達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

地元の儒者を尋ねて―「亀井南冥」篇・下

 前回の続き。同じ部分図を掲げておきます。全体は→[福岡城下町・博多・近隣古図] - 九大コレクション | 九州大学附属図書館

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 今回は地図の下側に見える「今川橋(旧今川橋)」が出発地点。

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 今では「裏通り」と呼ばれ、写真でも完全な裏道に見えるこの道、実は唐津・福岡・小倉を結ぶ「唐津街道」に当たり、江戸期には福岡城下のメインストリートでした。
 当時の面影は、この道を東西に進むと商店街にぶつかるところに残っています。まず、西に進むと徐々に店が増え、そのまま西新中央商店街中西商店街)に入ります。

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 時は天明4年(1784年)、福岡藩藩士の教育のため、西学問所と東学問所を開設します。西学問所は「甘棠館」、東学問所は「修猷館」と名付けられました。この時、甘棠館の館長となったのが亀井南冥です。なお、金印が発見されたのもこの年です。

 前回述べたように、亀井南冥は荻生徂徠の弟子筋ですから、甘棠館では徂徠学を講じていたようです。しかし、寛政2年(1790年)に「寛政異学の禁」が始まると、朱子学以外の学問は逆風に立たされることになります。修猷館朱子学派でしたから問題はなく、甘棠館だけが存続の危機に立たされたようです。結局のところ、寛政10年(1798年)、甘棠館は大火事で焼けた際にそのまま廃止となってしまいます。

 しかし、修猷館の方は存続し、後に「修猷館高校」として名を知られることになります。先程の商店街から更に西へと足を延ばして途中で北に折れると、修猷館高校に行きつきます。

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 「東学問所」なのにだいぶ西に建っているのは、一度移転しているから。現在の修猷館高校近辺は文教地区として整備されていて、西南学院大学福岡市博物館などが並んでいます。

 ここで足を戻して、今度は「今川橋」から、東へ(つまり福岡城下の中心へ)進んでみましょう。古地図で言うと、この辺りです。

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 斜め下から来ている下側の太い道が唐津街道。「古簗橋」(後のやな橋)が架かっていますが、ここは今では暗渠になっています。

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 歩いてみると、橋の欄干だけが残されていました(写真左)。写真右はその交差点。手前から奥に抜けるのが唐津街道で、道の向こうは「黒門」という地区。川が暗渠になったのは十数年前の話なので、筆者はここの左右に川が流れていたのをまだ覚えています。

 この道をそのまま進んでいくと、一度明治通りに突き当たるのですが、そこも真っすぐに突き抜けると、今度は唐人町商店街にぶつかります。つまり、かつてのメインストリートには商店が立ち並び、幹線道路としては適さなくなったため、逆に今では裏通りになっている、ということですね。

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 先の古地図でいうと、 「古簗橋」を東に渡って最初に交差する道が、上の写真左の交差点です。ここまで「唐津街道」を示す標識は全くありませんでしたが、唐人町商店街の入り口に、唐津街道がここで折れることの表示が出ていました(写真右)。せっかく歴史のある道なのですから、もう少し標識を増やしてほしいものです。

 ここで商店街に入らずに次の交差点まで歩くと、「西学問所跡」の石碑が建っています。ようやくゴール。きっと南冥も、この道を歩いていたのでしょう。

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 写真右は、商店街の中にある「甘棠館」の名前が冠せられた施設。パン屋やラーメン屋や文具屋、小劇場が入っています。
 この辺りは、福岡城の防御の関係上、寺社や墓地が多く設置され、現在も「歴史の町」という印象の街並みになっています。「唐人町」「黒門」といった地名にも、レトロな雰囲気が漂っていますね。詳しく知りたい方には、読みやすいものでは柳猛直『福岡歴史探訪 中央区編』海鳥社、1996)がおススメ。

 前回、上の古地図の作成は1802~1804年ごろだと書きました。「甘棠館」の焼失は1798年ですから、甘棠館は上の古地図には載っていないということになります。

 余談ですが、甘棠館跡地のすぐそばには、「当仁小学校」という小学校があります。

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 こ、これは典拠の香り…。ここまで「修猷」「甘棠」「当仁」と、中哲典拠おじさんの血が騒ぐワードが出てまいりましたが、ここでぐだぐだと説明するのも気が引けるので、また次回に回したいと思います。

 なお、甘棠館はすぐに焼失してしまいましたが、亀井南冥のもとで学んだ弟子には俊英が多いのです。最も有名なのは、大分の私塾「咸宜園」の創立者として知られる、広瀬淡窓でしょうか。咸宜園は日本最大の私塾とも言われ、のちに高野長英大村益次郎を輩出したことで知られています。おっと、「咸宜」も典拠のある言葉ですね。

 最後に、まとめとして、今回歩いた道を載せておきます。

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 赤いマーカーが唐津街道、青点がブログに写真を載せた地点。地下鉄の通る太い道が明治通りです。

 普段は漢文ばかり読んでいますが、地元の歴史を掘り返してみるのも楽しいものですね。(棋客)

 

おまけもあります。