣久、不敢如蜀大字本興國本輕於改也。」『沿革例』之言如此。夫岳氏與毛氏所據疏、皆宋淳化景德時所刻單行疏文也、其可信者一也。岳氏與毛氏所見桺文奉敕作遍同、其可信者二也。毛氏以徧易偏、其可信者三也。有可信三而倦翁不敢改、識力不足也。千里謂蜀大字興國本從毛氏之説改字、是東坡所重、毛岳校經所據之北宋本乃在嘉定後也、其顚倒何如耶。

 ここでは、文献的な面から顧氏に反対します。

①毛氏・岳氏の引く疏文に「徧」とあり、これは單疏本の系統を引く正しい字句であるはず。

②毛氏・岳氏の見た柳宗元の文に「遍」と引かれている。

③毛氏は徧を偏に改めている。

④顧氏は蜀大字・興國本は毛氏の説に沿って字を改めたとするが、この両本は蘇軾が重んじたものであり、北宋の本であるはず。一方、毛氏の校經は南宋の嘉定の頃であるから、顧氏の説は前後が転倒している。

 ④については段氏の誤解に基づくものであることが、喬秀岩「學《撫本考異》」(『学術史読書記』、2019)によって指摘されています。文献学的知識の面においては、顧氏に軍配が上がるようです。

 千里又云「檀弓亦作偏、可證。」

 愚謂、不學無識之人、旣改其一有不改其二者耶。毛氏書此冣爲佳處、岳氏知其善而不能從。千里乃力辨其非、是可以校經否。

 又按、注「不徧謂二名不一一諱也」。文理必如是、各本奪上不字、則愈令學者惑矣。凡若此類、不必有證佐而後可改。

 檀弓篇に「偏」とあることについては、同様に改められただけ、として片づけてしまいます。顧氏が自説の大きな根拠の一つとした『釈文』については、特に言及はありません。

 そして、鄭注に「徧、謂二名不一一諱也」とあるのは「不徧、謂二名不一一諱也」であることを指摘します。これは正しいでしょうし、顧氏もこう考えていると思います。ただ、「則愈令學者惑矣」という表現からすれば、この読み違いが原因で顧氏は誤ったのだと、段氏は考えているのかもしれません。

 

 さて、両者の議論が概ね整理できました。次回、王念孫説を引いて、まとめにいたします。

(棋客)

顧千里『撫本禮記鄭注考異』と段玉裁(3)

 今回は、前回紹介した顧説に猛反対した段玉裁の説を整理しておきましょう。長いので、少しずつ切りながら見ていきます。

 段玉裁『經韵樓集』巻十一・二名不徧諱説

 曲禮曰「不諱嫌名、二名不徧諱。」各本徧作偏。今按、以徧爲是。注曰「嫌名謂音聲相近、若禹與雨、丘與區也。(原注・略)不徧、謂二名不一一諱也。」

 按、一一諱者、謂人子人臣語言、於二名諱其一、又諱其一、是之謂徧、徧二者而諱之也。不徧二者而諱之、則語言閒或必用上一字、或必用下一字、有斷不能易者、用其一而已、旣用此一矣、則一夕之話斷不再出彼一字。良由孝子忠臣之心、道其一已不自安、寧有不檢而更道其一之理。非不欲徧諱、而有所妨礙於人事、故緣人情而制禮如此也。説文云「徧者、帀也。」曲禮云「歲徧。」曾子問云「告者五日而徧。」尙書曰「徧于羣神。」凡閱歷皆到曰徧。今人誦書、逐字不漏者爲一徧、是其義。然則二字而次第盡舉之、所謂徧也。何以不云「二名不皆諱」、而必云「不徧諱也」。皆者、總計也。徧者、散計也。云皆、則義未憭。故必云徧。古聖賢立言之精如此。

 整理しておきます(一部省略)。

①鄭玄がいう「一一諱」とは、二字の名においてそのうちの一字を諱み、また更にもう一字を諱むこと。これを「徧」という。二字の両方にわたって諱むのである。

②すると「不徧二者而諱之」とは、「どちらか一字を使った場合に、もう一字は使わない」、ということを指している。

③孝子・忠臣の心としては、片方の一字を使うだけでも心が安んじないのであり、「徧諱(二字両方を諱むこと)」をしたくない訳ではないのだが、人事に妨げがあるので、このように禮を定めた。

 

 以下、この避諱の規則についてもう少し説明しているのですが、そこは飛ばして以下の段。

 (略)此經作「不徧諱」、唐石經以下作「偏諱」、乃譌字之甚者。偏徧易譌、故俗字以遍易徧。偏諱、則二名諱一之謂。不偏諱者、乃必二名皆諱之、謂其義適與經相左。今人幸有「言徵不稱在、言在不稱徵」之文、不則此禮竟泯滅不傳矣。

 宋毛居正『六經正誤』不能皆是、而此條獨是、云偏本作徧。引正義「不徧諱者、謂兩字作名、不一一諱之也。」又引舊杭本桺文作遍。固可訂今經疏之繆字、確不可易矣。

①「徧諱」については上で説明した通りであるが、「偏諱」の方は、「二字の名のうち、片方の字だけを諱むこと」を言う。

②ということは、「不偏諱」は、「片方の字だけを諱むことがない」、つまり「二字の名を両方諱むこと」、ということになる。

③鄭注の挙げる具体例「言徵不稱在、言在不稱徵」を表す上では、これはおかしい。

 よって「徧」が正しい、とするのが段説。初回に紹介した毛説と同じ論理です。そして以下で、顧説に猛烈に反対します。

 顧秀才千里作『禮記攷異』乃云、偏是而徧非。其説曰「鄭以一解偏、不一一者、皆偏有其一者也。」如其説、僅舉一爲偏、則經當云「二名則偏諱」、何以言「二名不偏諱」也。一可以解偏、一一不可以解偏、而可以解徧。不一一不可以解不偏、而可以解不徧。云「皆偏有其一」、無論語拙、仍是「徵、在」二字皆諱其一、仍是不徧諱而非不偏諱。必改經文作「二名則偏諱」、改注作「二名不一諱」、而後可云偏是徧非、而又非「言徵不言在、言在不言徵」之旨矣。毛氏『正誤』岳珂『沿革例』亦云「若謂二字不獨諱一字、亦通。但與康成所注文意不合。可見傳寫之誤。」二君亦明知作偏之非矣。乃千里謂「毛氏誤讀正義、造此臆説、桺文舊本斷斷無有」何耶。

①顧氏は、「鄭玄の「不一一」は、偏って片方の一字だけを諱むの意」であるとしている。

②「不一一」=「偏」であると鄭玄が考えていたのなら、もとの経文は「二名則偏諱」でなければならない。実際の経文は「二名不偏諱」なのでおかしい。

③「一」は「偏」と解してもよいが、「一一」は(二字の両方を含むから)「偏」ではなく「徧」である。

④經文を改めて「二名則偏諱」とし、注を改めて「二名不一諱」とすれば、「二字の名前は、諱む際にどちらか片方に偏らせる」の意味になって、「偏」と言っても良いことになるが、これは「言徵不言在、言在不言徵」の鄭注と合わない。

 

 大筋は以上のところです。しかし、ここには段氏の重大な誤解があります。

 というのも、段氏は顧説を引いて「鄭以一解偏、不一一者、皆偏有其一者也。」としていますが、ここの顧氏の原文は「其鄭云不一一諱者、乃以一解偏。蓋一一者、皆偏有其一者也。」です。(むろん、段氏の見た本には誤字があって「不」になっていたという可能性も否めませんが。)

 前回も説明したように、顧氏は、鄭注は「偏」⇒「一一」と解釈するから、偏諱」⇒「一一諱」としている、と考えるわけです。そこには特に矛盾は存在していません。

 よって、段氏が②・④で「偏⇒一一ならば、もとの経文が「二名偏諱」であるべき」、というのは全くの誤解です。誤解に基づいて顧説を読み取ってしまった結果、肯定と否定が入れ替わり、逆になったわけです。

 ここには、顧説が言葉足らずで分かりにくいという事情もあるかもしれません。盧文弨説ならば分かりやすいと思うのですが、段氏は知らなかったのかもしれませんね。

 

 段氏の攻撃はまだまだ続きます。続きは次回

(棋客)

顧千里『撫本禮記鄭注考異』と段玉裁(2)

 第1回はこちら

 今回は、顧千里説を整理しておきましょう。

 ざっと経緯を整理しておくと、『十三経注疏校勘記』の原稿の完成は嘉慶十一年、張敦仁が宋撫州本『礼記』を影印し顧千里によって『考異』が書かれたのも同年、段玉裁の反論が嘉慶十二年の書簡です。

 まず、課題の経文を掲げておきます。

『禮記』曲禮上

〔經〕禮、不諱嫌名、二名不偏諱

〔注〕為其難辟也。嫌名、謂音聲相近、若禹與雨、丘與區也。偏謂二名不一一諱也。孔子之母、名徵在、言在不稱徵、言徵不稱在。

 この条に対する顧説が下。前回紹介した『十三経注疏校勘記』所載の説に反応していることは明らかかと思います。『礼記』の『校勘記』に段玉裁の手が加わっているのかというのは確証のないところのようですが、この顧説に対してのちに段氏が猛反対していることを考えれば、少なくとも段氏が『校勘記』と同説であったことは確かです。

 顧千里『撫本考異』巻上・曲禮上「二名不偏諱。」

 毛居正曰「偏本作徧、與遍同。注云云、正義云云。今本作偏、非也云云。」

 今案、毛説非也。唐石本作偏、不作徧。『釋文』不為此字作音、以前後「徧」字音相例、可知此作「偏」矣。『正義』亦無作徧之意。其鄭云不一一諱者、乃以一解偏。蓋一一者、皆偏有其一者也。毛誤讀注及『正義』、造此臆説。又引舊杭本柳文以實之、不知柳自作偏。『唐律』謂之「偏犯」。『疏義』云「偏犯者、謂複名單犯。」舊杭本柳文特譌字耳。岳氏『沿革例』踵其説云「合作徧」、又云「不敢加蜀大字本興國本輕於改也」。是在宋時竟有因誼父之言而輕改經文者、其爲誤不淺。又檀弓下同此文、亦可證。

 なお、『撫本考異』の底本には、国家図書館にて公開されている嘉慶十一年刊本を用いています。皇清經解所収本も見ておきましたが、大きな違いはありません。

 顧千里は「偏」が正しいとし、毛説を斥けています。その根拠を整理しておくと、

①唐の開成石経が「偏」に作っていること。

②『釋文』がここに音義を付していないこと。『釋文』曲禮上「徧祭、音遍、下注同。」、曲禮下「歲徧、音遍、本又作遍、下同。」(「歲徧」はこの条より後ろに出てきます)の例から考えれば、「徧」ならここに音義が付されるはず。

③『正義』の説明からも「徧」の意があったとは読み取れない。

④鄭玄が「不一一諱」というのは、「一」の字によって「偏」を解釈したもの。「一一」とは、「かたよって一つだけがある」ことを示す。

⑤『唐律』に「偏犯」とある。舊杭本の柳宗元集の「遍」(毛説の根拠の一つ)は誤字。

⑥『禮記』檀弓下にも「二名不偏諱。」とある。

 

 『正義』の見たテキストは、『釈文』の見たテキストは、鄭注は…と一つ一つ遡ってゆく議論に、顧千里らしさ、また文献学者らしさを感じます。

 実際のところ各本「偏」に作る上に、『釈文』の例と『禮記』檀弓下の例を加えれば、やはり少なくともテキストとしては「偏」字であったと考えておくのが自然ではないかと思いますが、皆さまはどうお考えでしょうか?

 

 ただ、そうすると「二名不偏諱」をどういう意味で読むのか、というのが問題になります。顧千里がこれをどう理解していたのか、上文だけでは少し分かりにくいのです。(少なくとも、私はよく理解できませんでした。)

 ここでいろいろ調べて行き着いたのが、盧文弨(1717-1795)の説です。これで疑問が氷解します。

盧文弨『鍾山札記』卷三・二名不偏諱

 『記』曲禮云「二名不偏諱」、今人頗有作「不徧諱」者、余每以其誤輒為正之。今乃知彼亦有所本。相臺岳氏有『刊正九經三傳沿革例』中有云「二名不偏諱、偏合作徧。疏曰、不徧諱者、謂兩字作名、不一一諱之也。案、舊杭本柳文載子厚除監察御史、以祖名察躬辭奉勅、二名不遍諱、不合辭。據此作遍字、是舊禮作徧字明矣。」此皆岳氏珂所説、余以為不然。若如其、「二名不徧諱」則必專指定一字諱、一字不必諱、始得謂之「不徧諱」。今以孔子「言徵不言在、言在不言徵」考之、則二字皆在所諱中、但偏舉其一則不諱耳。岳氏唯據柳文、何不考韓文所引固是「偏諱」明甚。安知柳文非俗本傳寫之失、抑或當時宣勅者失考之、過未足依據。偏字義圓、徧字義滯、細體會之自見。

 盧文弨説のうち、「徧」と「偏」の相違について整理しておきます。

①「二名不徧諱(二名徧くは諱まず)」は、「二文字の両字を諱むことはない(=一字だけを諱む)」、つまり「どちらか一字を決めてそちらだけを避諱し、もう一字は必ずしも避諱しない」ことを指す。

②「二名不偏諱(二名偏りては諱まず)」は、「どちらか片方の字に決めてそちらだけを避諱するのではない」ことを指す。

 

 前回述べたように、ここは、孔子の母の諱が「徵在」であり、孔子は「在」の字を言うときには「徵」と言わず、「徵」の字を言うときには「在」と言わなかったことを示す条です。

 盧氏の解釈は、「徵在」という二字の名を諱む際、「徵」の字だけを諱み「在」は常に用いるor「在」の字だけを諱み「徵」は常に用いる、ということはなく、両字ともに諱む対象として用いた、とするものです。

 顧千里が「其鄭云不一一諱者、乃以一解偏。蓋一一者、皆偏有其一者也。」というのも、これと同じ解釈かと思います。鄭玄の「一一」は「全てどちらか片方に偏ること」を指しており、「不一一諱」でこれを否定していると考えるわけです。

 

 盧文弨は段氏、顧氏より前の人ですが、両氏はこの説を知っていたのでしょうか。少なくとも段氏は知らなかったように思うのですが、その話は次回

(棋客)

顧千里『撫本禮記鄭注考異』と段玉裁(1)

 顧廣圻(字は千里、1766-1835)は、清朝考証学を代表する文献学者の一人です。段玉裁(1735-1815)に激賞され、『十三経注疏校勘記』の作成などに従事し、『説文解字注』の校勘者としても名前が見えています。

 しかし、顧千里と段玉裁はいくつかの学説を巡って衝突し、ついには絶交してしまうことになりました。三十歳の年齢差を隔てながらも学問を通して結ばれた仲が結局破壊されてしまうとは、なんとも悲しいものです。詳しくは以下の記事をご参照ください。

 顧千里の生き方 | 学退筆談

 陳鱣の徒労 | 学退筆談

 この二人の論争がいかなるものであったのか、自分なりに調べてみたので、今日から紹介していこうと思います。

 なお、二人の論争の概要については、汪紹楹「阮氏重刻宋本十三經注疏考」(『文史』3輯、1963)附録「段顧校讎篇」や喬秀岩「學《撫本考異》」(『学術史読書記』、2019)、「禮記版本雑識」(『文献学読書記』、2018)に詳しいので、合わせて参考にしてください。

 

 両者のもっとも有名かつ激烈な論争は「四郊」と「西郊」に関するものですが、これについては以下に解説があります。

 校勘学者の正義 | 学退筆談

 

 今回は、『禮記』曲禮上「禮、不諱嫌名、二名不偏諱。」の条に関する両者の説の相異を見ていきます。まずこの条を読む上での前提を整理しておきましょう。

『禮記』曲禮上(阮元本)

〔經〕禮、不諱嫌名、二名不偏諱

〔注〕為其難辟也。嫌名、謂音聲相近、若禹與雨、丘與區也。偏謂二名不一一諱也。孔子之母、名徵在、言在不稱徵、言徵不稱在。

〔疏〕正義曰、「不徧諱」者、謂兩字作名、不一一諱之也。孔子「言徵不言在、言在不言徵」者、案『論語』云「足則吾能徵之矣」是言徵也。又云「某在斯」是言在也。案、『異義』「公羊説譏二名、謂二字作名、若魏曼多也。左氏説二名者、楚公子弃疾、弒其君即位之後、改為熊居、是為二名。許慎謹案云、文武賢臣有散宜生蘇忿生、則公羊之説非也。從左氏義也。」

 ここは避諱の規則を述べるところ。まず、「不諱嫌名(嫌名を諱まず)」とは、鄭玄によれば、漢字の音が近いというだけでは避諱を行わないということ。

 今回問題となるのは、「二名不偏諱」の方です。問題になるとはいっても、これがどのような規則を指しているのか、という点についての鄭玄の説明は、具体例が出されているので比較的はっきりしています。

 孔子之母、名徵在、言在不稱徵、言徵不稱在。

 孔子の母の諱は「徵在」で、孔子は「在」の字を言うときには「徵」と言わず、「徵」の字を言うときには「在」と言わなかった。

 「二名」とは、「二文字の名前」のこと。この二文字の両方を同時に使わないのが避諱であって、常に両方の字を避ける必要はない。事実孔子は、「徵」の字を使うこともあるし、「在」の字を使うこともあるけれども、両方を同時に使うことはないじゃないか、と言っているわけです。この鄭説は、『禮記』檀弓下「二名不偏諱。夫子之母名徵在、言在不稱徵、言徵不稱在。」から来ているのでしょう。

 なお、疏は許慎の『五経異義』を挙げ、公羊説では「二名」を二文字の名前を持つ者とし、左氏説では「二名」を改名して二種の名前を持つ者としていることを述べています。これも興味深いですが、今回の話題とは無関係ですので、置いておきます。

 

 さて、ここで問題となるのは、「二名不偏諱」が上のような現象を表しているのは良いとして、その際に「二名不偏諱」の語がその現象を正しく表現できているのか?という点です。

 阮元『十三経注疏校勘記』には、以下のように書かれています。

 二名不偏諱

 各本同。毛居正云「偏本作徧、與遍同、作偏誤。『正義』云、不徧諱者、謂兩字不一一諱之也。此義謂二字為名、同用則諱之。若兩字各隨處用之、不於彼於此一皆諱之、所謂「不徧諱」也。按、舊杭本柳文載「柳宗元新除監察御史、以祖名察躬、入狀奏、奉勑新除監察御史、以祖名察躬、準禮二名不遍諱、不合辭遜。」據此作遍字、是舊禮作徧字明矣。今本作偏、非也。若謂二字不獨諱一字亦通。但與鄭康成所注文意不合。可見傳寫之誤。然仍習既久、不敢改也。」

 ここで、宋の毛居正『六経正誤』による、「偏」は「徧」に作るべきとする説が引用されています。よく見ると、先に引用した疏文も「徧」に作っていますね。

 「偏pian1」は「かたよる」で、歪である、全面的でない、正確でない、の意。

 「徧bian4」は「遍」と同字で、普遍である、全面的である、の意。

 つまり、ここでは「二字を両方とも諱むわけではない」ことを示しているのだから、「二名不徧諱(二名徧(あまね)くは諱まず)」が正しいのではないか、と主張しているわけです。
 「二名不偏諱(二名偏(かたよ)りては諱まず)」では、二字のうち片方に偏らずに両字とも避諱すべし、の意になってしまうということでしょう。

 なるほど、一理ある考え方に思えます。

 

 さて、ここから「段顧之争」の幕が上がります。「偏」と「徧」との僅か一字の相違に、互いの経学観や学問的方法論の差が詰まっているわけです。

 全五回の記事になります。合わせて、盧文弨や王念孫の説も紹介する予定です。乞うご期待!

続きはこちら

(棋客)

吉野町・東吉野村に行ってきました

 本ブログの中の人の一人が住んでいる奈良の奥地を。研究室のメンバー数名で訪れました。自然豊かなとても良いところでした。写真を残しておきます。

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 桜のシーズンはあと一~二週間後ということでまだ一分咲き程度でしたが、たまに満開の木もありました。不思議なものです。

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 絶景。桜の季節は見渡す限りピンク色に染まるようです。再チャレンジしたいところですね。

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 金峯山寺。ここは結構桜が咲いていました。

 

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 東南院

 

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 吉水神社。

 

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 東吉野村の山の中にある、私設図書館にお邪魔してきました。家の近くにこんな場所があったらな、と思います。

 →人文系私設図書館 Lucha Libro

 

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 今年は学部・大学院ともに卒業式が中止になってしまいましたので、代わりに自主卒業式を開催いたしました。飲み会ではありません。