達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

「禘祫」の祭祀について(1)

 最近、礼学上の大きな問題の一つである「禘祫」の祭祀について概要を整理する機会があったので、こちらに残しておきます。前回までは部屋の扉と窓とかいうかなり細かい話をしていましたが、「禘祫」は歴代の学者が必ず言及しているといってもよいぐらいに重要な議論のテーマです。今回は、池田秀三「黄侃<禮學略説>詳注稿(一)」*1に全面的に依拠しながら整理しています。(オンラインで読めます↓)

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 更に詳しい専論として、新田元規「唐宋より清初に至る禘祫解釈史」があります。歴代の議論が総ざらいされており、より詳しく知りたい方はこちらを読むと良いです。(オンライン上での公開はありません。)

 

 これまで何度も出てきたように、経学・礼学の調べごとには、やはり段注が便利です。まずは、「禘」字の『説文』段注を見ておきましょう。

・段玉裁『説文解字注』一篇上、示部、禘(十葉裏)

 禘、諦祭也。从示。帝聲。周禮曰「五歲一禘」。

〔段注〕

 言部曰「諦者、審也」。「諦祭」者、祭之審諦者也。何言乎審諦。自來說者皆云「審諦昭穆」也。禘有三、有時禘、有殷禘、有大禘。時禘者、王制「春曰礿、夏曰禘、秋曰嘗、冬曰蒸」、是也、夏商之禮也。殷禘者、周春祠、夏禴(卽礿字)秋嘗、冬蒸、以禘爲殷祭。殷者、盛也。「禘」與「祫」皆合羣廟之主祭於大祖廟也。大禘者、大傳、小記皆曰「王者禘其祖之所自出、以其祖配之」、謂王者之先祖皆感大微五帝之精以生、皆用正歲之正月郊祭之。『孝經』「郊祀后稷以配天」、配靈威仰也。

 『毛詩』言禘者二。曰「雝、禘大祖也」。大祖謂文王、此言殷祭也。曰「長發、大禘也」。此言商郊祭感生帝汁光紀、以玄王配也。云「大禘」者、葢謂其事大於宗廟之禘。『春秋』經言諸矦之禮。僖八年「禘于太廟」、太廟謂周公廟、魯之太祖也。天子宗廟之禘、亦以尊太祖、此正禮也。其他經言「吉禘于莊公」、傳之禘於武公、禘於襄公、禘於僖公、皆專祭一公、僭用禘名、非成王賜魯重祭、周公得用禘禮之意也。

 昭穆固有定、曷爲審諦而定之也。禘必羣廟之主皆合食、恐有如夏父弗忌之逆祀亂昭穆者、則順祀之也。天子諸矦之禮、兄弟或相爲後、諸父諸子或相爲後、祖行孫行或相爲後、必後之者與所後者爲昭穆。所後者昭則後之者穆、所後者穆則後之者昭、而不與族人同昭穆。以重噐授受爲昭穆、不以世系蟬聮爲昭穆也。故曰「宗廟之禮、所以序昭穆也」。宗廟之禮、謂禘祭也。禘之說大亂於唐之陸淳、趙匡、後儒襲之、不可以不正。

〔第一段落〕
 段玉裁に拠れば、「禘」は三種に分かれます。

  • 時禘:宗廟の時祭(時享、祖先の霊廟を季節ごとに祭る)。夏・商の禮で「春曰礿、夏曰禘、秋曰嘗、冬曰蒸」という時の「禘」。
  • 殷禘:宗廟の殷祭(大祭、祖先の位牌を大廟に集めて祭る)。周の禮では時祭は「祠、禴(礿)嘗、蒸」の四つであり、「禘」は「殷祭」を指す。禘祫の禘、というとこれを指す。
  • 大禘:天の祭り(郊)としての禘(大禘)。王者の始祖を主とし、その感生帝を配して祭る。禘郊の禘、というとこれを指す。

 なお、池田論文によれば、ここは全て鄭玄説に基づいて整理されています。

 

〔第二段落〕
 『毛詩』や『春秋』に出てくる「禘」の実例が、それぞれ上の三種の内のどれに当たるのか、段玉裁が分類しています。

〔第三段落〕
 段玉裁は冒頭で、「禘、諦祭也」の「諦祭」とは、祭祀の中で「審諦」(はっきりさせる)であることを指し、これが「昭穆をはっきりさせる」ことであると説明しました。「昭穆」というのは、宗廟における位牌の並べ方を示すもので、普通は一世ごとに左右に並べていくだけですから、固定されたものであるはずです。とすると、ここで「昭穆をはっきりさせる」というのはどういうことか、という疑問が浮かぶわけで、この疑問に答えているわけです。詳細は省略。

 

 次に、「祫」字を調べておきましょう。

・段玉裁『説文解字注』一篇上、示部、祫(十一葉表)

 祫、大合祭先祖親疏遠近也。从示合。周禮曰「三歲一祫」。

〔段注〕

 春秋文二年八月丁卯「大事于大廟」、『公羊傳』曰「大事者何。大祫也。大祫者何。合祭也。毀廟之主、陳於大祖。未毀廟之主皆升(句)、合食於大祖。(兼上二者、)五年而再殷祭」。鄭康成曰「魯禮、三年喪畢而祫於大祖、明年春、禘於羣廟。自此之後、五年而再殷祭。一祫一禘」。

 『春秋』經書「祫」謂之「大事」、書「禘」謂之「有事」。商頌玄鳥「祀高宗也」、鄭云「祀當爲祫。高宗崩而始合祭於契之廟、歌是詩焉」。曾子問「祫祭於祖、則祝迎四廟之主」。許言「合祭先祖親疏遠近」、正用『公羊』大事傳。禘之合食蓋同、而以審禘會合分別其名、亦分別其歲有三年五年之殊、分別其時有夏秋之殊。禘卽『周禮』之「肆獻祼追亯」。祫卽『周禮』之「饋食朝亯」。夏殷有時禘、有時祫。『周禮』禘祫皆爲殷祭、非四時祭。毛公傳曰「諸矦夏禘則不禴。秋祫則不嘗」、謂『周禮』「諸侯禘在夏、祫在秋」、則皆廢時祭。天子則不廢時祭。

 池田論文によれば、「祫」の定義を示す文献としては、段注の挙げる『説文』と『公羊傳』文公二年のほか、『穀梁傳』文公二年、『白虎通』宗廟、『漢書』韋玄成傳などの例がありますが、内容はほぼ一貫しており、いずれも「太祖を合祀する殷祭」を指しているようです。

 

 では、「禘」と「祫」はどのように区別されるのか、または区別されないのか、というのが問題になってきます。段注を見てみますと、まず『礼記』王制の鄭玄注「魯禮、三年喪畢而祫於大祖、明年春、禘於羣廟。自此之後、五年而再殷祭。一祫一禘」(魯の禮では、三年の喪が終わると大祖で「祫」を行い、明年の春、羣廟で「禘」を行う。これ以後、五年経つと再び殷祭を行う。一度「祫」を行うと、一度「禘」を行う)を引いています。ここでは、「禘」と「祫」が区別されているのが明らかです。

 以下、段注は続きますが、「禘」と「祫」がどのように区別されるのかという点については次回に詳しく整理するとして、先に「禘」と「祫」を同一の祭祀と見る説(禘祫同一説)を整理しておきましょう。

 

 まず、『通典』禮九に「賈逵、劉歆則云、一祭二名、禮無差降」とあり、更に禮十に「王肅又云、天子諸侯、皆禘於宗廟、非祭天之祭、郊祀后稷不稱禘、宗廟稱禘、禘祫一名也。合祭、故稱祫。禘而審諦之、故稱禘。非兩祭之名。三年一祫、五年一禘、總而互舉、故稱五年再殷祭、不言一禘一祫、斷可知矣」とあり、賈逵、劉歆、王肅は禘祫同一説を取っていたことが分かります。*2池田論文によれば、「禘」と「祫」の区別の前提には、『春秋』經文において「禘=有事」と「祫=大事」の書き分けがある、ということがあるのですが、実際のところ『春秋』經文には「祫」の字が見えないため、この前提に無理がある、とあります。この説は、清朝に入って金鶚らによって強く唱えられます。最近個人的に読んでいる朱大韶『實事求是齋經義』も同一説を唱えています。

 池田論文では、客観的に見れば禘祫同一説が最も妥当としながらも、伝統的な礼学においては両者を峻別するのが大勢である、と指摘しています。

 

 次回に続きます。

(棋客)

*1:『中国思想史研究』28、2006

*2:但し、『禮記』王制疏に「若王肅、張融、孔晁皆以禘為大、祫為小」とあり、『通典』禮九にも「馬融、王肅皆云、禘大祫小」と言われていて、王肅が両者を区別していたような節もあります。更に、上の『禮記』王制疏を詳しく読むと、「若王肅、張融、孔晁皆以禘為大、祫為小。故王肅論引賈逵說「吉禘於莊公」、禘者遞也、審遞昭穆、遷主遞位、孫居王父之處。又引「禘於太廟」、逸禮、其昭尸穆尸、其祝辭緫稱孝子孝孫、則是父子並列。逸禮又云、皆升合於其祖。所以劉歆、賈逵、鄭眾、馬融等皆以為然。鄭不從者・・・」と続きます。劉歆、賈逵、鄭眾、馬融、王肅、張融、孔晁がみな「禘為大、祫為小」を唱えていたとすると、劉歆、賈逵が唱えたとされる「禘祫同一説」とどのように整合性がとれるのか、もう少し考えてみる必要があるかもしれません。