達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

王国維「釈理」を読む(1)

 以前、こんな記事を書きました。

chutetsu.hateblo.jp

 喬志航「王国維と「哲学」」(『中国哲学研究』20、2004)を読んでいて、王国維「釈理」の冒頭で阮元「塔性説」の話が出てきていたことを思い出しました。「釈理」は、王国維がショーペンハウアーの影響を深く受けながら記した論文で、読み解くのはなかなか難しいのですが、喬志航氏の論文を座右に置き、少し挑戦してみましょう。

 以下、『王国維遺書』所収の『静安文集』に収められている「釈理」を底本として、翻訳していきます。

 昔阮文達公作《塔性説》,謂翻譯者但用典中「性」字以當佛經無得而稱之物,而唐人更以經中「性」字當之,力言翻譯者遇一新義為古語中所無者,必新造一字,而不得襲用似是而非之古語。

 昔、阮文達公(阮元)は「塔性説」を著し、以下のように述べた。(仏典の)翻訳者が、(中国の)古典の「性」の字によって、仏典にある(漢語では)称することのできない概念に当てはめ、唐の人は更に経書の中の「性」の字に(仏教での「性」の概念を)当てはめた。翻訳者は、古語の中に存在しない新たな意味に遭遇したなら、必ず新たに字を創作せねばならず、似て非なる古語を(訳語として)襲用してはならないと阮元は力説した。

 「塔性説」の内容を忘れてしまった方は、上の記事を読んでみてください。簡単に言えば、「stūpa」の翻訳語として「塔」という字が創作されたのと同じように、漢訳仏典において「性」と訳されている概念は、中国古典の「性」の概念と全く異なっており、「性」の字で訳すべきではなかった。しかし、「性」の字で訳してしまったせいで混乱が生じ、中国古典の「性」の字を理解する際にも仏典の意味での「性」が混同されてしまった、という内容です。

  王国維はこの阮元の説を冒頭で引用し、以下で自説に移ります。

 是固然矣,然文義之變遷,豈獨在輸入外國新義之後哉。吾人對種種之事物而發見其公共之處,遂抽象之而為一概念,又從而命之以名,用之既久,遂視此概念為一特別之事物,而忘其所從出。如理之概念,即其一也。吾國語中「理」字之意義之變化,與西洋「理」字之意義之變化,若出一轍。

 これは確かに正しいのだが、しかし、言葉の意義の変遷は、ただ外国から新たな意義が輸入された後にだけ起こるというわけではない。我々は様々な事物に対して、その共通性を発見し、そのままそれを抽象化し、一つの概念を作ると、それに名称を与える。その概念が長く用いられると、その概念は一つの特別な事物として見られるようになり、そのもとの出どころは忘れられる。

 つまり、言葉の意義の変遷というものは、外国文化との接触(阮元の例では、仏教の受容)だけを要因として起こるものではなく、より普遍的に見られる現象なのだと王国維は説きます。

 ここから、中国で脈々と受け継がれてきた経書に込められた真理、揺るぎない経義というものを自明のものとして受け取っている阮元と、一つの文化の中でも言葉の意義が時間的に変遷することを自覚している王国維の相違を読み取れそうです。

 そして、王国維は以下のように述べ、本題に入ります。

 如理之概念,即其一也。吾國語中「理」字之意義之變化,與西洋「理」字之意義之變化,若出一轍。今略述之如左。

 たとえば「理」の概念は、その一つである。本国における「理」の字の意義の変化は、西洋における「理」の字の意義の変化と、軌を一にしているようだ。いま、そのあらましを以下のように述べる。

 ここから、中国の「理」概念を探究する試みに入っていきます。

 (一)理字之語源 《説文解字》第一篇:「理,治玉也,從玉里聲。」段氏玉裁注:「《戰國策》「鄭人謂玉之未理者為璞」,是理為剖析也。」由此類推,而種種分析作用皆得謂之曰「理」。鄭玄《樂記》注:「理者,分也。」《中庸》所謂「文理密察」,即指此作用也。

 (一)「理」字の語源について 『説文解字』第一篇は「理とは、玉を治めることをいう。玉に従う。里の聲」という。段玉裁の注は「『戰國策』に「鄭の人はまだ加工していない玉を璞と呼ぶ」とあり、この「理」は剖析の意である」という。ここから類推すると、種々の分析作用はいずれも「理」と呼ぶことができるのだ。鄭玄の「樂記」注の「理とは、分の意味」や、「中庸」で言うところの「文理密察」は、とりもなおさずこの作用を指す。

 「玉を治める」とは「玉を加工する」という方向で理解されることもありますが、段玉裁の感覚では「玉の良いものと悪いものを弁別していくこと」という意味なのでしょうか。

 ここで王国維は、段説に導かれて、まず分析作用を広く指す言葉としての「理」を述べています。

 由此而分析作用之對象,即物之可分析而粲然有系統者,亦皆謂之理。《逸論語》曰:「孔子曰:美哉璠璵!遠而望之,奐若也;近而視之,瑟若也。一則理勝,一則孚勝」,此從理之本義之動詞而變為名詞者也。

 ここから、分析作用の対象、つまり分析が可能でありはっきりとした系統があるもの、これはいずれも「理」と呼ぶ。『逸論語』に「孔子は言われた。璠(宝石)は美しいものだ。遠くからこれを眺めれば、色鮮やかである。近くからこれを観察すれば、繊細である。一つは理がまさり、一つは孚がまさる」という。これは「理」の本義である動詞から変化して名詞となったものである。

 『逸論語』の引用は、もとは『説文』の「璠」字に「孔子曰…」として載せられている文章です。『初学記』や『太平御覧』で「逸論語」として引用されています。この文章はどう翻訳すればいいのかよく分かりません。

 更推之而言他物,則曰地理(《易・繋詞傳》)、曰腠理(《韓非子》)、曰色理、曰蠶理、曰箴理(《荀子》),就一切物而言之曰條理(《孟子》)。然則所謂理者,不過謂吾心分析之作用,及物之可分析者而已矣。

 更にこれを他のものに推すと、「地理」(『易』繋辞伝)、「腠理」(『韓非子』)、曰「色理」、「蠶理」、「箴理」(『荀子』)などといい、あらゆるものに対して言うと「條理」(『孟子』)という。つまるところ、いわゆる「理」とは、自分の心の分析の作用と、分析可能な物をいうだけである。

 このあたりの資料のもとには、戴震『孟子字義疏証』などもあるでしょう。

 ここまでの内容を、喬氏の論文の言葉をお借りしてまとめておきましょう。

 中国思想における「理」という語の語義変化を追跡する際、王国維は時間の差異性を念頭に置き、歴史的にその変化を捉えようとした。言語の歴史性への言語論的視点に立ち、理の歴史的展開に沿いながら、理概念の含蓄を明らかにすることによって、自明だと思われてきた理の言説的な体系を相対化することができるようになる。理が歴史に由来することが判明すると、その絶対的自明性は疑わざるをえなくなる。その結果、理学そのものが、そこでは精神史の一エピソードとして歴史的相対的に理解されるに至るのである。(喬志航「王国維と「哲学」」、p.78)

 次回に続きます。

(棋客)

便利ツールの紹介:「Q漢字+」

 Wordで漢文の原典を引用しながら文章を書いていると、旧字体新字体の使い分けに苦労することがあります。文章編集ソフトとして「一太郎」を使っている場合は、また別の方法があるかもしれませんが、持っていない方も多いことでしょう。

 

 こうした悩みを解決してくれるのが、「Q漢字+」というソフトです。

www.eastvalley.or.jp

 Wordにインストールして使うことができます。このソフトを使うことで、選択範囲の旧漢字⇔新漢字の一括変換が簡単にできます。全選択すれば文章全体の漢字をまとめて変換することができます。また、原典部分のみ(もしくは地の文のみ)を選択すれば、原典部分は旧漢字・地の文は新漢字という使い分けもすぐに実現できます。

 

 ただ、「予」「余」「芸」「台」「弁」「岳」といったように、漢文資料を扱う上では区別が必要な字もありますね。これらは「プロパティ」の「下に指定された文字は変換しない」に記入しておくことで、変換しないように設定できます。

 また、「説」と「說」、「携」と「攜」など、変換してほしいけれども変換されない字があった場合には、「ユーザー定義変換」を用いることで、新たに変換すべき字を登録することもできます。

 

 もちろん、結局は自分でチェックすることが必要なのは言うまでもありませんが、少しは手間が省けると思いますので、ぜひご活用ください。

(棋客)

カブール陥落について―杉山正明『ユーラシアの東西』から

 8月15日、「カブール陥落」というニュースが世界を駆け巡りました。

 私の手元にある杉山正明ユーラシアの東西―中東・アフガニスタン・中国・ロシアそして日本』(日本経済新聞出版社、2010)のうち、氏の2009年の講演を記録した文章に、アフガニスタンについて語っている部分があります。私は全くの門外漢ですし、いつもは今日的な話題を取り上げることはない本ブログですが、杉山先生の語りに導かれて、一緒に学んでいこうと思います。

 Googleマップから、非常に簡単な地図を作っておきました。青線がインダス川。上側の緑のマーカーがヒンドゥークシュ山脈。下の緑のマーカーがスレイマン山脈です。大雑把なものですので、細かくはみなさまご自身でご確認ください。

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アフガン問題の元凶は国境線

 わたくしは三年ぐらい前に予言していたのですけれども、アフガン問題は解決しませんよ。もともと誰が悪いかといえば、イギリスです。イギリスが一八〇〇年代の末から、一九〇〇年代のはじめにかけて三回アフガニスタンと戦争をしているのです。イギリスは南下してくるロシアを防ぐためのガードが欲しいというか、「金ぐら」のインド亜大陸を守りたかったのですね。まさしくイギリス帝国主義大英帝国の繁栄のもとは多くインドにあったのです。インド亜大陸という意味ですよ。現在の国家としての “India"ということではありません。

 イギリスとアフガニスタンの戦争の一回目は、実はイギリスがぼろぼろに負けたのです。つまり海では勝てても、陸上戦闘能力では、馬の軍隊が勝ってしまうのです。山岳戦では「チンギス・ カンの軍隊」(騎馬と弓矢の兵のこと)がイギリス軍の歩兵隊に勝ってしまうのですよ。そこをやられたわけです。二回目はほぼフィフティ・フィフティだったですね。

 三回目は第一次世界大戦中にヨーロッパで手一杯のイギリスの隙をアフガニスタンが突いて、 デリーのすぐ間際まで進撃するのです。ようするに、イギリスは一貫して不利ないし劣勢なのです。結局、当時のイギリスの外務大臣デュアランドがアフガニスタン側と協定を結びました (デュアランド・ライン)。(以上、杉山正明『ユーラシアの東西』p.110-111より引用)

 「デュアランド・ライン」こそ、いまもアフガニスタンパキスタンを分断している国境線です。イギリスによるこの国境設定に問題があったことを、杉山氏は説明していきます。

 アフガニスタンの最大の問題点は、現在の国境は不自然だということです。真ん中にヒンドゥークシュ(ペルシア語で「インド人殺し」という意味)という巨大な山脈がパミールから来ていまして、その南北両側に国域があるのですね。ところが、アフガニスタンにはいろいろな人種がいるのです。その中心となるパシュトゥーン人というのは、まさに遊牧民なのです。それぞれの集団が小さい大名みたいなものだと思ってくださったら良いのです。江戸時代か、あるいは戦国時代かもしれません。

 現在はパキスタンアフガニスタンの境になっているスレイマン山脈という、これもかなり大きな山脈がインダス川の西側にあります。パシュトゥーン遊牧民というのは、実はもともとその スレイマン山脈の両側の山麓に遊牧していた人びとなのです。イギリスのミステークというのは、国境線をスレイマン山脈の真ん中で引いたということですよ。アフガン問題を皆さんもよくわからないなと思われるでしょうが、それはパシュトゥーン族がアフガニスタンをひとまず抑えているのだけれども、それはパシュトゥーン族の半分であって、もうひとつパシュトゥーンの居住地はパキスタンにあるからなのです。(以上、杉山正明『ユーラシアの東西』p.111-112より引用)

 つまり、もともと一つの民族であったパシュトゥーン遊牧民が、帝国主義のもとで分断されてしまったことに悲劇が始まるわけです。

 「それぞれの集団が小さい大名みたいなものだと思ってくださったら良い」というイメージは、中村哲の語るアフガニスタン像とも重なる所がありますね。
www.rockinon.co.jp

 

 では、どこに国境線を引くべきだったかということについて、杉山氏は以下のように持論を展開しています。

インダス川を国境にすべきだった

 ではどうすればよかったかというと、インダス川をもって国境とすることでした。イギリスは引くしかなかったのです。遊撃戦をやって負けているのですから。インダス川をもって国境とする、現在のパキスタンというのは存在しませんけれども。「パシュトゥーニースターン」(パシュトゥーン人の地)というのをスレイマン山脈の南北で作ればなんとかなった。ただし、そうすると今度はヒンドゥークシュの向う側、つまり北側のいわゆる「アフガン・トルキスタン」、ここが間題ですね。ロシアが南下してくるときにどうするか。当時は信託統治領という考え方というか、そういう状況がなかったですからね。ですから、デュアランドが北向きに国境線を設定 してしまったというのはやむをえない状況ではあったのだとおもうのですが、ともかく事情はそうです。

 ですから、構造的に解決するわけがないのです。それからパシュトゥーン遊牧民というのはさきほどもいいましたように、それぞれの集団が小さい大名のようなものなのです。谷や村が違うと別の集団なのです。それは一部の地域では農業開発・産業おこしをして何とかできるかもしれません。それは当然すべきでしょうね。しかし、それですべてが解決するなんてことはありません。たとえば、不用意に報道陣がある村に入ったりすると殺されますね。それは決しておかしなことではなくて、昔からの慣習にすぎません。

 ただし、彼らパシュトゥーンたちは仁義に篤くて、すごくいろいろなことを知っていて勇猛果取です。わたくしにペルシア語を教えてくれたパシュトゥーン人の友人もそうなのです。快男児といっていい男です。学部生のときに会ったのですが、今アメリカの大学の教師をやっています。(以上、杉山正明『ユーラシアの東西』p.111-112より引用)

 以上、アフガニスタン問題の源が分かりやすく整理されている文章だったかと思います。こののち、1979年末のソ連によるカブール制圧、10年ほどのちにソ連が撤退するも内戦は止まず、アメリカの介入、そして同時多発テロへと歴史は進んでいくわけです。(ちなみに私は同時多発テロはぼんやり覚えていて、このあたりに歴史と現実の区分があります。)

 さて、以上は2009年の講演録なのですが、実はこの本にはもう一つ、2002年の講演を記録した文章の中に、アフガニスタンについて語っている箇所があります。より古い文章ということになるわけですが、これも非常に興味深い文章ですので、合わせて読んでおきましょう。2002年というと、ターリバーン政権がアメリカを中心とする軍の侵攻によって一度崩壊した直後のことです。

 なお、わたくしはアフガン戦争は終わっているとはおもっておりません。ターリバーン政権が崩壊し、アメリカ以下の軍事作戦がひとまずの区切りをむかえただけのことで、アフガニスタン国内各地での戦闘はまだ当分ひきつづくことでしょう。その一方、このアフガン戦争を通じて、人類の歴史というのか、あるいは世界の歴史というべきものは、ある別の段階に入ったなという感じもします。それは何かといいますと、今わたくしは予定原稿に何もないことを、お話しさせていただいているのですが、アメリカが変わったということです。アメリカはこれまでは、海と空の帝国であったのですね。

 わたくしは、歴史研究の主要テーマとして、いわゆるモンゴル帝国とその時代というのをおもにやっているのですが、モンゴル帝国は、陸と海の帝国でした。かたやアメリカという「帝国」を象徴するものは、とくに空ですよね。巨大な海洋戦力、なかでも空母をもとにして、そこから飛び立つ航空戦力によって支配する。そして、さらには宇宙空間を支配する。あるいはEメールやインターネット、それからアメリカが得意とする巨大メディア、テレビ、映像、音楽なども加えてもいいかもしれません。つまり、目には見えない空間を飛ぶようないろいろな手段をもって世界を支配する。おそらく、人類史上で最初の真の「世界帝国」なんだろうと思いますが、それが今まで陸海空の三つの要素のなかで一番弱かったのは実は「陸の帝国」の側面でした。

 日本の沖縄をはじめ、世界各地の島嶼部や沿岸部にある基地はべつにして、歴史の古い一番大きな大陸であるユーラシアの中央部に、しかるべき拠点や基地、ヘッドクゥォータースなどをもっていませんでした。ドイツや韓国などにも基地はありますが、それらは所詮ユーラシア全体でみれば沿岸部でした。それが中央ユーラシアというか、ユーラシアの中央域に、ドンと入って しまったわけです。結果として、アメリカはアフガニスタンはもとより、ウズベキスタンカザフスタン、クルグスタンそしてトゥルクメニスタンを直接・間接に影響下におくことになりました。

 これは一体何を意味するかといいますと、中華人民共和国にとっては、裏庭に入られたことなのです。インドにおいては、頭上に入られた。イランにとっては、一番弱い、東の横腹に入られた。そしてロシアにとっては、南側の内懐に入られた。つまり、これまで一応は陸海空の帝国なのだけれど、どちらかというと、より海と空の帝国であったアメリカが、ついにユーラシア大陸の中央域に、橋頭堡を築いたということであり、これからの国際政治が根本的に違ったかたちになるということです。

 すでにそれに対応する動きはかなり前から現れています。たとえば、中国。北京政府は人民解放軍の大部隊を新疆の西部に配しました。もちろん、ターリバーン等のテロリスト集団が、東方へ入ってきたり、逃れたりするのを防ぐ。あるいは、アフガン国境線の東部方面を固めるといいますが、これは大義名分なのですね。 同じような動きは、イランにもあります。ですから、アメリカがユーラシア大陸の真ん中に入ったということが世界情勢にとってハッピーであるかどうか、これはわかりません。(以上、杉山正明『ユーラシアの東西』p.193-195より引用)

 結末としては、昨日カブールが陥落し、アメリカがアフガニスタンに拠点を置く世界情勢にはならなかったわけです。

 結局、アフガニスタン紛争とは何だったのでしょうか。30年という途方もない期間、戦地であり続けたアフガニスタンは、今後どうなっていくのでしょうか。色々なことを考えさせられる出来事です。

 

杉山正明ユーラシアの東西―中東・アフガニスタン・中国・ロシアそして日本

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↓杉山先生の本は、以前も紹介したことがあります。こちらもぜひ。

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京大中華街探訪録(2)

 二年ほど前、こんな記事を書きました。

chutetsu.hateblo.jp

 この二年の間、百万遍近辺ではコロナ禍のあおりを受けて消えてしまった店もたくさんあるのですが、「田中里の前」交差点近辺の中華料理屋はいずれも健在です。

 それどころか、またもや新しい中華料理屋が誕生していました。その名も「順和」です。とても美味しかったので、写真を載せておきます。

↓干锅虾(おすすめ!!!)

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↓孜然羊肉(おすすめ!!!)

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↓ちなみに、田中里の前交差点のあたりを地図にするとこんな感じになります。「なぜ田中里の前交差点に中華が集まるのか」というテーマで、誰か研究してくれませんかね。

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↓独断と偏見で、この付近の中華を、日本っぽいか本場っぽいかで並び替えてみました。どちら寄りでもおいしいことに変わりはありません。

     日本っぽい←  →本場っぽい

|華祥|四川亭|方圓美味|鑫源|順和|火楓源|東朋|

 

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 さらに、百万遍から東に向かった先、文学部から歩いてすぐのエリアには、蘭州拉麺のお店が誕生していました!

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 蘭州拉麺らしいさっぱりしていた味わいで、特にランチにおすすめです。奥でシェフが手打ちの麺を作る様子を見ることができます。手打ちだけあって、麺のもちもち食感が抜群。パクチーと肉のコンビネーションも旨いです。麺抜きのダイエットをしているとある先生まで、ついつい食べてしまったという噂があります。

 このお店も、そのうち行列店になるのではないでしょうか。行くなら今のうち!

 

 ……あ、手抜き更新なんて言わないでください!

(棋客)

ブログ開設三周年!

 本ブログ「達而録」を開設し、三年が経過しました。読者の皆様に支えられて、無事に一週間に一回の更新を守り続けられています。

 筆者は、新型コロナの流行によりなかなか先が見えない状況になってしまいましたが、なんとか研究だけは進めるべく日々奮闘しています。

 本ブログは、今後いつまで続けられるか分かりませんし、最近はやや手抜きの記事も多いのですが、ひとまずは細々と続けて行くつもりです。みなさま、ぜひ気軽にコメントをお寄せください。

 

 ↓本ブログの筆者の一人は、奈良の山間部でお茶を作っています。ぜひお買い求めください!

 ひよしの茶 -hiyoshinocha-

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