達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

盧文弨と疏・経典釈文の単行説(補遺)

 前回の記事について、有志の方より、「『経典釈文』の単行については、清初の頃から知られていたのではないか」とコメントを頂きました。少し調べてみたところ、あくまで一例ですが、以下のような言及例がありました。

顧炎武『亭林文集』巻二 音學五書後序
 嗚呼、許叔重『說文』始一終亥、而更之以韻、使古人條貫不可復見。陸德明『經典釋文』割裂刪削、附注於九經之下、而其元本遂亡。成之難而毀之甚易、又今日之通患也。『孟子』曰「流水之爲物也、不盈科不行。」記曰「不陵節而施之謂孫。」*1若乃觀其會通、究其條理、而無輕變改其書、則在乎後之君子。*2

 大意は、「許慎『説文解字』が、もともと「一」に始まり「亥」に終わる、秩序だったものであったのに、後に韻によって字を並び替えられた結果、その一貫性が失われてしまった。陸徳明『経典釈文』も、一書を断ち切り削り取って、それぞれが経文の下に附されたので、その原本はそのまま失われてしまった。一書を作り上げるのは大変難しいが、壊すのは大変容易い。云々」となりましょうか。

 『説文解字』を検索の便のために韻によって並び替えた本には色々とあるようですが、顧炎武が念頭に置いているのは、南宋の李燾の『五音韻譜』ではないかと思います。これは、『説文解字』の説解はそのままに、まず部首を二〇六韻で並べ替え、更に部首の内部の文字も二〇六韻で並べ替えたものです。調べる際には便利ですが、原著の体系を失っていることは、顧炎武の指摘の通りです。
 そして同じ文脈の中で、『経典釈文』が出てきます。同じく調べる際の便宜のために、経文に各条を附すという改変を行った結果、旧来の一書の姿を壊してしまったいうことが言いたいのでしょう。

 考えてみれば、経典釈文と疏を、前回の記事ではなんとなく同列に扱っていましたが、成立過程は言うまでもなく、後の合刻の時期なども異なっておりまして、単行本の話に関しては、同列に並べてよいものではありませんでした。
 ここで再度、前回引用した盧文弨説を見てみると、疏については「蓋正義本自爲一書、後人始附於經注之下。」とありますが、経典釈文については「古來所傳經典、類非一本。陸氏所見、與賈孔諸人所見本不盡同。」と言っているだけなので、盧文弨の見解を「疏・経典釈文の単行説」という一言で説明するのは不適当です。
 盧文弨説の重要な点は、『文献徴存録』がまとめているように、「疏と経典釈文はかつてともに経注とは別行していたため(うち疏の単行の指摘は、清朝考証学者の間では盧文弨が早い)、それぞれが基にした経注の文章は、現行本の経注とは異なっている可能性がある」という新見解を提出したところなのでしょう。

 またこの点について、別の有志の方から、関連する論文の紹介を受けました。→水上雅晴「近藤重藏と清朝乾嘉期の校讐學」北海道大学文学研究科『北海道大学文学研究科紀要』117、2005)
 水上先生は、『十三経注疏校勘記』の研究でよく知られています。特に、当時の学問的背景、社会的背景を考慮しながら、段玉裁や阮元、またそのほか校勘記担当者の実際の動きを明らかにする研究が多く、非常に興味深いです。上の論文もその一環のものですが、私が見落としておりました。
 この論文に、以下のように書かれています。

 『四庫全書總目提要』は乾隆四十六年(一八八一(※筆者注、一七八一の誤り))に献上されており、「豈に其の初め疏と註と別行するか」という書きぶりからは、当時、『爾雅』に限らず他の諸経の単疏本の存在が殆ど知られていなかったことが推察される。
 汪紹楹氏によると、乾嘉期の学者で単疏本の存在を最初に指摘したのは、盧文弨である。乾嘉期における著名な校勘学者たる盧氏は、「周易注疏輯正題辞」において、「・・・(※筆者注:前回紹介しました)」と述べているように、単疏本の存在を認識していた。この「周易注疏輯正題辞」は乾隆四十六年(一七八一)に書かれているから、『提要』が最初に完成する頃には単疏本の存在を知っていたのである。しかし、盧氏の著作中に単疏本を見たことは記されていないから、単疏本の実物は見ていないようである。
 管見によると、盧文弨が単疏本の存在を知ったのは、『七経孟子考文補遺』を読んだのがきっかけとなっている。・・・(p.103-104)

 以下、盧文招が単疏本の存在を知ったのは、『七経孟子考文補遺』がきっかけであると考えられる理由が述べられ、更に、その発見が銭大昕や阮元ら考証学者の間で共有されたことに触れられています。
 偶然前回の記事で、「周易注疏輯正題辞」において、『七経孟子考文補遺』に触れられていることを述べました。ここで『七経孟子考文補遺』が単疏本発見のきっかけになっているという話が出てきて、非常に興味深い指摘であると感じた次第です。

 さて、ついでですので、疏の単行本についてちょっとだけ余談。単疏本については、概説書を覗いてみると以下のようにあります。

 疏はもと経注とは別行し、我国の古写本や南宋初年覆北宋刊本などは単疏本であり、紹興年間経注疏合刻本ができ、宋末坊間に附釈音本を生じた。*3

 まずは、これが基本的な理解かと思います。(どの単疏本がどこに残っていてどこで見られるのかという点について、私はあまり整理できていませんので、いずれここでまとめてみようと思います。)

 ただ先日、東博の「顔真卿展」に行った際、経・注・疏を合わせて書いている唐代の抄本(毛詩並毛詩正義大雅残巻、東京国立博物館藏)を見つけて、おおおおお!と興奮してしまいました。上段に経文と注文、下段に疏文を記すというスタイルで、後の合刻本のように文中に疏が入り込んでいる訳ではないのですが、いつの時代の人もやはりバラバラでは不便だったのだな、と思いました。調べてみると、この本については既に色々と研究はあるのですが、何かに気が付いたときの「!」というあの体験を何度でも味わいたくて、学問をやるのかもしれませんね。(棋客)

 

*1:礼記』学記篇「大學之法、禁於未發之謂豫、當其可之謂時、不陵節而施之謂孫、相觀而善之謂摩、此四者教之所由興也。」

*2:顧炎武『音學五書』は音韻学上非常に重要な著作です。すぐにオンライン上で読むことのできる論文に、渡邉大「顧炎武にとっての古音研究 : 「音学五書敘」および「答李子徳書」から」  があります。「叙」であって「後序」への言及はありませんが、平易で読みやすいもので、参考になるかと思います。

*3:長沢規矩也支那学入門書略解』