達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

考証学における学説の批判と継承(4)

 前回の続きです。問題となる疏文を再度掲げておきます。

尚書』堯典(阮元本『尚書注疏』卷二 三葉上)

(疏)以庸生賈馬之等、惟傳孔學經文三十三篇、故鄭與三家同以爲古文、而鄭承其後、所註皆同賈逵馬融之學、題曰古文尚書、篇與夏侯等同。而經字多異、夏侯等書「宅嵎夷」爲「宅嵎䥫」、「昧谷」曰「柳谷」、「心腹腎腸」曰「憂腎陽」、「劓刵劅剠」云「臏宮劓割頭庶剠」、是鄭註不同也。

  ここでようやく、段玉裁(雍正十三・一七三五~)の登場となります。彼は銭大昕と同世代に当たりますが、その所説は大きく異なっています。まずは『古文尚書撰異』の堯典の項を見てみましょう。

○段玉裁『古文尚書撰異』堯典

又按、尚書正義曰「庸生賈馬之等、惟傳孔學經文三十三篇、故鄭與三家同、以爲古文、而鄭承其後、所注皆同賈逵馬融之學、題曰古文尚書。篇與夏侯等同而經字多異夏侯等書(句絶)。宅嵎夷(此謂古文)爲宅嵎(禺之誤)䥫(此謂夏侯等書)、昧谷(古文)曰柳谷(夏侯等)。心腹腎腸(古文)曰憂(優之誤)腎(賢之誤)陽(揚之誤○夏侯等)劓刵劅剠(古文)云臏宫劓割頭庶剠(夏侯等)、是鄭注不同也。」此四條皆上句古文、下句今文、本自明白。不意善讀古書如閻百詩氏、尚誤會而互易之。(尚書古文疏證第二十三)。近注尚書者、皆襲其誤甚矣。句度之難也。四條皆有左證、各見當篇。

 段玉裁は、堯典疏文を現代の定説と同じく「鄭玄本・現行本(梅賾本)―夏侯氏の今文説」という対応関係で理解しています。つまり、閻若璩以来の説を否定したということなります。それは「不意善讀古書如閻百詩氏、尚誤會而互易之。」(百詩は閻若璩の字)という言葉でよく分かりますし、「近注尚書者、皆襲其誤甚矣。」という語から、閻説を多くの学者が継承しており、段氏がその誤りを正そうとしたことも分かります。

 但し、段玉裁は「篇與夏侯等同而經字多異夏侯等書。」と句読しています。(原注の「句絶」の語より明らか。)これは吉川先生や北京大十三經注疏整理本の句読(つまり冒頭に掲げた句読)とは異なっています。この辺りの事情は、また後の記事で述べますが、当該箇所の疏文がやや読みにくい文章になっていることが原因のようです。

 次に、「心腹腎腸」の経文が現れるところの段注に注目してみましょう。

○『古文尚書撰異』盤庚下

 今予其敷心腹腎腸、歴告爾百姓于朕志。

 ・・・文選左太沖魏都賦曰・・・、張載注曰・・・。按左時未經永嘉之亂、夏侯歐陽等書無恙也。

 魏志管寧傳・・・、裴松之注曰・・・。玉裁按裴氏於此篇、鳴鳥弗聞引尚書君奭曰云云、鄭元曰云云、於命東序之世寶引尚書顧命曰云云、注曰云云、於武帝紀亦言文侯之命曰盤庚曰、而此條獨分別之云今文尚書曰。然則君奭顧命文侯之命盤庚皆爲古文尚書可知矣。漢魏人於夏侯歐陽曰尚書、於孔壁則分別之云古文尚書。范氏後漢書體例尚如此。裴氏正與相反、蓋古文尚書盛行、遂易其偁焉爾。但言今文尚書曰、而不言何篇、略之也。裴氏時歐陽夏侯書已亡度裴所引即魏都賦注。故兼引賦語以足之賦注歴試也。此今文家語、裴演之曰「・・・」、或系諸鄭注、誤矣。

  後半の話は少し違いますが、面白い議論だと思うので少し中身を見てみましょう。

「漢魏の人(ここで挙げられる例は『文選』魏都賦の張載注、范曄『後漢書』)は単に「尚書」と言うと「今文尚書」を指し、「古文尚書」の際にはわざわざ「古文尚書」と断る。しかし、裴松之の頃になると、単に「尚書」と言うと「古文尚書」のことになっており、「今文尚書」の方をわざわざ断るようになっている。」

 要約するとこのような論理になっています。これだけでは大雑把な議論ですが、偽古文尚書が奏上された後、いつ頃どのようにより広く受容され、一般的な存在になるのか、というのは非常に興味深い話題です。(加賀栄治『中国古典解釈史』など参照。)

 段氏は最後に「此今文家語、裴演之曰「・・・」、或系諸鄭注、誤矣。」と述べ、ここに見える訓詁を鄭玄注として取り込むこと(前回紹介した王鳴盛の説)を批判しています。確かに経文が今文由来のものであれば、その注が鄭玄注である可能性はかなり低くなるでしょう。

 つまり、段玉裁は疏文の読解の誤りを指摘した上で、その誤った認識に基づいて推理された結論の部分も合わせて批判していることになります。当時、現代の「学会」に相当するものはなく、書簡のやりとり等で最新の研究を知っていたのでしょうが、俊敏かつ正確なリアクションを取っているのは面白いものです。*1

 現代、段玉裁の学問はしばしば「武断が多い」という言葉で評価されます。これは裏返しで言えば、当時の主流の見解、一般的な理解に容易に迎合しなかったとも言えるでしょう。ここの例では、彼のそういったところがプラスに発揮されていると言えるでしょうか。(念のため申しておきますが、この数回の論考で「段玉裁は他の学者より優れている」といったことを言いたいわけではありません。)*2

 さて、この段玉裁の読解は、正確なものとして広く受け入れられることとなります。一例として、乾嘉期の尚書学の集大成と言える孫星衍(乾隆十八・一七五三~)の『尚書今古文注疏』を挙げておきます。これは再び「心腹腎腸」のところ。

○孫星衍『尚書今古文注疏』

 今予其敷心腹腎腸、歴告爾百姓于朕志。

(注)夏侯等書説「心腹腎腸」爲「優賢揚歴」。

(疏)「夏侯等書爲優賢揚歴」者、見書卷二。疏云「夏侯等書心腹腎腸曰憂腎陽。」疏文舛誤、當爲「優賢揚」三字。文選左太沖魏都賦曰「優賢著於揚歴。」張載注云「尚書盤庚曰、優賢揚歴。歴、試也。」魏志管寧傳陶丘一等薦寧曰「優賢揚歴。」裴氏注曰「今文尚書曰、優賢揚歴。謂揚其所歴試。」未知此云「歴、試也。」及「謂揚其所歴試」、是鄭注否、不敢妄載爲注。案、心腹二字似優、賢字似腎、腸字似揚、歴字上屬、則下「告百姓于朕志」爲句。漢咸陽令唐扶頌「優賢颺歴」、國三老袁良碑「優賢之寵」、皆用今文尚書

 段玉裁同様、鄭玄「心腹腎腸」と今文「優賢揚歴」という対応で捉えています。但し、鄭玄注として認めるかどうかについては「未知此云「歴、試也。」及「謂揚其所歴試」、是鄭注否、不敢妄載爲注。」とやや慎重な態度を取っており、そもそも鄭玄注ではありえないとする段玉裁とはやや温度差があるかも知れません。 

 その他、『尚書』でなく『文選』の側からこの問題に言及している例として、梁章鉅(乾隆四〇・一七七五~)を挙げておきます。これまで登場してきた人物よりは大分遅れる人物です。

○梁章鉅『文選旁證』

 注盤庚曰「優賢揚歴」。

 書堯典疏云「鄭注尚書篇與夏侯等同而經字多異。夏侯等書心腹腎腸曰憂賢陽。」蓋「憂」本作優、誤分爲心腹二字。「腎腸」本作賢揚、皆以字形相似致誤耳。而歴字當屬下句讀也。王氏鳴盛曰「・・・」。按王氏引隸釋裴注以證、是也。其今文古文之説、則非。釋書疏語謂作「優賢揚歴」者、正夏侯等書今文尚書也。作「心腹腎腸」者、正鄭注本。鄭習古文尚書者也。孔傳多依鄭本、故今書亦作「心腹腎腸」也。從來無以鄭本爲今文者、且書疏是謂夏侯等書與鄭不同、非謂梅賾書與鄭不同。何得顛倒而爲之説耶。此疏語在虞書標目下、疏云「・・・、是鄭注不同也。」段氏玉裁以爲此四條皆上句古文、下句今文、本自明白。・・・。

 彼も段玉裁の説を引き、その説に賛成していることがよく分かります。

 以上の説明で、段説が閻説に代わって受け入れられるようになったことは、よく分かると思います。しかし、今日の話はやや省略したところがあり、結局「どうして閻説は誤りと言えるのか」という点については、まだ説明不足という感じを覚える方がいらっしゃるかもしれません。次回、その誤りの理由を整理した学説を紹介し、最終回とさせていただきます。(棋客)

↓つづき

chutetsu.hateblo.jp

*1:当時の学術共同体のあり方については、ベンジャミン・エルマン『哲学から文献学へ』が代表的な研究として挙げられる。

*2:段氏の学問については、挙げ始めればキリがないですが、例えば喬秀岩『北京讀經説記』を参照。『説文解字注』に関しては阿辻哲治『漢字学 説文解字の世界』東海大学出版会頼惟勤『説文入門』を参照。