達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

東房・室・西房(1):礼学の議論の一例

 最近、宮室の構造について色々調べる機会があったので、つらつらと書き連ねていきます。ここ数回の記事は「礼」をテーマとするものが多いですが、今回もその一環で、礼学の議論とは具体的にどのようなものなのか、その一端をご紹介します。

 

 宮室の構造についての研究というと、歴史学や考古学の範疇のように聞こえるかもしれませんが、「経書の記述」の中から、つまり経学の枠組みの中から議論を進めるのであれば、「礼学」や「経学」の範疇と言えます。これを遺跡や文物に基づきつつ、経書を初めとする文献群と重ねあわせながら研究するのであれば、歴史学・考古学の視点ということになるでしょうか。

 言い換えれば、「実際に宮室はどのような構造になっていたか」という観点から考察すればとすれば「歴史研究」になり、「経学の世界の中で歴代どのように考えられてきたか」という観点から考察すれば「経学研究」になる、となります。いつも両者の間に厳密に線を引けるわけではないですが、今回は「経学」の議論として読んでいくつもりです。

 

 さて、宮室の構造について考えるきっかけとなったのは、このツイートに返信を頂いたことです。

 「海水」さんより頂いたお返事が以下で、更に続けて色々とやり取りをさせていただきました。

 Twitter上で経学の議論ができるとは、素晴らしい時代になったものです。詳しいやり取りは上のツイートから追っていただくとして、これに触発され、宮室における「牖」(まど)と「戸」(とびら)の位置関係に関する議論を整理せねば、と考えたわけです。

 

 ただ、いきなり上の議論に入って整理するのはなかなか難しかったので、少し回り道をしながらやっていきます。

 

 最近、新田元規氏の「喪礼における「祔祭」「遷廟」の解釈論 : 鄭玄と朱熹の所説を中心として」*1という論文をつらつらと読んでいたところ、黄宗羲(1610-1695)が萬斯同(1638-1702)に送った書簡「萬季野答喪禮雜問」の中に、上の議論の前提となる問題について言及があることを知りました。(もとの論文の主題とは全く関係のないところです。)

 

 「萬季野答喪禮雜問」では礼学上のさまざまな問題が議論されていますが、そのうちの一つが「大夫以下の宮室における西房の有無」に焦点が当てられたもので、これが上の話と少し関わってくるのです。

 いきなり自分で整理するのは難しそうでしたので、まずはこの書簡を読んでみることにしました。

 

 前提として知っておくべきことは、普通、天子や諸侯の居所である「路寝」の内部は、階段を上った先が、「堂」(階段を上ってすぐの空間)、「室」(中央奥の部屋)、「房」(東西の奥の部屋、東房と西房)に分かれいる、と考えられているということです。(路寝は五室に分かれていたとする説もありますが、ここでは一回脇においておきます。)

 そして、「堂」は、東西に仕切りがあり、これを「序」といいます(東序、西序)。

 また、「堂」に登るための階段は東西に一つずつあって、東を「阼階(阼)」、西を「西階」と呼び、主人、主役が「阼」を用いることになっています。

・黄宗羲「答萬季野喪禮雜問」

 ①宮室之制,先儒謂諸侯以上房分東西,卿士以下但有東無西。唯陳用之謂東西俱有,朱子心以爲然,而未敢决言。今將從陳説,如何。

 ②鄭康成謂天子諸侯有左右房,大夫士惟有東房西室。陳用之因〈郷飲酒〉薦脯出自左房,〈郷射〉籩豆出自東房,以爲言左以有右,言東以有西,則士大夫之房室與天子諸侯同可知。③此不足以破鄭説。所謂左房者,安知其非對右室而言也。所謂東房者,安知其非對西室而言也。④如〈士冠禮〉「冠者筵西拜受觶,賓東面答拜。」註「筵西拜,南面拜也。賓還答拜於西序之位。」此時筵在室戸西,當扆之處。無西房則西序與筵相近,故容答拜。有西房則西序在西房之盡,其去筵也遠矣,此猶相距耳。⑤若〈士昏禮〉舅席在阼西,而姑席在房戸外之西南面,姑席不設於房,戸東者以阼當房戸之東。若設於戸東,則在舅之北,相背不便。醴婦之席在戸牖間,當扆之處。婦東面拜,受贊西階上,北面拜送。無西房則西階與牖,相當不碍東面。有西房則贊與婦背面焉,有背面不相見而可以爲禮者乎。

 ⑥以此推之,士未必有西房也。且胤之舞衣,大貝,鼖鼓,在西房。兌之戈,和之弓,垂之竹矢,在東房。是天子諸侯之兩房,經有明文。士既有西房,何以空設,無一事及之耶。

 最初の段落が萬斯同の質問です。まずここだけを要約すると、

 ①宮室の制度について。先儒たちは、諸侯以上は「房」を東西の二つに分け、卿士以下は東房だけがあって西房はない、としている。しかし、陳用之(陳祥道)は、卿士以下にも東西の房があるとし、これに朱子も心中では賛成していますが、判断は下していません。今、陳説に従おうとしていますが、いかがでしょうか。

 天子や諸侯の居所の場合、「房」が東西に分かれて二つ存在することに異説はないようですが、卿大夫以下の場合に「東房」だけであったのか、それとも東西ともに存在するのか、という点について議論があったようです。

 なお、陳祥道の説は『禮書』巻四十三「王及諸侯寢廟制」に見え、朱子の説は『晦菴集』卷六十八「儀禮釋宮」に見えます。

 

 萬斯同の質問を簡単に整理しておくと、

鄭玄説:卿大夫以下の場合、「東房」だけで「西房」はない。

陳祥道説:卿大夫以下の場合も、天子諸侯と同様に、「東房」と「西房」がある。

 となり、どちらに従えばよいのか質問しているわけです。鄭玄説は銭玄『三礼通論』で簡単に整理されていて、賈公彦や孔頴達もこれと同意見のようです。

 

 上の説を見て、「天子・諸侯とそれ以下とで、なぜ細々と区別するのだろう」とお考えになられる方もいらっしゃるかもしれません。

 よく言われる話ですが、「礼」の基本的な原理は、身分・男女・年齢・親戚関係などによって「差をつけること」にあります。例えるなら、年齢や立場によって「(言葉遣いに)差をつける」ことで敬意を示す日本語の「敬語」を思い浮かべていただければ良いわけです。

 ここでの鄭玄説は、天子・諸侯とそれ以下の身分によって宮室のグレードに差をつけていることになります。大げさに言えば、これぞ「礼学」という感触を受ける説です。

 

 ちなみに、銭玄『三礼通論』は、礼の細則について図を交えて分かりやすく整理されていて、使い勝手の良いおススメの本です。

 これに対する黄宗羲の答えは、また次回に。

(棋客)

*1:『人間社会文化研究』(27)、2019、徳島大学総合科学部、オンライン上で公開されており、誰でも読むことができます。礼学上のはなはだ難解な問題が綺麗に整理されており、とても勉強になりました。https://ci.nii.ac.jp/naid/120006777492