達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

考証学における学説の批判と継承(5)

 前回の続きです。問題となる疏文を再度掲げておきます。

尚書』堯典(阮元本『尚書注疏』卷二 三葉上)

(疏)以庸生賈馬之等、惟傳孔學經文三十三篇、故鄭與三家同以爲古文、而鄭承其後、所註皆同賈逵馬融之學、題曰古文尚書、篇與夏侯等同。而經字多異、夏侯等書「宅嵎夷」爲「宅嵎䥫」、「昧谷」曰「柳谷」、「心腹腎腸」曰「憂腎陽」、「劓刵劅剠」云「臏宮劓割頭庶剠」、是鄭註不同也。

 この疏文の読解の相異について、現在の定説と同様の読みを提示したのは段玉裁で、その証明もほとんど段氏に尽きています。ただ、両者の説の由来や誤読の要因、正しい論拠を整理して示したのは陳喬樅(嘉慶十三・一八〇八~)まで下るようです。考証学の最晩年に入り、各説の整理が進んだ時期という背景もありましょうか。

○陳喬樅『今文尚書經説考』優賢颺歴

 ・・・又案王鳴盛尚書後案曰「・・・」。喬樅謂、王説誤也。作優賢揚者、非鄭古文尚書本、乃夏侯等今尚書文也。何以明之。堯典正義云「・・・是鄭注不同也。」按、「鄭注」上疑去一「與」字、正義語不甚明晰、近儒因而致誤。故説尚書今古文異同、皆以作「嵎夷」「昧谷」「心腹腎腸」「劓刵劅剠」者爲夏侯等書、作「嵎」「柳谷」「憂腎陽」「臏宮劓割頭庶剠」者、爲鄭古文本。以愚考之、・・・。

 まず彼は、「按、「鄭注」上疑脱去一「與」字、正義語不甚明晰、近儒因而致誤。」と、もとの疏文が若干読みにくいことを、誤読の要因として挙げています。思えば、吉川訳も「鄭注同じからぬ点である。」となっており、「與」を補って読んでいますね。もしかすると、陳氏の説を参考にしたのかもしれません。

 以下陳氏は、疏文を「現行本・鄭玄本の上四句―夏侯氏の下四句」で理解すべき証拠を挙げていきます。(尤も、段氏と共通する証拠が多いのですが。)他の文献の中に、前者のものが「鄭注」に見える例や、後者が「今文尚書曰」として引かれる例を積み重ねていけば、この説が揺るがないものとなります。

 全ての例を挙げるのは煩雑ですので、これまで使ってきた「心腹腎腸」の例を下に挙げておきます。

 此篇優賢颺歴、見唐扶頌。「優臤之寵」見袁良碑。「優賢揚歴」見三國志管甯傳及左思賦、是漢魏晉初所習用者、必本於今文尚書無疑。若古文尚書漢時竝未盛行、又未立於學官、非博士所以課弟子者。故漢碑文字引用絶尠。況裴松之魏志注明稱「今文尚書」、則其訓誼亦必今文家相傳經師舊説矣。劉與裴二注皆不著鄭姓名、今何得屬之鄭注乎。且馬鄭所注古文尚書、歴魏晉宋齊梁陳以迄隋唐、其書現存、載於隋書經籍志及新舊唐書藝文志、章章可考。裴松之三國志、司馬貞作史記索隱、豈得無所見聞而誤以馬鄭本爲今文。孔冲遠作尚書正義、屢引鄭注、又豈絶無考訂而罔識優腎陽有譌字此必不然矣。

 まず、漢碑に引用される例を挙げ、漢代に古文が博士に立てられたことはなく、それほど流行していないと思われることから、これを逆に今文であることの傍証とします(この話自体は王鳴盛も引くのですが、後半の議論が真逆になっていましたね)。更に、裴松之注に「今文尚書」とあるのだから、当然今文なのだろう、という議論です。
 王鳴盛は、「裴松之は偽古文流行後の人であり、僞孔を古文、鄭本を今文と逆転して認識していたため、誤った。」という説を立てていましたが、これに対しては、「鄭注尚書は、隋唐の目録にも残っており、裴松之の頃に伝来していたのは確かで、混乱のしようがない。」と述べます。

 このような議論を他の三例でも行い、この種の傍証を加えていけば、どちらが自然な結論なのかはっきりするというものです。陳氏は段氏説をもとにしつつ、最終的にこの疏文の読解に決着を付けたと言って良いでしょう。最後にこう述べています。

  江聲尚書集注音疏、孫志祖讀書脞錄、説此條皆與尚書後案同其違失。故特詳辨之、以訂其誤焉。

 これは、輯佚と整理に努めた陳喬樅の能力が発揮されている例とも言えますし、彼の今文経学を重視する立場が現れているとも言えるでしょうか。
 その後の尚書関連の著作として皮錫瑞『今文尚書考證』などがありますが、ここではもう「今文尚書では『心腹腎腸歴』を『優賢揚歴』に作る」と言うのみで、論争の決着がつきこの説が定説化していることが分かります。

 最後に、簡単にまとめておきましょう。
 この疏文の誤読は、「閻若璩による偽古文論証」という考証学を象徴する学術成果の陰で、副産物的に生まれたものと表現できそうです。閻若璩の意図と目的でこの疏文を読むと、誤読に陥るのは止むを得ないとも言えるからです。更にその後、当初は江声や王鳴盛によって、他の文献から閻説は理論の裏付けを与えられようとしていました。しかし、却ってそこでその矛盾が露呈することとなり、段玉裁によってその反論の根拠が徐々に肉付けされることになります。そして最終的には、考証学の最晩年になって正当な説が確立したのです。
 このように考えてみると、考証学の展開を見る上で、なかなか興味深い例であると言えるのではないでしょうか。実際の各人の書籍の出版状況やその流通、書簡のやりとりなどを調べてみれば、もっと面白い内容になるかもしれません。これはまたの課題です。

 …と、マニアック過ぎる内容を無理気味にまとめてみましたが、お楽しみ頂けたでしょうか。全五回、今回をもって完結といたします。ご意見ご感想あれば、是非お願いします。(棋客)