達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

野間文史『春秋左傳正義譯注』と岩本憲司『春秋学用語集 補編』

 野間文史氏の『春秋左傳正義譯注』(第一冊~第六冊)は、『左傳正義』の初めての全訳本です。注疏の全訳というのは、その全体量と内容の難解さから、とにかく難事業と言えます。

 例えば、吉川幸次郎氏らによって『尚書正義』全訳は成し遂げられましたが、継続して行われた『毛詩正義』全訳の作業は完成しませんでした。蜂屋邦夫氏らによる『儀禮疏』翻訳も、十年以上の歳月を掛けてようやく十分の一ほどが成果になりましたが、それ以降は出版されませんでした。他にも部分的な翻訳はありますが、現時点で完成しているものはほとんどありません。そのような状況を考えると、野間文史氏によって『左傳正義』全訳が成し遂げられたのは、本当に素晴らしいことです。

 ただ、膨大な量が短い期間で発表されている上、恐らくほとんど独力で作成されているようで、ちょっとしたミスや論理の取り違え、言葉足らずな訳文が多いという印象もあります。一気に全訳を作るとなると、どうしても作業的に訳を進める必要があるのは仕方のないことで、機械的に訓読を作りそれを現代語に置き換えた、という感じがしてしまう場合もあります。

 

 さて、訳文に問題があるのであれば、それを適切な形で指摘し、議論を加えた上で、誤りが正されれば良い話です。この分野の学問が活発に動いている限り、そのような営みが続けられていくはずです。

 その試みの一が、岩本憲司『春秋学用語集 補編』です。これは野間氏の翻訳のうち第一冊、第二冊に対して、その補訂を試みたものです。

 私は当初、この本は単なる訂正集であり、野間氏の訳を見る時に参考に調べる時に使うものかと思っていました。しかし、丁寧に読んでみると、注疏の訳文を作る時の注意点が随所に踏まえられていて、注疏を学ぶ身としては、非常に面白い本でした。

 具体的に言うと、論理関係のはっきりしない疏文に対して論理の筋道を通しながら訳すテクニック、連文に注意を踏まえた訳の作り方、典拠や他の用例への目配りといった点。また、野間氏は訓読から訳を作っていると思うのですが、その場合に生じやすい誤解の指摘も多く、参考になります。

 ①経文・注文・疏文の原文、②原文に対する野間氏の句読、③野間訳の該当箇所、④岩本氏の補訂、を見比べなければならないので、なかなか読み解くのには骨が折れるのですが、疏を読む必要のある人は、一度チェックしてみるとよいでしょう。

 

 更に、これは有志の方に教えて頂いたのですが、この野間本・岩本本への訂正として、橋本秀美「『春秋用語集補編』訂議」(『青山国際政経論集』103、2019)が最近発表されています。(ちなみに、ここに『春秋用語集補編』とあるのは誤りで、本の正式なタイトルは『春秋學用語集 補編』です。)

 ここでは、岩本氏の訂正に対する再訂正や、野間氏の原案が正しい場合の再指摘などが行われています。冒頭の以下の部分は、ぜひ皆様に読んでいただきたい文章です。

 そこで,『補編』に対して筆者が疑問を抱いた箇所を挙げて,私見を付して公にしておきたい。思えば,岩本先生と筆者の共通の師である戸川芳郎先生は,注疏を的確な日本語に翻訳することを非常に重視して授業しておられたが,現在では,一字一字丁寧に注疏を読もうというような人は少ないのではないか,と疑われる。野間・岩本両先生が多くの時間と精力を注がれたお仕事が,単なる暇つぶしや揚げ足取りではなく,今後も続けられるべき探求の歩みなのだと広く認識され,そこに込められた正確な理解を求める熱意の貴重さが若い人々にも伝えられていくことを願って,両先生の成果の上に更に鄙見を呈するものである。(p.181-182)

 この、「現在では,一字一字丁寧に注疏を読もうというような人は少ないのではないか」、「そこに込められた正確な理解を求める熱意の貴重さが若い人々にも伝えられていくことを願って」という言葉に、触発されるものがありました。

 私の所属する大学では、『左傳正義』の講読が長年にわたり開講されているほか、かつては『周禮疏』や『論語義疏』の演習が開かれていることもあったようです。もちろん、私が出席したことがあるものもあります。

 ただ個人的には、「精密に注疏の訳を作る」という作業や、「他の人の注疏の訳を検討する」という作業は、意外とやってこなかった気がします。もちろん、読むこと、目を通すこと、調べることに関しては、毎日といっても過言ではない程に続けてきましたが、「的確な訳を作る」に当たっては、また違った能力が必要になってくると思います。よって、少し練習しておいてもいいかな、という気がしてきました。

 

 というわけで、早速、野間文史『春秋左傳正義譯注』の第五冊を借りてきて、少し丁寧に訳文に目を通してみました。明日から、気付いた点を整理して示したいと思います。以下の四記事です。

  1. 野間文史『春秋左傳正義譯注』第五冊について(1) - 達而録

  2. 野間文史『春秋左傳正義譯注』第五冊について(2) - 達而録

  3. 野間文史『春秋左傳正義譯注』第五冊について(3) - 達而録

  4. 野間文史『春秋左傳正義譯注』第五冊について(4) - 達而録

(棋客)