達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

考証学における学説の批判と継承(3)

 前回の続きです。問題となる疏文を再度掲げておきます。

尚書』堯典(阮元本『尚書注疏』卷二 三葉上)

(疏)以庸生賈馬之等、惟傳孔學經文三十三篇、故鄭與三家同以爲古文、而鄭承其後、所註皆同賈逵馬融之學、題曰古文尚書、篇與夏侯等同。而經字多異、夏侯等書「宅嵎夷」爲「宅嵎䥫」、「昧谷」曰「柳谷」、「心腹腎腸」曰「憂腎陽」、「劓刵劅剠」云「臏宮劓割頭庶剠」、是鄭註不同也。

 今日は、王鳴盛(康熙六一・一七二二~)の『尚書後案』を見てみましょう。彼は銭大昕より生まれが早いのですが、問題箇所についての立説は江声・銭大昕より詳細です。

 今回も「心腹腎腸」と「憂腎陽」の例を挙げています。

○王鳴盛『尚書後案』盤庚下

 今予其敷心腹腎腸、歴告爾百姓于朕志。

【案曰】堯典疏曰「鄭注尚書篇與夏侯等同而經字多異、夏侯等書心腹腎腸曰憂腎陽。」夏侯等書乃今文、鄭所傳乃古文。今梅賾所獻孔本號稱孔壁古文、乃反同于夏侯等書、其妄明矣。文選魏都臧劉淵林注引「尚書盤庚曰、優賢揚歴。」若依今本則盤庚不見。有此文乃知鄭本作「憂腎陽」者。「憂」本「優」字、夏侯等書以一「優」字誤分作「心腹」二字。「腎陽」者、當作「賢揚」。皆以字形相似而致誤。劉淵林、晋初人、所見本如此也。裴松之三國志、亦引此而稱爲今文。裴、宋人、其時梅所獻本已盛行、以僞孔爲古文。故反以鄭本爲今文也。又案「今予」之「予」、蔡邕石經作「我」。載『隸釋』。

【鄭曰】歴、試也。謂揚其所歴試。(三國魏志十一卷、管寧傳裴松之注。○文選六卷左太冲魏都賦劉淵林注○)

【案曰】劉裴二家皆不著鄭名。然所據既係鄭本、則注義亦必本之鄭氏。今定作鄭注。

 少々省略を加えましたが、大分議論が分厚くなっています。少し論理を追いかけてみましょう。
①現行本は「今我其敷心腹腎腸、歴告爾百姓于朕志。」
②堯典正義を、「現行本並びに夏侯氏の上四句:心腹腎腸」と「鄭玄本つまり真古文の下四句:憂腎陽」の差異を述べると理解。(閻氏に同じ)
③しかし、「憂腎陽」では意味が分からない。他書を見ると、『文選』魏都賦の劉淵林注に「尚書盤庚曰、優賢揚歴。」とあり、「憂腎陽」が「優賢揚」であったと分かる。この時「心憂」が「優」に化け、「歴」は上句に続けて読んでいたことも分かる。
④以上により真古文を復元すると、「今我其敷優賢揚歴、告爾百姓于朕志。」となる。(ここまで江氏に同じ)
⑤しかし、先の「優賢揚歴」の語が見える『三国志裴松之注には、「今文尚書曰・・・」として引用されており、「優賢揚歴」が「真古文」であるとする閻説に矛盾が生じる。
裴松之は偽古文流行後の人であり、僞孔を古文、鄭本を今文と逆転して認識していたため、誤ったとする。
⑦更に、文選注と裴松之注に見える「歴、試也。」と「謂揚其所歴試。」の訓詁を、『尚書』鄭玄注と認定する。

 ④までは江声らと同じ推理です。ここで王鳴盛は新たな問題定義を行い、その解決を図っています。それが⑤以降で、前人の触れていない矛盾点を解決すべく、論理をこねているのです。(もう一つ傍証として、洪適『隸釋』所載の漢の碑文に「優賢揚歴」と似た語句が引かれていることも指摘し、これが真古文の姿を残しているとします。)
 この⑥、⑦は、一応辻褄を合わせているとはいえ、かなり強引な論理展開と言えましょう。色々な反論がすぐに浮かぶところで、実際後に反駁されるところとなります(次回掲載)。

  いずれにせよ、王鳴盛も閻若璩説の誤りを踏襲していることが分かりました。他にも、同様の解釈をしている例を引いておきましょう。まずは孫志祖(乾隆二・一七三七~)。

○孫志祖『讀書脞錄』優賢揚歴

 堯典正義曰「鄭注尚書、與夏侯等同而經字多異。夏侯等書『心腹腎腸』、曰『憂腎陽』。」案「憂腎陽」不可解。予讀左思魏都賦「優賢著於揚歴。」、劉淵林注云「尚書盤庚曰、優賢揚歴。歴、試也。」。又『魏志』管寧傳「優賢揚歴、垂聲千載。」、裴松之注「今文尚書曰、優賢揚歴。謂揚其所歴試。」。始悟正義「憂腎陽」三字、乃「優賢揚」之譌。葢康成尚書、本以「憂腎陽」爲「優賢揚」。又以下「歴」字屬上作句爾。

(原注)『隷釋』載漢成陽令唐扶頌云「優賢颺歴」。

 ちなみに、阮元校勘記は孫志祖説を引用しています。(但し、あくまで校勘記ですから、今古文の説については言及していません。)

○『十三經注疏校勘記』尚書 堯典

 心腹腎腸曰憂腎陽。孫志祖云、「憂腎陽」三字、乃「優賢揚」之訛。「優賢揚歴」語見『魏志』管寧傳及左思魏都賦。又『隸釋』載漢成陽令唐扶頌亦有「優賢颺歴」之文。

  同様の説が数多くある中で、それほど詳密な説とは言えない孫志祖説が採用された理由はよく分かりません。阮元の校勘記は阮元一人の手に出るものではなく、分担された作業であったことは、汪紹楹「阮氏重刻宋本十三経注疏考」や水上雅晴「顧廣圻と『毛詩釈文校勘記』:『十三経注疏校勘記』と分校者の関係」などに詳しいですが、『尚書』の担当者と孫志祖の関係などを考えてみても面白いかもしれません。

  また、散佚した鄭玄の著作を集めた、袁鈞(乾隆一七・一七五二~)の『鄭氏佚書』を見ると、王鳴盛と同様、『文選』注、『三国志』注に見える「優賢揚歴」の注「歴、試也。謂揚其所歴試。」を、鄭玄注として取り込んでいます。もとの疏文の解釈が現代と同じであれば、この部分が鄭玄注になる可能性は相当低いので、袁鈞も現代とは逆の読解であったのでしょう。(この例を見ると、軼佚書を利用する際にいかに注意が必要か、よく分かります。)*1

  さて、今日まで三回分の記事を総覧すれば明白なように、堯典正義の該当箇所は、閻若璩式の読解を行うのが当時の主流であったようです。更にそれを元手に、新説が生み出されているのが今日の内容ということになります。
 しかし、先述したように、どうにも無理気味な説明が生まれているところもあります。この誤りを正し、現代の定説を最初に唱えた人物は誰なのでしょうか。次回、乞うご期待。

(棋客)

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