達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

「余計な校勘」の一例

 標点本というのは大変便利なものですが、句点が間違っていたり、字形を誤っていたり、脱字があったりするので注意が必要、というのは耳にたこができるぐらい言われているでしょうか。以前、字形と句点の誤りの具体例を示したことがあります。

 今回は、「標点本の編集者が、余計な校勘を加えている例」を紹介しようと思います。句点や字の誤りはその箇所を正せば済む話ですが、必要のない校勘を加えるというのは背後に「校勘方針の誤り」が潜んでいる場合が多いので、その本全体にわたっての欠点となってしまう可能性があります。

 そして、これは我々自身が普段文字起こしをする際にも気を付けるべきこと、ということになりますね。参考になる内容かと思いますので、取り上げておきます。

 『新編汪中集』(国家清史編纂委員会・文献叢刊、廣陵書社、2005)の「明堂通釋」を題材に、校勘が加わっている五箇所を下に示しています。

・故大戴記明堂篇「或以爲明堂者、文王廟也。」(p.362)

・明堂篇説「明堂、此天子之路寢也、不齊不居其室。」(p.363)

・明堂篇「明堂、其外水環之曰辟雝。」(p.364)

・明堂篇采集禮説、具有瑕瑜不掩之忠。(p.365)

・故明堂篇之「二九四七五三六一八」、即其制作之義。(p.366)

  この五箇所それぞれに、以下のような脚注がついています。

『明堂篇』、原作『盛德篇』、據大戴禮記校改。

 ここに指摘されているとおり、汪中『述学』の四部叢刊本などを見ますと、もともとはどれも「明堂篇」ではなく「盛德篇」に作ってあります。しかし、現行本の『大戴禮記』を見ると、確かに、以下の引用文は全て「明堂篇」に見える文章です。そこで、編集者は、原文に「盛德篇」とあるのは「明堂篇」の誤りであると考えて、修正を施したのでしょう。

 しかし、これは変えなくて良いところまで変えてしまう「余計な校勘」と謂うべきもので、汪中の意図を曲げてしまっています。

 というのも、『大戴禮記』の「明堂篇」は、もともと「盛德篇」と一まとめになっていたのではないか、という説があるのです。これは、『五経異議』や蔡邕「明堂月令論」に、この篇の文章がしばしば「盛德篇」として引用されていることに由来しています。(この説が正しいのかというのはまた別問題ですが。)

 よって、清朝人がこれを「盛德篇」と引くのは、別に普通のことであって間違いではないのです。というより、汪中は意図的に「盛德篇」に変えて引用しているわけで、その意図を読み取ってやらねばなりません。分かりやすく言えば、現行本で『尚書』の「舜典」に入っている文章を、敢えて「堯典」として引くのと同じような意味合いです。

 少し調べただけでも、惠棟、阮元、陳奐、黄以周、孫詒讓、皮錫瑞らは、上の文章を「盛德篇」として引用しています。もちろん、逆に「明堂篇」として引用する人もいます。

 

 上の場合なら、「現行本では「明堂篇」にある」ぐらいの注記は加えても良いと思うのですが、原文を改めてしまうのは、汪中の意図を損ねているのでやり過ぎということになるでしょう。

 以上、非常に細かな一例に見えるかもしれませんが、これはなかなか根深い問題だと感じております。というのも、最近出版された標点本には、この手の修正が入っていることが非常に多いのです。今日挙げた例のように、きちんと注記して改めているのであればまだ良いのですが、書かれていないこともままあります。

 そもそも、ある本が何か他の書を引用する時に、その「引用箇所」を、「その引用源の現行本の字句」によって改めることは、相当危険であると考えるべきです。(もちろん、我々が読書する際に、内容確認のために原書に当たるのは、当然必要な行為ですよ。)

 というのも、「引用者の見た本の字句が異なっていた可能性」「引用者が自分の判断で改めた可能性」「引用者が故意に省いた可能性」といったところに対する考察の余地を、残しておいてやるべきであるからです。他にも、「引用者は誤って引用してしまっているのだが、その誤りのもとにその後の引用者の説明が進んでおり、修正すると意味が通じなくなる」といったことも有り得ますね。

 もちろん、木版印刷上の単なる誤字であれば直すべきですが、こういった修正はよほど慎重にやらねばならないことは確かでしょう。

(棋客)