達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

地元の儒者を尋ねて―「亀井南冥」篇・上

 つい先日、研究室に届いた雑誌『斯文』134号を見ていたところ、牧角悦子氏の「鎮西の儒侠・亀井南冥の為人と学問」(オンライン公開なし)という文章に出くわして、大変驚きました。

 というのも、中の人の一人の実家近くに亀井南冥のお墓があり、幼いころから非常に見慣れた名前であったからです(小学校の「私の町の歴史」というような授業でも、名前が出ていたような気がします)。牧角先生の文章の中に出てきた地名にも、懐かしいものが多く出ていました。

 「亀井南冥」というと聞き慣れないかもしれませんが、志賀島から「漢委奴国王」の印が発見された際、すぐに『金印辨』を著し、その重要性を説いた人物、と紹介すれば通じるかもしれません。ちなみに、最近の「亀井南冥」研究を調べてみると、この『金印辨』に関わる論文のほか、儒学関係はもちろんのこと、南冥の漢方医学についての論文も多いようです。南冥は、山脇東洋の弟子筋に当たるため、医学者としては古方派、儒学者としては徂徠学(古文辞学)の系統であり、著作も幾つか残しています。

 いつもの本ブログなら、ここで亀井南冥が書いた文章を読んでみるところなのですが、今のところそこまでのやる気は出てきていないので、たまには「足で稼いだ」記事を書いてみることにしました。帰省ついでに近所を散策し、南冥ゆかりの地を眺めながら、福岡の街を少し歩いてみるという算段です。

 開始地点は浄満寺、亀井家一族のお墓があるところです。福岡ドームの南、明治通りに面しており、福岡に住む人ならときおり目にするのではないでしょうか。(ただ、中に入っていく人はほとんど見たことがありませんが…。)

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浄満寺

 境内に、立派なお墓が建っています。

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亀井家墓

 真ん中の大きな石が南冥の墓石。右の「昭陽先生」は南冥の長男です。

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 「地行」と名の付く浄満寺周辺の一帯は、都会の真ん中に位置しています。しかし、もともと福岡藩足軽屋敷が立ち並ぶ場所であったこと、その後空襲の被害を受けなかったこと、福岡ドーム一帯が開発された際にこの区画は塀が立てられ守られたこと、等の複数の要因から、現在でも昔ながらの家が立ち並ぶ、非常に静かな住宅街となっています。

 ちなみに、浄満寺の裏手には元寇防塁跡があります。当時の海岸線はこの辺りだったのでしょうかね。もっとも、防塁跡はあちこちに途切れ途切れに残っていて他にもっと良い場所があるので、わざわざここを見に来る人は稀です。
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 更に余談ですが、浄満寺の向かい側には金龍寺があり、こちらには福岡藩儒学者として最も有名な貝原益軒の墓があります。こちらは、またいずれ紹介しましょう。

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金龍寺

 さて、折角ですので、福岡城近辺の古地図を一緒に眺めてみましょう。一応下に載せておきましたが、非常に細かく拡大できるので右のサイトで見る方が便利です。→[福岡城下町・博多・近隣古図] - 九大コレクション | 九州大学附属図書館

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 この地図の詳しい解説は、宮崎克則『古地図の中の福岡・博多―1800年頃の町並み』(福岡アーカイブ研究会、2005)に載っています。現代の街の様子と比較しながら、この古地図についての詳細を極めた解説があり、読み物としてもとても面白い本です。おススメ。
 この本によれば、この地図は1802~1804年に作られたものとのこと。西の端にある川の橋の辺りを拡大したものが下図です。

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 中央上部に「浄満寺」、その向かいに「金龍寺」の名前が確認できますね。両寺の間にある、川で途切れた道が、後に区間整理され、新今川橋が架かり、路面電車が通り、そして地下鉄となり、今の「明治通り」、つまり福岡市のメインストリートの一つとなっています。

 では、その下側にある太い道と「今川橋」の架かる通り、どうも当時のメインストリートと思しきこちらの通りは、今現在はどうなっているのか。そして、ここから街の方へと歩いた先に何があるのか。
 先取りすれば、この道の先に、亀井南冥が初代館長を務めた学問所があるのです。今日は長くなってしまったので、以下は次回。(棋客)