達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

『後漢書』の来歴(2)

 前回の続きです。後漢書』に関して、余嘉錫『四庫提要辨證』の説を見ていきましょう。

『四庫提要辨證』史部一・後漢書一百二十卷

①嘉錫案,『梁書』劉昭傳云「昭集後漢同異,注范曄書,世稱博悉。出爲剡令,卒官。集注後漢一百八十卷。」不言曾注司馬彪志,豈非即在集注范曄書一百八十卷之内乎。然則昭作注之始,即以『續漢書』八志併入范書矣。

②『隋書』經籍志有「後漢書一百二十五卷」注云「范曄本,梁剡令劉昭注」,而昭所注司馬彪志,亦不著錄。考「隋志」,范曄『後漢書』僅九十七卷,而昭所注乃有一百二十五卷,較原書增多二十八卷,是即今本之八志三十卷耳。

③『唐書』范書作九十二卷,別有劉熙注一百二十二卷。章宗源『隋書經籍志考證』卷一引之,以「熙」為「昭」字之訛,謂以「唐志」卷數計之,紀傳九十二卷,合續志三十卷,恰符百二十二卷之數。其説尤為精核。

④兩唐志又有『後漢書』五十八卷,劉昭補注。姚振宗『隋志考證』卷十一云:「五十八卷者,似即所注司馬八志。百二十二卷者,為所注范氏紀傳。兩書合計正合本傳一百八十卷之數。其卷數分合,不可知已。」其説雖與章氏異,然無論如何算法,皆可以證明劉昭補注范書之中,確已將司馬八志併入其内,固無以異也。

 ここは、范曄『後漢書』の本紀・列傳と、司馬彪『續漢書』の志がいつ合併されたのか、またそれと劉昭注・李賢注の関係はどうなっているのか、ということを考察するところです。ここを読むためには、歷代目録を一覧で見る必要があるので、下に掲げておきます。同じ記号が同じ本に対応しています。

・『隋書』經籍志
○續漢書 八十三巻 晉秘書監司馬彪撰
後漢書 九十七巻 宋太子詹事范曄撰
後漢書 一百二十五巻 范曄本 梁剡令劉昭注
後漢書讚論 四巻 范曄撰

・『舊唐書』藝文志
○後(ママ)漢書 八十三巻 司馬彪撰
後漢書 九十二巻 范曄撰 
後漢書論贊 五巻 范曄撰
後漢書 五十八巻 劉昭補注
後漢書 一百巻 皇太子賢注

・『新唐書』藝文志
○司馬彪續漢書 八十三巻 又錄一巻
●范曄後漢書 九十二巻
□論贊 五巻
△劉煕(ママ)注范曄後漢書 一百二十二巻
△劉昭補注後漢書 五十八巻
▲章懷太子賢注後漢書 一百巻

 ①余氏の主張は、『梁書』劉昭傳には「范曄書に注した」としか書かれておらず、「司馬彪志に注した」という記述はない(が、実際には劉昭は司馬彪志の部分にも注している)ことから、この時既に、『續漢書』の八志の部分が范曄『後漢書』に合併されていたとするもの。以下、歷代目録からこの説を補強していくわけです。

 ②まずは『隋書』經籍志から。范曄後漢書が「九十七巻」、范曄本劉昭注が「一百二十五巻」とあり、この量の差は劉昭注が司馬彪志を含むことによる差であるとします。(両者の差は二十八卷。現行本では「志」は三十卷であり、大体合う。)

 ③次は新唐書』藝文志から。こちらは范曄後漢書が「九十二卷」、劉熙注が「一百二十二卷」としています。ここで、章宗源の説を引き、1.「熙」は「昭」の誤字であること、2.九十二卷(紀・傳)+三十卷(志)で百二十二卷となり計算が合うことを指摘します。

 ④最後に、舊唐志・新唐志に「後漢書五十八卷、劉昭補注」とあるのが気になるところです。これについては、姚振宗が「司馬彪志の注釈部分が五十八卷で、范曄紀傳の注釈部分が百二十二卷、合計すると一百八十卷(『梁書』劉昭傳と同じ)となる」とする説を引いています。

 ③の章説と④の姚説は噛み合っていないのですが、どちらの説を採るにせよ、司馬彪志が早くから范曄紀傳と合併されていたと主張する上では変わりないということになります。

⑤以事理度之,蓋自章懷注既行之後,人之言後漢事者,爭用其書,而諸家之説盡廢,昭注浸以不顯。然章懷只注范書紀傳,典章制度無可考詳,讀者遂用昭原例,兼習昭所注續志,以補其闕。故杜佑『通典』述科舉之制,以『後漢書』『續漢志』連類而舉,而『通志』選舉略亦言唐以『後漢書』及劉昭所注志為一史,蓋由於此。

⑥至宋時,昭所注范書紀傳遂佚,而志則籍此倖存,孫奭遂建議以昭所注志與范書合為一編。蓋以前昭所注志與章懷所注紀傳,各為一書,至是始合。

 ここは①~④で出た結論から、更に推論を加える部分です。要約すると以下のような具合。

 ⑤唐に李賢注が出て以来、基本的にこれが使われることになり、劉昭注は徐々に顧みられなくなった。しかし、李賢は范曄の紀傳部分にしか注しておらず、典章制度には弱かった。そこで、読者は劉昭注の司馬彪志を合わせて読み、その闕を補った。よって、『通典』や『通志』が科挙の制度を議論するときに『後漢書』と『續漢書』の志の部分を同類に用いている。

 ⑥このような事情から、宋代に入って、劉昭注の范曄紀傳の部分は失われたものの、劉昭注の司馬彪志の部分は残っていた。そこで、孫奭の建議によって、「李賢注范曄『後漢書』紀傳」と「劉昭注司馬彪『續漢書』志」が一書にまとめられることとなった。この両者が一書になったのは、この時が最初である。

⑦若夫司馬彪志之與范書,則當劉昭作注之時,合併固已久矣。『提要』泥於『書錄解題』之言,以為二書至孫奭始合為一編,唐以前八志未嘗合併,是知其一,未知其二也。

⑧王鳴盛『十七史商榷』雖知劉昭用續志補入,而又謂章懷于志仍用昭注為避難就易,是蓋以為章懷作注時,已用所注續漢書志合為一書,而未嘗考之『書錄解題』。

  さて、余氏が『提要』のどこを批判したいのか、お分かりいただけたでしょうか?

 ⑦『提要』は、「司馬彪志」と「范曄紀傳」の合併を、北宋の孫奭の時としていました。しかし、余氏に言わせれば、北宋の孫奭の建議は「劉昭注司馬彪志」と「李賢注范曄紀傳」の合併であるに過ぎません。本体である「司馬彪志」と「范曄紀傳」の合併自体は、劉昭が注釈を附した時(またはそれ以前)からあったはずだ、とするわけです。

 ⑧『十七史商榷』は、逆に李賢の時に既に劉昭注司馬彪志を合わせて一書にしたと考えているようですが、この説は今度は『直齋書錄解題』の記述に抵触するとして批判します。

⑨惟錢大昕『養新錄』卷六曰:「劉昭注後漢志三十卷,本自單行,與章懷太子所注范史九十卷各別。其併於范史,實始於宋乾興元年,蓋因孫奭之請。昭本注范史紀傳,又取司馬氏續漢志兼注之,以補蔚宗之闕。厥後章懷太子別注范史,而劉注遂廢。惟志三十卷,則章懷以非范氏書,故注不及焉。而司馬劉二家之書,幸得傳留至今,與范史並列學官。」其於范史與司馬志之分合,可謂明辨以晳矣。章氏、姚氏之考「隋志」,亦幸得錢氏導夫先路耳。

  ⑨最後に明晰な説として、錢大昕『十駕齋養新錄』を引いています。確かに、非常に分かりやすく整理された説明ですね。

 

 如何でしょうか? 正史の記述、歷代目録、近人の研究を幅広く見渡して明晰な整理を与えており、現代でも参照価値が非常に高いものであることがよく分かります。

 なお、劉昭注については、小林岳「劉昭の『後漢書』注について:『集注後漢』の内容をめぐって」という論文があり、ここの内容と関連する話題が出ていますので、合わせて参考にして下さい。(ただ、余氏の議論は出てきません。)

 

【2021/02/17追記】

 『日本国見在書目録』を見ていて、こんな発見をしました。

  とすると、北宋以前から、両書はセットになっていたのかもしれません。

(棋客)