達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

齋木哲郎『後漢の儒学と『春秋』』について(1)

 最近、斎木哲郎『後漢の儒学と『春秋』』(汲古書院、2018)の第六章「鄭玄と何休の『春秋』論争」を読んでいたところ、色々と気になる記述にぶつかりました。そのうちの一部をご紹介します。鄭玄の文を読むのは非常に難しく、あまり自信はないのですが…。

 

 後漢の頃、『公羊傳』に注釈を附した何休は、『公羊墨守』『左氏膏肓』『穀梁廢疾』の三書を著し、『春秋』三傳のうち『公羊傳』の優れている点、他の二伝の批判すべき点を指摘しました。

 これに対して反論したのが鄭玄の『發墨守』『鍼膏肓』『起廢疾』です。鄭玄は『春秋』の注釈を残さなかったとされており、この三書は彼の春秋学を知る上で非常に重要な書ということになります。

 

 今日取り上げるのは、『鍼膏肓』の昭公七年傳の条です。まずは、『左傳』本文を見ておきましょう。

『左傳』昭公七年

〔傳〕鄭人相驚以伯有、曰「伯有至矣。」則皆走、不知所往。

〔杜注〕襄三十年、鄭人殺伯有。言其鬼至。

 

〔傳〕子產立公孫洩及良止以撫之、乃止。子大叔問其故。子產曰「鬼有所歸、乃不為厲、吾為之歸也。」大叔曰「公孫洩何為。」子產曰「説也、為身無義而圖説。從政有所反之以取媚也。不媚不信、不信、民不從也。」

〔杜注〕伯有無義、以妖鬼故立之。恐惑民、并立洩、使若自以大義存誅絕之後者、以解説民心。

 鄭人がかつて殺害した伯有の鬼(幽霊)を恐れていた時に、子産が公孫洩と良止の宗廟を立てたところ、霊の祟りが止んだという話。これに対し、何休は以下のように論難しています。

 何休『膏肓』難此言「孔子不語怪力亂神、以鬼神為政必惑眾故不言也。今左氏以此令後世信其然、廢仁義而祈福於鬼神、此大亂之道也。子產雖立良止以託繼絕、此以鬼賞罰、要不免於惑眾、豈當述之以示季末。」

 「子不語怪力亂神」とは、『論語』述而篇の有名な言葉。孔子は「怪力亂神」を語らないと宣言しているにもかかわらず、ここで子産が鬼神の存在を持ち出して政治を行っているのは、民を惑わせるものではないのか、というのが何休の指摘です。

 

 これに対する鄭玄の反論はどういうものなのか?というのが今日のテーマです。まず、齋木氏の読みを見ておきましょう。

(鄭玄『鍼膏肓』の齋木氏の句読:番号は筆者が附す)

……子產立良止使祀伯有以弭害。……①子所不語怪力亂神、謂虛陳靈象。于今無騐也。伯有為厲鬼、著明若此。而何不語乎。子產固為衆愚將惑、故并立公孫洩云、從政有所反之以取媚也。孔子曰、民可使由之、不可使知之。②子產達於此也。(p.234)

 

(齋木氏の訓読:番号は筆者が附す)

……子產良止を立てて伯有を祀り以て害を弭めしむ。……①子の語らざる所の怪・力・亂・神は、靈象を虛陳するを謂ふ。今に于いて騐無し。伯有厲鬼と為り、著明此くの若し。而して何ぞ語らざらんや。子產固より衆愚將に惑はされんとするが為の故に、并せて公孫洩を立てて云ふ、政に從ふには之に反はんして以て媚を取る所有るなり。孔子曰はく、民は之に由らしむ可し、之を知らしむ可からずと。②子產此に達するなり。(p.234)

 そして齋木氏は、以下のように解説しています。(番号は筆者が附す)

 のごとく、『左氏』 説を辨護する。孔子が怪力亂神を語らなかったというのは、全く語らなかったということではなく、「靈象を虚陳した」のであるといい、孔子も本來は鬼神に對する關心を持ったことを想定する。その上で伯有の靈に苦しめられる民衆を救うために、子產は伯有の子孫良止を後嗣に立てて伯有の靈を祀らせ、併せて公孫洩も子孔の後嗣に立てて子孔の霊を祀らせる措置をとった。その際、子產が「政治に従事すれば、道に反して民に媚びをとることも免れ得ない」と語っているのは、『論語』泰伯篇に「子曰はく、民は之を由らしむ可し、之を知らしむ可からず」と見えている孔子を地でいくもので、②子の鬼神崇拝は「靈象を虛陳し」て牧民の意欲を滾らせた孔子の聖域に近づいたものだ、というのである。③怪力亂神を語らなかった孔子は、鄭玄によって、鬼神にも造詣を有した聖人に改造された譯である。(p.234)

 「不語怪力亂神」といえば、儒家の現実主義を体現する言葉で、思想史の文脈で非常によく用いられます。こういった思想史的発想が先に頭にあると、「“不語怪力亂神”の擁護者=何休」vs「それに反対し怪力亂神を認める鄭玄」という構図で読もうとするのかもしれません。

 

 本当にそう読めるのかどうか、原文を丁寧に見ていきましょう。

 ①の部分。上の引用の冒頭、「子所不語怪力亂神謂虛陳靈象于今無騐也」は、「A、謂B也。」(Aとは、Bということである)という基本の説明文の形で見るのが自然でしょう。つまり、「子所不語怪力亂神、謂虛陳靈象、于今無騐也。」で一文です。

 ということは、「孔子が語らない“怪力亂神”」とは、「無意味に霊の現象を述べて(虛陳靈象)、現実に何の効果もないこと(于今無騐)」について言っている、という意味合いになります。(もしくは、「無意味に霊の現象を述べるのは、現実には効果がないということ」と主・客で訳した方が良いかもしれません。)

 つまり、鄭玄に拠れば、「怪力亂神を語らない」というのは、「いたずらに鬼神や霊について語らない」ということを指しているわけです。(逆に言えば、現実社会に効果のある場合に、意図するところがあって「怪力亂神」を持ち出すのであれば構わない、ということになります。)

 というより、もともとここの子産の言葉である「説也、為身無義而圖説。從政有所反之以取媚也。不媚不信、不信、民不從也。」に、そういったニュアンスが含まれているのかもしれません。この鬼神の話は、あくまで「説」や「媚」のために持ち出したものである、と既に子産が言っている訳です。

 

 よって、斎木氏の、①「孔子が怪力亂神を語らなかったというのは、全く語らなかったということではなく、「靈象を虚陳した」のであるといい」という説明では、鄭玄は孔子が「靈象を虚陳した」と考えたということになり、全く逆の意味になっています。

 斎木氏は「全く語らなかったということではなく」という原文にはない言葉を補い、更に後ろの「于今無騐」を無視することで意味の通る説明を作り上げていますが、これは原文に忠実な理解ではない、と言わざるを得ないでしょう。

 

 ②の部分。「子產の鬼神崇拝は「靈象を虛陳し」て牧民の意欲を滾らせた孔子の聖域に近づいたものだ」というところですが、原文に「孔子曰“民可使由之、不可使知之”。子產達於此也。」と続いているのを素直に読むべきでしょう。つまり、論語』の「民可使由之、不可使知之」の境地に、子産が達している、と鄭玄は言いたいのです。ここは別に子産の鬼神観を賛美するところではありません。

 『論語』泰伯篇「民可使由之、不可使知之」とは、これまた議論の的になっているところで、解釈も色々とあります。この文脈で持ち出したということは、「民は、(政治に)従わせることはできるが、(その本当のところを)知らせることはできない」といった解釈を取っているのだと思います。

 つまり、鄭玄は、子産という政治家は「(ある政策に)民を導き従わせることはできるが、その本心や意図を知らせることはできない」という『論語』の言葉をよく分かっている、と評価しているわけです。

 

 と言いつつ筆者もあまり自信は無いのですが、批判だけでは終われないので、一応句読と試訳を示しておきます。

 子所不語怪力亂神、謂虛陳靈象、于今無騐也。伯有為厲鬼、著明若此、而何不語乎。子產固為衆愚將惑、故并立公孫洩、云「從政有所反之以取媚也。」孔子曰「民可使由之、不可使知之」、子產達於此也。

 孔子が語らない「怪力亂神」とは、無意味に霊の現象を述べ、現実に何の効果もないものを言っているのだ。伯有が怨霊となったのはこのように明らかであるのに、語らないということがあるだろうか。子産は、もともと愚民が惑いそうになっていたので、合わせて公孫洩を宗廟に立て、「政治を行う際には道義に反して媚びを採らねばならないことがある」と言ったのだ。孔子は「民に対しては、(政治に)従わせることはできるが、(その本当のところを)知らせることはできない」と述べるが、子産はこの境地に達している。

 結局、鄭玄は「不言怪力亂神」の適用範囲を限定し、場合に拠っては「可」とした、ということにはなると思います。その点では斎木氏の結論に近づくところはありますね。

 ただ、ここは③「怪力亂神を語らなかった孔子は、鄭玄によって、鬼神にも造詣を有した聖人に改造された」というところは大きな主題ではなく、子産の言は『論語』「民可使由之、不可使知之」に合っているもので正当性がある、というところに鄭玄説の力点があるわけで、ちょっと現代的な思想史の文脈に引っ張り込みすぎという感じがしますが、如何でしょうか。

 

 内容面に関する疑問は取りあえずここまでにしておきます。

 ただ実は、斎木氏の引く『發墨守』『鍼膏肓』『起廢疾』の底本に関して、もう一つ疑問が残っています。これに関連して、『發墨守』『鍼膏肓』『起廢疾』の輯本にはどのようなものがあるのかというのを少し調べてみました。

 また次回、皮錫瑞の議論と合わせてご紹介します。

(棋客)