達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

溝口雄三「中国前近代思想の屈折と展開」下論・第三章・第一節―論文読書会vol.7

※論文読書会については、「我々の活動について」を参照。

【論文タイトル】

溝口雄三「中国前近代思想の屈折と展開」下論・第三章・第一節

 今回・次回と二回に分けて、顏元から戴震に至る思想史を述べる部分を取り扱います。 

 

【先行研究】


安田二郎孟子字義疏証の立場」(中国文明選『戴震集』所収 朝日新聞社
山井湧「孟子字義疏証の性格」(「日本中国学会報」第十二集) 

【原文】
論語』顔淵篇「顏淵問仁。子曰「克己復禮為仁。一日克己復禮、天下歸仁焉。為仁由己、而由人乎哉。」

朱子注]仁者、本心之全德。克、勝也。己、謂身之私欲也。復、反也。禮者、天理之節文也。

 

【要旨】

戴震と「克己復礼」

孟子字義疏証』において、戴震は朱子注の批判を行う。『論語』顔淵篇「克己復禮」について、朱子注は「己」を「私欲」と理解している。この理解に従うと「克己復禮」の「己」と「為仁由己」の「己」が矛盾することになる。戴震の意図は、「己」の字義上の矛盾を突くことにあるのではなく、「己」を「私欲」と理解した結果、「欲」が「克」の対象とされることに対する批判にあった。

顏元と「己」「欲」

「己」を「私欲」とすることの字義上の批判は、すでに一世代早い顏元に見られる。顏元の「己」を「私欲」とすること対する反対には二つの側面がある。第一に「己」がそのまま「私欲」とされることに対する不同意で、これは気質の性に悪を固有のものとしないとする主張に結びつく。第二に「己」を「私欲」とすることによって「己」が「克」の対象とされることに対する不同意で、「勝己」を「使勝己」と理解する顏元の実践を重んずる哲学に繋がる。

顏元と宋学の対比

宋学では、悪を気質に固有のものとすることによって、悪は一般的に人間に内在するものとする。そして悪である「私欲」を「己」の内部において「克尽」することによって本然の性が顕現されるとする。これを宋学的天理の一己完結性と呼ぶことができる。
 一方、顏元は「克己」を「己常勝於外物」と理解した。顔元の性善説では、本然の性を認めず、気質の性を人にとって「本有」の善とし、混濁が「外物」の「引蔽習染」したためだとする。混濁が人間にとって「本無」である「外物」の汚染とした結果、悪はもはや性の内側にはなく、克服の対象ではなくなる。ここで、「外物」であるはずの悪が気質の混濁状態として性に即しているという論理破綻が起こる。しかし、自己目的的完結性を原理的に否定しているところに顔元の新しさがある。

李塨と「己」「欲」

 李塨も顔元と同様に「己」を「私欲」とする理解を否定したが、注目すべきは「無私」「去私」を否定しているのではなく、それらを到達点にすることを否定している点にある。李塨は、「無私」は人の性にとって「本有」であるのだから、道徳的究極点ではなく、むしろ出発点にほかならないとする。
 これらの主張の裏側には、理は「己」の性の一己的無私の完結によってはもはや全うされ得ないする、新しい理への動向がある。しかし、顔元はまだ理について語るところに至っていない。善を性の善に限定する旧来の枠を破って「外物」に対応する新たな善が志向されていないことが、理に対して顔元が沈黙している理由だ。これはいわば居直りである。

顏元による宋学批判

 顔元によれば、宋学的善は気質悪を前提にもつという点で性悪的立場に立つに等しいという。朱子の本然の性こそが人間の本性だとする極めてリゴリスティックな性善説が、顔元の目に性善説として見えていないところに問題がある。気質は人にとって全てのものとされるような経済的主体の熟成の時代、また現実在の悪がもはや一己的修身によっては解決されえないような複雑な倫理観を意識させる時代、悪を個人に収斂させることによっては解決されえない社会矛盾・階級矛盾の実在が意識される時代に、彼らは立っていた。悪を気質に対する「外物」の汚染とする新しい性説を提示することによって、社会相関的理の生成を目前に望もうとする地点に顔元は到達している。

顏元の限界

 しかし、顔元の言う悪は、依然として気質の混濁であることから抜け出せていない。そして、その結果、「私欲」は「克」の対象であることから免れていない。ここで「己常勝於外物」の「常」がもつニュアンスの重みが理解される。己を行為主体とした道徳実践の持続は、「外物に勝つ」ための必須の条件なのである。「私欲」は性にとって「本無」のものであり外来物である。しかし、そのために、「私欲」は不断の実践によってのみ防御・除去されうるものとされる。顔元の実践は、持敬静坐と形容される宋学的理の一己完結性を否定しようとするものでありながら、結局は宋学に対しては方法論の上でのみ勝負しているにすぎなかった。

 

【議論】

 

・本然の性と気質の性を一本化したのは、王陽明致良知説の影響ではないか。

・「宋学的天理の自己完結性」の崩壊は、伝統的な言葉を使うならば、「尊徳性」重視から「道問学」重視への推移。

・気質が人間にとって当然のものとされるような社会経済的背景は、本当にあったのか。→溝口氏に先行する経済史研究があった。

・「居直り」とは→顔元は自身の理論に不完全な部分を遺した。溝口氏によれば、顔元は理について深く言及する必要があったがしなかった。

・顔元の言う「常」の重み→発想は朱子学そのもの。

朱子学に部分的に反対してはいるが、独自の理論を打ち立てるところまでは至っていない→劉宗周に与えられる評価と似ている。

・「方法論の上で」→理論上でのみ?