達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

顧千里『撫本禮記鄭注考異』と段玉裁(2)

 第1回はこちら

 今回は、顧千里説を整理しておきましょう。

 ざっと経緯を整理しておくと、『十三経注疏校勘記』の原稿の完成は嘉慶十一年、張敦仁が宋撫州本『礼記』を影印し顧千里によって『考異』が書かれたのも同年、段玉裁の反論が嘉慶十二年の書簡です。

 まず、課題の経文を掲げておきます。

『禮記』曲禮上

〔經〕禮、不諱嫌名、二名不偏諱

〔注〕為其難辟也。嫌名、謂音聲相近、若禹與雨、丘與區也。偏謂二名不一一諱也。孔子之母、名徵在、言在不稱徵、言徵不稱在。

 この条に対する顧説が下。前回紹介した『十三経注疏校勘記』所載の説に反応していることは明らかかと思います。『礼記』の『校勘記』に段玉裁の手が加わっているのかというのは確証のないところのようですが、この顧説に対してのちに段氏が猛反対していることを考えれば、少なくとも段氏が『校勘記』と同説であったことは確かです。

 顧千里『撫本考異』巻上・曲禮上「二名不偏諱。」

 毛居正曰「偏本作徧、與遍同。注云云、正義云云。今本作偏、非也云云。」

 今案、毛説非也。唐石本作偏、不作徧。『釋文』不為此字作音、以前後「徧」字音相例、可知此作「偏」矣。『正義』亦無作徧之意。其鄭云不一一諱者、乃以一解偏。蓋一一者、皆偏有其一者也。毛誤讀注及『正義』、造此臆説。又引舊杭本柳文以實之、不知柳自作偏。『唐律』謂之「偏犯」。『疏義』云「偏犯者、謂複名單犯。」舊杭本柳文特譌字耳。岳氏『沿革例』踵其説云「合作徧」、又云「不敢加蜀大字本興國本輕於改也」。是在宋時竟有因誼父之言而輕改經文者、其爲誤不淺。又檀弓下同此文、亦可證。

 なお、『撫本考異』の底本には、国家図書館にて公開されている嘉慶十一年刊本を用いています。皇清經解所収本も見ておきましたが、大きな違いはありません。

 顧千里は「偏」が正しいとし、毛説を斥けています。その根拠を整理しておくと、

①唐の開成石経が「偏」に作っていること。

②『釋文』がここに音義を付していないこと。『釋文』曲禮上「徧祭、音遍、下注同。」、曲禮下「歲徧、音遍、本又作遍、下同。」(「歲徧」はこの条より後ろに出てきます)の例から考えれば、「徧」ならここに音義が付されるはず。

③『正義』の説明からも「徧」の意があったとは読み取れない。

④鄭玄が「不一一諱」というのは、「一」の字によって「偏」を解釈したもの。「一一」とは、「かたよって一つだけがある」ことを示す。

⑤『唐律』に「偏犯」とある。舊杭本の柳宗元集の「遍」(毛説の根拠の一つ)は誤字。

⑥『禮記』檀弓下にも「二名不偏諱。」とある。

 

 『正義』の見たテキストは、『釈文』の見たテキストは、鄭注は…と一つ一つ遡ってゆく議論に、顧千里らしさ、また文献学者らしさを感じます。

 実際のところ各本「偏」に作る上に、『釈文』の例と『禮記』檀弓下の例を加えれば、やはり少なくともテキストとしては「偏」字であったと考えておくのが自然ではないかと思いますが、皆さまはどうお考えでしょうか?

 

 ただ、そうすると「二名不偏諱」をどういう意味で読むのか、というのが問題になります。顧千里がこれをどう理解していたのか、上文だけでは少し分かりにくいのです。(少なくとも、私はよく理解できませんでした。)

 ここでいろいろ調べて行き着いたのが、盧文弨(1717-1795)の説です。これで疑問が氷解します。

盧文弨『鍾山札記』卷三・二名不偏諱

 『記』曲禮云「二名不偏諱」、今人頗有作「不徧諱」者、余每以其誤輒為正之。今乃知彼亦有所本。相臺岳氏有『刊正九經三傳沿革例』中有云「二名不偏諱、偏合作徧。疏曰、不徧諱者、謂兩字作名、不一一諱之也。案、舊杭本柳文載子厚除監察御史、以祖名察躬辭奉勅、二名不遍諱、不合辭。據此作遍字、是舊禮作徧字明矣。」此皆岳氏珂所説、余以為不然。若如其、「二名不徧諱」則必專指定一字諱、一字不必諱、始得謂之「不徧諱」。今以孔子「言徵不言在、言在不言徵」考之、則二字皆在所諱中、但偏舉其一則不諱耳。岳氏唯據柳文、何不考韓文所引固是「偏諱」明甚。安知柳文非俗本傳寫之失、抑或當時宣勅者失考之、過未足依據。偏字義圓、徧字義滯、細體會之自見。

 盧文弨説のうち、「徧」と「偏」の相違について整理しておきます。

①「二名不徧諱(二名徧くは諱まず)」は、「二文字の両字を諱むことはない(=一字だけを諱む)」、つまり「どちらか一字を決めてそちらだけを避諱し、もう一字は必ずしも避諱しない」ことを指す。

②「二名不偏諱(二名偏りては諱まず)」は、「どちらか片方の字に決めてそちらだけを避諱するのではない」ことを指す。

 

 前回述べたように、ここは、孔子の母の諱が「徵在」であり、孔子は「在」の字を言うときには「徵」と言わず、「徵」の字を言うときには「在」と言わなかったことを示す条です。

 盧氏の解釈は、「徵在」という二字の名を諱む際、「徵」の字だけを諱み「在」は常に用いるor「在」の字だけを諱み「徵」は常に用いる、ということはなく、両字ともに諱む対象として用いた、とするものです。

 顧千里が「其鄭云不一一諱者、乃以一解偏。蓋一一者、皆偏有其一者也。」というのも、これと同じ解釈かと思います。鄭玄の「一一」は「全てどちらか片方に偏ること」を指しており、「不一一諱」でこれを否定していると考えるわけです。

 

 盧文弨は段氏、顧氏より前の人ですが、両氏はこの説を知っていたのでしょうか。少なくとも段氏は知らなかったように思うのですが、その話は次回

(棋客)