達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

大学院生が好きな小説・五選

 気分転換に、好きな小説を語るのもいいのではないかと思い立ちました。「大学院生が好きな」とかいうとんでもなく大風呂敷を広げたタイトルがついていますが、完全に私の独断と偏見によります。

 基準としては、物語としての豊饒さ、エンターテインメント性に優れていると同時に、研究・歴史・文学といった学問的な営為、そして「物語を語るとはどういうことだろう」ということを考えさせてくれるような作品をピックアップしています。

 以下、さも小説を読みまくっているかのような口調で解説していますが、実は全くの素人です!

 

グレアム・スウィフト 『ウォーターランド』(真野泰訳)

 ある歴史教師が、生徒に対する最終講義として、その街と土地の歴史、一族の歴史、そして彼自身の歴史を語る物語。地史であり、自然科学史であり、また殺人ミステリーでもあります。彼は歴史を語るうちに、歴史とは何か、なぜ歴史を語るのか、どうして物語が紡がれるのか、そんな考えを深めていきます。

 というわけで、私は私の科目を引き受け、背に負った。というわけで、私は歴史を―手あかのついた広い世界の歴史ばかりでなく、わがフェンズの祖先たちの歴史も、というよりはこちらをとりわけ熱心に、調べはじめた。というわけで、私は歴史に〈説明〉を求めるようになった。しかし、ひたむきに探究するうちに、最初に抱えていたよりもかえって多くの、神秘や怪奇、不思議、驚愕の種を発見することとなり、四十年ののちには―自分が選んだ学問分野の有用であること、その教育に資するところ大であることを信じて疑わぬにかかわらず―歴史は一つのお話であるという結論に達することとなる。そして、私がずっと手に入れようとしていたのは、歴史が最後の最後に差しだす金塊のごときものではなく、〈歴史〉そのもの、つまり〈偉大なる物語〉、空虚を満たす埋草、暗闇に対する恐怖心を追い払ってくれるもの、だったのではないだろうか?(p.93-94)

 接続詞の多用が心地よいリズムを生み出しています。彼の歴史の授業は、一方的な語り掛けではなく、プレイスというクラスの優等生にして問題児の野次や問いかけを通して、その相互の関係の中でより充実し、ドラマチックな展開を迎えます。

 彼の最終講義は一風変わったもので、以下のように語りかけが始めります。彼らが住む「フェンズ」(イングランド東部沿岸の平野)は、かつては水の広がっていた土地(ウォーターランド)であり、これを干拓することからその歴史が始まりました。彼は干拓にかかる困難、利益と弊害、そして干拓地であることと今日のフェンズの関係などを述べ、こうまとめます。

 だから歴史に出てくる革命とか転換期だとか大変化、そんなものは忘れてしまってほしい。代わりに考えてほしいのは、干拓という、多大の時間と労力を要するプロセスのこと。沈泥作用の人間版ともいうべき、いつ果てるともない、あいまいなプロセスのことである。(p.22)

 全てを飲み込む雄大な自然と、そこで働くちっぽけな人間一人一人の動きが語られます。歴史とは誰のための歴史で、誰を語ることが歴史なのでしょうか。またある授業では、代々の人間の研究によって明かされた自然の謎(ウナギの生殖について)が説明されます。自然科学の探求であり、また未知なるものを探検する人間の歴史でもあります。

 ここで紡がれた豊饒な物語は、到底語り切れません。ぜひ、手に取って読んでみて下さい。同じ作者の『マザリング・サンデー』もおすすめです。

 

劉慈欣『三体』(立原透耶監修、大森望・光吉さくら・ワンチャイ訳)

 言わずと知れた、今まさに話題沸騰中の中国SF。Amazonの商品の宣伝コメントには、ジェームズ・キャメロンバラク・オバママーク・ザッカーバーグだの錚々たる顔ぶれが並んでいます。

 もちろん、日本でも大ヒット中です。この作品が日本でも売れたということに、不思議な嬉しさを覚えます。私は中国語版・日本語版を両方読みましたが、翻訳版も非常によい出来栄えであると思います。

「まもなくわかる、すべての人間が知ることになる。汪教授、これまでに、人生が一変するような経験をしたことは?その出来事からあと、世界がそれまでとは全く違う場所になってしまうような経験」

「いいえ」

「では、先生のこれまでの人生は幸運だったわけだ。世界には予測不可能な要素があふれているのに、一度も危機に直面しなかったのだから」

(略)「たいていの人はそうじゃないでしょうか」

「では、たいていの人の人生も幸運だった」

「でも…何世代にもわたって、人間はそんなふうに生きてきた」

「みんな、幸運だった」

(略)「今日の私はどうも頭がまわらないらしい。つまりそれは……」

「そう、人類の歴史全体が幸運だった。石器時代から現在まで、本物の危機は一度も訪れなかった。われわれは運がよかった。しかし、幸運にはいつか終わりが来る。はっきり言えば、もう終わってしまったのです。われわれは、覚悟しなければならない」(p.71-72)

 終始ドラマチックで、特に「三体」のゲームをめぐる展開は秀逸というほかありません。

 さて、的外れなことを言っているかもしれませんが、翻訳小説はSFの強みがよく出るように感じます。SFは設定とストーリー展開がまず重要ですから、翻訳によってその言語独特の文学的表現・含蓄とやらが(ある程度)失われても、その本来の魅力が損なわれにくいと思うのです。しかも、劉慈欣氏の作品はもともとそういう要素が薄いですから、逆に言語を越えて広く受け入れられやすいのではないでしょうか。

 …って、「SFは文学ではない」とかいう筒井康隆の『大いなる助走』みたいな話になってきましたが、そういうことが言いたいわけではありません。

 

円城塔『文字渦』

 現代日本のSFから、いやSFなのかよく分かりませんが、そういうジャンル付けを拒否するような円城塔の作品も、色々な方に味わってほしいものです。これについては以前記事を書きました。

chutetsu.hateblo.jp

 円城塔の作品も、英訳は当然として、中国語訳もちらほら出始めています。もっとも、ルビや漢字を使って遊んでいる作品などは、到底翻訳できない気もしますが…。

 

ボルヘス『伝奇集』(鼓直訳)

 「大学院生が~」なんてタイトルをつけてしまったせいで、徐々に無難に「名著」と呼ばれるものを紹介しとこうか、という気になってくるのは困りものです。これも引用付きで紹介したいのですが、引っ越しの際に友人邸に預けたままになってしまいました。

 ボルヘスは序文で、長編になりそうなアイデアから実際に長編を書くのは面倒であるから、そういう長編の本が既に存在することにして、その本に対するブックレビューを書いて作品とすればよいので、といったことを書いています。(そして、実際にそうして書かれた短編が収録されています。)

 人によって印象に残る作品は異なるでしょうが、私はやっぱり「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」が大好きですね。何度読み返したか分かりません。どういう内容なのか、少し紹介してみます。

 

 では、ちょっと思考実験をしてみてください。ここにある「文章」があって、その意味内容が何なのか考えているとしましょう。「文章」には必ず「書き手」がいますね。この「文章」を通して、「書き手」が「読み手」に伝えたいこと(その意味内容)を伝達する、という状況です。

 ということは、まずはこの「文章」が変われば、当然その「意味内容」は変わってきます。では「文章」が同じなら「意味内容」が不変というと、そう単純ではありません。「文章」が同じでも、「読み手」が変わった場合、その読み取り方は究極的には人それぞれですから、「意味内容」は変化します。(同じ『論語』の文章であっても、漢代の鄭玄、宋代の朱熹、現代の日本人、によって読み取られた内容は多種多様ですね。)

 では、最後の実験です。仮に「文章」と「読み手」は同じまま、「書き手」だけが変化した場合、どうなるでしょうか。というより、そもそも「書き手」だけが変化するとは、どういう状況でしょうか。まずボルヘスは、「文章」と「読み手」は同じまま、「書き手」だけが変わる、というシチュエーションを上手く作り上げます。そして、「書き手」が変わった場合、その読解が変化し、意味内容が変化することを見事に示しています。

 この現象自体は、あちこちで見受けられるものです。同じ発言でも、AさんがするのとBさんがするのとでは何か違う、というのは皆さんも感じたことがあるでしょう。中国古典で言えば、孔子を「誇り高き理想主義者」として見るか、「虚勢を張った悲劇の田舎人」として見るかによって、『論語』の読解が変わってくる現象なんかを思い浮かべればいいでしょうか。

 ボルヘスの「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」は、この現象を鮮やかに描写し、一丁上がり!と人を感嘆せしめる作品です。

 

 ちなみに中国の教科書には「八岐の園」が載っているそうです。これは物語の主人公が中国人だからということですが、これを教育現場でどのように読んでいるのか、全く想像がつきません。

 より読みやすいものから入りたい方には、ボルヘスの晩年の語りを記録した『七つの夜』 がおススメです。そういえば、円城塔の小説でも相当にボルヘスが意識されていますから、先にボルヘスを読んだ方がよいかもしれませんね。

 

村上龍『五分後の世界』

 日本があの戦争で降伏せず、戦い続けている世界線、そのパラレルワールドに飛ばされた主人公の格闘と羨望を描く作品。色物に見られそうなテーマを、圧倒的なリアリティと社会観から描いて読者を黙らせることに長けた作者の代表作、と言えるのではないでしょうか。

 下は、このパラレルワールドで使われている歴史の教科書の一節です。強烈な刃が隠されているのが分かるでしょう。

 自分の生命を大切にしない人間が、他の人間の生命を大切に思うことはできません。それでは、なぜ当時の日本人は、生命を大切にしなかったのでしょう。また、なぜそれほどまでに「無知」だったのでしょう。 

 それは、それまで本当の民族的な危機というものを体験したことがなかったからです。まわりを海で守られていたために、他の民族と戦うことがなかったので、他の民族や国を理解することがいかに大切か学ぶことができませんでした。そして、生命というものはそれを積極的にそんちょうしなければ守れないものだということも学ぶことはできませんでした。

 もし、本土決戦を行わずに、沖縄をぎせいにしただけで、大日本帝国が降伏していたら、日本人は「無知」のままで、生命をそんちょうできないまま、何も学べなかったかもしれません。 

 このパラレルワールドを理想化するでもなく、また貶めるでもなく、最前線から首脳部まで、上から下までを描き尽くした作品です。同時に、終始スリリングなアクションものでもあり、人々の熱狂と狂乱を描き出す筆致も見事なものです。

 「最後の一文が衝撃」なんていう使い古された宣伝文句に、最もふさわしい作品なのではないでしょうか? ほかに、『半島を出よ』も大好きですが、とても長いのでこちらをおすすめにしました。

 

 みなさん、師走なんて呼ばれる忙しい時期ですが、年末年始に時間を取って、読書に勤しむのもよいのではないでしょうか(^^)。

(棋客)

2020年中国関係の新著案内!

 昨年末、こんな記事を書きました。

chutetsu.hateblo.jp

 

 これの2020年版を執筆しました。(一冊、2年前の本が混じっています)

 コンセプトは同じで、「高い質を備えながらも、初学者でも気軽に読める本」を紹介します。歴史や哲学、中国に興味のある高校生や大学生のみなさま、少し違う世界に目を向けてみたい社会人のみなさま。外出しにくいこのご時世、家で読書なんてのもいいのではないでしょうか!

 

神塚淑子『道教思想10講』(岩波新書、2020)

 研究者の間では、道教の全体像は捉えにくいということがよく言われる。実際、道教という言葉が含む内容は幅広く多様である。道教の経典を見ても、哲学的・教理学的なものから種々の民間信仰的なものに至るまで多彩であり、儒教に近い内容のものもあれば、仏教とよく似た内容のものもある。さまざまな性格が混在していて、一体どこに道教の中心があるのか分からなあくなりそうなこともある。しかし、多様な要素を包み込みつつも、一つのまとまりとして認識されて、道教は存在している。その道教について、思想面に焦点を当てて、そのエッセンスを分かりやすく伝えることが、この講義の狙いである。(p.2)

 難解な道教思想を長年専門に研究されてきた著者が、分かりやすい語り口で書いた道教の入門書。

 中国思想の概説書などでは、道教思想は必ず登場するとはいえ、さらっとした説明で済まされていることが多く、なんだかよく分からないまま等閑にしてしまう、なんてこともあるかと思います(筆者です)。

 講義形式でテーマごとに整理された本シリーズは非常に読みやすく、全く予備知識のない方でも手軽に読むことができます。広くアジア圏の思想に興味のある方、また中国の歴史に興味のある方におすすめいたします。

 

金文京『三国志の世界』(講談社学術文庫、2020)

 二〇〇五年の本が文庫になって再版されたもので、一部修正も加えられています。この「中国の歴史」シリーズは粒ぞろいで、日本で出版されたのちにすぐさま中国語訳が中国で発売されました。近年の中国歴史物のシリーズの中で、最も成功したものと言ってよいのではないでしょうか。川本芳明『中華の崩壊と拡大―魏晋南北朝』も好きでよく読んでいます。

 本書の魅力は、日本人に馴染みの深い『三国志演義』と、史実の上での三国志とを比較しながら、事実を探求する面白さと、人が物語を紡ぎだす営みの力強さが描かれていることです。また、他の三国志本に比較して、文化面の発展や変化(儒学、文学、仏教、民衆の風俗など)がかなり手厚く触れられているのも、本書の特徴と言えます。

 誰でも楽しく読める本です。おすすめ!

 

武田時昌『術数学の思考―交差する科学と占術』(臨川書店、2018)

 術数学とは、自然科学の諸分野と易を中核とする占術とが複合した中国に特有の学問分野である。科学と占術は、アウトプットの形式、運用の目的は異なっている。しかし、理論の組み立て方は、老子や易の数理や陰陽五行説を共通の基盤とし、定式的な自然把握と技術操作的な側面において、両者は類縁関係にある。…占星術錬金術や伝統医療を見ればわかるように、自然探求の学問が思想、宗教と占術の境界領域に自生することは、中国に限ったことではない。今日のように科学と迷信、俗信をはっきりと峻別していたわけではなく、サイエンスの域を逸脱した言説も数多く存在するが、数理的思考や博物学的考察を発揮する場がそこにはあった。(p.18)

 世界のどの地域でも、かつては科学と迷信・魔術がきっちり分化せず、両者が渾然一体となりながら、世界の成り立ちを説明しようという営みが発展してきました。中国の場合、『易』と陰陽五行説を主軸にしながら、古くから高度な数学、暦法天文学、音律などの研究が進んだ一方、災異説や未来予測の讖緯思想も発達しました。

 この「術数学」研究の第一人者である氏による、待望の解説書が本書です。

 近代科学の合理主義的立場から眺めることによる最も厄介な弊害は、今日の科学的真理を基準として、非西洋型の思考様式に非科学、不合理のレッテルを貼ってしまうことである。中国科学の基礎理論や説明原理は易象数や陰陽五行説に依拠するが、それらは中国科学の迷信性を証明するものとして徹底的に糾弾される。古代ギリシャ四元素説が、自然哲学の根本原理として今でも広く認知されているのとは、雲泥の差である。(p.10)

 中国に限らず、広く学問史・科学史に興味のある方に推薦いたします。

 

川原秀城編『漢学とは何か―漢唐および清中後期の学術世界』(勉誠出版、2020)

第一部 両漢の学術
 今文・古文(川原秀城)
 劉歆の学問(井ノ口哲也)
 『洪範五行伝』の発展と変容(平澤歩)
 前漢経学者の天文占知識(田中良明)

第二部 六朝・唐の漢学
 鄭玄と王粛(古橋紀宏)
 北朝の学問と徐遵明(池田恭哉)
 明堂に見る伝統と革新─南北朝における漢学(南澤良彦)

第三部 清朝の漢学
 清朝考証学と『論語』(木下鉄矢
 清代漢学者の経書解釈法(水上雅晴)
 乾隆・嘉慶期における叢書の編纂と出版についての考察(陳捷)
 嘉慶期の西学研究―徐朝俊による通俗化と実用化(新居洋子)

第四部 総論:漢学とは何か
 清朝考証学における意味論分析の数学的原理と満洲語文献への応用―データ・サイエンスとしての漢学(渡辺純成)
 漢学は科学か?─近代中国における漢学と宋学の対立軸について(志野好伸)

  東西の研究者を揃え、各々の角度による「漢学」に関する論考を集めた本。内容は人それぞれですが、学問上、解釈学上の事柄に焦点を当てるものから、現実政治との絡みを考察するもの、実際の学問の伝授や指導を解き明かすものなど、バラエティ豊かな内容が揃っています。

 漢学という古臭い(?)テーマについて、現在の日本の学界ではどのような角度から研究するのが主流なのだろうか、ということを知りたい方におすすめです。

 

 みなさま、ぜひお気軽に手に取って読んでみてください!

(棋客)

ウィキペディアについての懇話会に参加してきました

 先日、こんな記事を書きました。

chutetsu.hateblo.jp

 記事の主旨は、専門家も積極的にWikipediaを執筆しようではないか、と提案する内容です。この記事に、既にその試みをなされている伊藤陽寿先生からコメントをいただき、イベントの紹介をしていただきました。

note.com

 専門家・非専門のウィキペディア執筆者が交流し、意見交換を行う場です。特に、琉球沖縄史に関連する方が多くいらっしゃっているようです。昨日、この会にお邪魔させていただきました。

 たいへん啓発を受ける会で、新鮮な情報を多く得ることができました。今後の自分の執筆のためだけでなく、Wikipediaの記事を見るときの見方も変わってくるようなお話を伺うことができました。

 備忘録を兼ねて、教えていただいた論文と、そこから辿って見つけた論文をいくつかシェアしておきます。

www.jstage.jst.go.jp

www.jstage.jst.go.jp

www.jstage.jst.go.jp

 

 そして、昨日の議題に上がっていたのが、以下の記事です。どちらも素晴らしい記事でたいへん勉強になりました。

ja.wikipedia.org

ja.wikipedia.org

(棋客)

Wikipedia執筆録(2)

 先週の続きです。Wikipedia執筆の際、迷った個所をメモしておきます。

②出典の書き方

 もう一つの悩みは、「出典を何から引っ張ってくるか」ということです。原典や正史の原文を引くか、辞書の記述を引くか、概説書・研究書の記述を引くか、何が適切なのかよく分かりません。例えば、私が加筆した「五経正義」の記事を見てください。(ちなみに現時点でのこの記事は、于志寧らによる刊定に触れるつもりでまだ書けていません。)

五経正義 - Wikipedia

 出典として、『北史』儒林傳上、『舊唐書』儒學傳上、福島吉彦先生の論文、野間文史先生の論文などが引かれています。

 「編纂者」の章の顔師古のくだりを除けば、ここに書かれている事柄は全て原典や正史の原文から引いてくることができるでしょう。逆に、両者の論文だけを使って、同じ内容を記述することもできます。つまり、現状ではかなり雑然とした引用の仕方になっているわけで、仮に論文で上の記事のような参照を付けていたら、間違いなくお叱りを受けます。

 これについては、やはり上の記事のような状態では違和感がありますし不親切ですから、基本的には現代の書籍・論文・辞書から引用するように統一したいと思います。

 ただ、あまり統一することにこだわってもなあ…という迷いもあります。もちろん全部原典にしてしまうと、漢文が読めない人は、そこから先のことを調べることができなくなってしまいますので、控えるべきでしょう。かといって、全て研究書にしてしまうのも、あまりに常識的な事柄の場合など、何から引用するべきか難しいです(原典なら一発です)。結局私一人が編集するわけではないので、勝手にルールを決めてもしょうがないというのもあります。

 まあ、脚注の引用表示に、原文があったり辞書があったり研究書があったりしても、それはそれで紹介される文献が増えるわけで、気にしすぎなくてもいいのではないでしょうか(専門外の別書からの引用は、そこからその本を調べても先のことが分からないので、控えるべきかと思いますが)。

 

 こういう細かいことになってくると、どう工夫すればその後様々な人が編集しても雑然としないようにできるのか、なかなか難しいですね。

(棋客)

Wikipedia執筆録(1)

 筆者が執筆・加筆したWikipediaの記事から、整理に当たって悩んだ点や、未だに悩んでいる点を紹介します。なお、どの記事も何も完成版というわけではないですし、私の編集後にまた別人が編集していることもあります。いろいろと問題を抱えていることは承知の上ですので、ご注意ください。

①章・節の分け方

 Wikipediaの執筆では、章・節の分け方というのが特に重要だと考えます。最初の段階で、各節が系統的に分けられていれば、その後に執筆する人はそれぞれの項目内に加筆していくので、ごちゃごちゃしたものになりにくいわけです。

 例えば、筆者が『孝経述議』の項目を作った時には、以下のように整理しました。

孝経述議 - Wikipedia

1 概要
2 伝来
2.1 中国における亡佚
2.2 日本における受容
2.2.1 林秀一による復元
3 内容
3.1 体裁
3.2 解釈の特徴
4 脚注
5 参考文献
6 関連項目

  「内容」は「伝来」より前に置くべきか、「著者」または「成立」の節があってもいいか、など色々考えることはあるので、完全なものとは思いませんが、一応整理した形で示すことができていると思います。

 ほか、こちらは加筆前から的確な記事でしたが、典拠などに手を加えた『論語義疏』の項目。

論語義疏 - Wikipedia

1 概説
2 特徴
3 伝来
3.1 中国における亡佚
3.2 日本における保存
3.2.1 抄本
3.2.2 版本
3.2.3 2020年発見の中国写本
4 脚注
5 参考文献

 さて、この手の単著なら章節の作り方にそれほど迷いませんが、経書になってくると、書くべきことが多く、どう整理すればよいか途方に暮れることになります。ここでは、『礼記』の記事を見てみてください。(私は少しだけ加筆しました。)

礼記 - Wikipedia

1 概要
2 『礼記』の成立
2.1 『小戴礼記』の成立
2.1.1 『隋書』経籍志説
2.1.2 銭大昕説
3 『礼記』の展開
3.1 漢代
3.2 魏晋南北朝
3.3 唐代
3.4 宋代
3.5 元代
4 『礼記』の内容
4.1 全49篇の配列
4.2 各篇の作者
4.3 各篇の単行
5 注釈書
6 邦訳文献
7 関連項目

 『礼記』はもともと記述の内容量が多く、私の作業は出典を加えたことと、記述に細かく分節を加えたことが主です。今後は、3.6に清代の礼記研究、3.7に日本における受容が欲しいでしょうか。また、「成立」の項目も、河間献王の発見がどうこうという話や、出土文献への言及にかなりの不足があると感じます。

 さて、細かい話は置いておいて、ここでは「成立」「展開(受容)」「内容」「注釈書」「邦訳文献」という章の分け方になっています。どの経書にしてもまず「成立」が曲者で、伝統的な理解、現代の理解、といったように書いていかざるを得ません。「展開」も、魏晋以降は比較的書きやすいですが、漢代の受容状況を書くのはとても難しいです。そもそも漢代の話になってくると、「成立」と「展開」を分けて記述することに無理があるのかもしれません。

 次に、当たり前ですが「内容」も簡単には記述できません。野間先生の『五経入門』のように、「目次+一言の説明」というのが結局は最も分かりやすいかもしれませんね。『礼記』の項目の場合、私より以前に編集した方が「篇名+『三礼目録』の分類+内容の要約」を表にしており、一目で分かりやすい記事になっていると思います。

 「注釈書」は、「展開」の中に入れ込んで書くことも可能ですが、確かに分けて掲出した方が親切です。これも以前に編集した方が執筆されたところです。どなたか存じ上げませんが、ありがとうございます。

 ちなみに、『論語』の場合は、「論語の注釈」というページが独立して設置されています。『論語』ぐらい数が多いとこれもありかと思います。

論語の注釈 - Wikipedia

 

 経書の他の例として、『詩経』の記事を見てみてください。こちらは、私はまだ手を付けきれていない項目です。

詩経 - Wikipedia(2020年8月17日 (月) 07:35版)

1 構成
2 六義
3 作者
4 受容の変遷
5 テキストについて
6 主な完訳版
7 脚注
8 関連項目
9 外部リンク

 典拠がつけられているところもあり、内容自体は詳細でよいのですが、パッと章を見て、どう整理されているのかかなり分かりにくく感じられないでしょうか。

 実際にご覧になっていただければ分かる通り、この記事の内容を今から整理しようと思うとものすごく、ものすごく大変です。先ほど、後の編集者の加筆を考えると、最初の章節の立て方がとても重要、と言ったのが分かっていただけるかと思います。

 尤も、『詩経』や『書経』といった項目の場合、今文・古文のテキストの問題がとても大きく、どうしても系統的に記述するのが難しいというのはあります。なかなかに悩ましい問題ですが、いま試しに『詩経』の章節を考えてみたのが以下です。

1.概要
2.成立
2-1.作者
2-2.三家詩と毛詩
3.内容
3-1.構成
3-2.作品の特徴
3-3.「六義」の概念
4.展開
4-1.漢代
4-2.魏晋南北朝
4-3.唐代
・・・
5.注釈書
6.日本語訳
・・・

 現在の『詩経』の内容・構成を説明するためには、これが「毛詩」に基づくことは説明せざるを得ないので、「成立」を最初に持ってきてテキストの問題を整理することは必要かと思います。「内容」と「展開」は、『礼記』では逆順になっていますが、こちらの方がしっくりくるでしょうか?

 この修正は大規模なものになるので、すぐには執筆できそうにありませんし、上の章立てで良いかどうかもまた考えなければなりません。

 

 また来週、続きを書きます。

 

 さて、こうしたややこしいことは置いておいて、執筆に当たって原典や研究書を読み返すのは、なかなか勉強になり、思わぬ発見があるものです。意外と楽しみながら執筆できています。まだ不慣れでミスが多いですが、執筆する価値はあると思いますよ。

(棋客)