達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

『説文解字』小徐本「祁寯藻本」について

 本ブログでひそかに力を入れて調べていることの一つに、『説文解字』の版本に関する整理、またオンライン上での公開画像データの整理があります。

chutetsu.hateblo.jp

chutetsu.hateblo.jp

 これらの記事のコメント欄で、鈴木俊哉先生より、関連するデジタル資料や研究書をたくさんご教示いただきました。そのうちの一つが、郭立暄『中國古籍原刻翻刻與初印後印研究』(中西書局、2015)です。實例編、圖版編(實例)、圖版編(通論)の三冊セットでとても大きな本ですが、図版・分析ともに充実しており、大変啓発を受ける本でした。

 この本には様々な版本に対する研究が載っているのですが、特に「祁寯藻本」(道光十九年刻本)についての各本の整理がなされておりまして、今回はこれを取り上げます。(實例編、p.393-405)

 

 祁寯藻本とは、徐鍇説文解字繋傳』(小徐本)の版本の一つで、1839年(道光十九年)祁寯藻が小徐本の宋抄本をもとに校定を加えて出版したものです。これは小徐本の代表的な刊本の一つと目されています。

 

 本来、「木版本」とは、その名の通り、木の板に文字を彫り付けて印刷するものですから、一度木の板が完成すれば、同じ刊本を用いる限りは全く同じ本が量産されてゆくはずです。

 しかし、同じ刊本を使って印刷しているうちに修正箇所が発見された場合、部分的に木を削ったり木をはめたりして、木の板そのものは変えないままに修正を施す場合があります。また、経年劣化によって版木が摩耗したり割れが生じることもあり、部分的に補修を入れる場合もあります。

 

 つまり、一言に「道光十九年の刊本」といっても、印刷された時期によって微妙に字句の修正が入っていて、全く同じ「本」ではないことがある、というわけです。

 これは「同一版本の印刷時期による相違」ということになり、「初印本」「後印本」、つまり「初期or後期に印刷された本」といった区分によって整理されます。(余談ですが、普通、「同じ版本の印刷時期の相違」は研究しようのない問題、または大雑把にしか分からない問題です。長きに渡って、多くの数の本が刷られて現代に保存されていなければ、こうした研究自体が不可能だからです。)

 

 郭氏によれば、祁寯藻本には、大きく分けると以下の種類があります。

  • 初印甲本:最初期に印刷された本(華東師範大図書館、山西省図書館、浙江省図書館蔵)
  • 初印乙本:上の本の篆字、説解の抜けを追加(上海図書館蔵)
  • 初印丙本:二箇所の修正。(陜西省図書館、首都図書館など蔵)
  • 初印丁本:五箇所の修正。ここから陳鑾の序が附される。(上海図書館蔵)
  • 後印甲本:陳鑾序の文章追加。ここから校勘記が附される。(北京図書館蔵)
  • 後印乙本:百箇所あまりの修正。(北京中国国家図書館、復旦大学図書館蔵)
  • 後印丙本:九箇所の修正。(上海図書館、陜西師範大学図書館蔵)

 

 さて、京都大学には、人文科学研究所図書館に二種の祁寯藻本が、文学研究科図書館には一種の祁寯藻本が収められています。それが以下の三つです。

 

 A.説文解字繫傳(人文科学研究所図書館 東方 經-X-2-15

 B.説文解字繫傳(人文科学研究所図書館 東方 經-X-2-16

 C.説文解字繫傳(文学研究科図書館 中文 A Xg 4-2)

 

 これらが上の区分のどれに当たるのか調査してきたので、その結果を報告をしておきます。

 

 まず、A本は、①校勘記・陳序が無く、②初印丙本の二箇所の変更*1を踏襲するが、③初印丁本の五箇所の変更を踏襲しない*2、という特徴から考えれば、「初印丙本」に相当すると推測できます。

 続いて、B本は、①校勘記・陳序があり、②最終的な修正*3が全て反映されていることから、最後の「後印丙本」に相当すると推測できます。

 最後に、C本は、①校勘記・陳序が無く、②初印乙本の修正箇所*4を踏襲するが、③初印丙本の二箇所の修正(先述)を踏襲しない、という特徴から考えれば、「初印乙本」に相当すると推測できます。

【※2021/01/05追記:この調査に誤りがあり、以下の記事で訂正しております】

chutetsu.hateblo.jp

-----------------

 

 つまり、三種の本は同じ「徐鍇『説文解字繋傳』祁寯藻本(道光十九年刊本)」ではありますが、どれも異なる時期に印刷されたもの、ということが分かります。

 なお、私の行った作業は、郭氏の作った異同表をもとに確認したというだけで、全ての字句を見たわけではないですから、上の三種の本が実は郭氏の分類ではどこにも入らない、新種の印本である可能性もありますが、一応、上の分類ということにしておきます。

 ちなみに、このC本には数種の蔵書印がありまして、少々気になっております。また調べて何か分かったらご報告いたします。

 

 さて、当たり前ですが、上の三種はどれも全く同じ大きさの本で、パッと見た感じでは違いがあるようには思えません。しかし、郭氏の言うとおりに確かめていくとどんどん修正された箇所が見つかって、なかなか面白い作業でした。

 ただ、版木は徐々にわずかながら縮んでいくという話があるので、定規を当ててミリ単位で比べれば差が分かるかもしれません。そこまで気が回っていませんでした…苦笑。

 

 ちなみに、祁寯藻本はのち『古經解彙函』(1873、同治十二年)に収録され、この画像データが広島大学所蔵『説文解字繋傳』古經解彙函本(電子化計劃)にて公開されています。 

 郭氏の整理に拠れば、この『古經解彙函』に収録される祁寯藻本は、「初印乙本」を元にしている可能性が高いようです。とすると、『古經解彙函』本には後印乙本や後印丙本よりも古い姿の祁寯藻本が残っている、という不思議な現象が見られるわけです。なかなか興味深い例ですね。

(棋客)

*1:「裏」字(巻16-03a-l4)の中心の形が「里」→「田」に変更、「從二比」(巻18-14a-l1)の「比」→「匕」に変更。特に「田」のところは、「裏」の真ん中を無理矢理削って「田」を当てはめているような感じになっています。

*2:「鄭伯」→「曹伯」(巻4-08a-l1)、「夾引」→「夬引」(巻10-11a-l6)など

*3:「散故」→「散放」(巻1-08b-l3)、「與扶云辟二反」→「   辟亦反」(前半三字は空白)(巻18-12b-l5)など

*4:「𡬄」の篆字追加、「寎」の説解追加(巻14-11a-l7)