達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

鄭玄が注を書いた順序(1)

 藤堂明保「鄭玄研究」(蜂屋邦夫編『儀礼士昏疏』汲古書院、1986)は、鄭玄についての古典的な研究です。後篇第四章が闕文になっているのですが、それでも今なお鄭玄研究の第一に挙げられる基礎的な論文といえます。

 この論文には、鄭玄の生涯、また社会的背景を辿りつつ、その各経書への注釈の特徴などが論じられていますが、特に重要なのは、鄭玄が経書に注釈を附した順番を以下のように想定する点にあります。

  1. 緯書注、六藝論
  2. 三禮注(周禮→儀禮→禮記)、駁五経異議、箴膏肓など三篇
  3. 古文尚書
  4. 論語
  5. 毛詩箋、詩譜
  6. 周易

 以下、池田秀三「緯書鄭氏学研究序説」(『哲学研究』47(6)、p787-815、1983)、「鄭學の特質」(『兩漢における易と三禮』汲古書院、2006)あたりも参考にしながら、順番に考えていきましょう。

 

 上に挙げた執筆順は、それぞれ別の根拠に基づいているので、一筋縄で論じられるわけではありません。そもそも『後漢書』鄭玄伝から、はっきり著作した時期が分かるのは『発墨守』などの三篇のみです(党錮の禁に遭った頃、何休と論争した話があります)。しかし、これ以外は正史の列伝を見ても全く分からないので、他の方法で見分けていくしかありません。

 例えば、緯書注が最初期とされる根拠は、以下の記述からです。

『続漢志』百官志、劉昭注

 康成淵博、自注『中候』、裁及注『禮』。

(訳)鄭玄の学は該博であり、『尚書中候』に注してから、ようやく『礼』に注した。

 これが何の資料に基づくのかは不明ですが、劉昭(梁)の頃は『鄭玄別伝』といった資料がまだ存在していますから、一応信頼できると考えておきましょう。

 ここには『尚書中候』しか出てきていませんが、他の緯書注も同時期と考えてよいとされています。鄭玄が若いころから緯書や術数学に精通していたという話は、鄭玄伝に明文がありますし、鄭玄の注釈を見ていても明らかです。

 

 次は『六藝論』です。『六藝論』は、鄭玄の注釈の総序、序説とでもいうべき著作で、鄭玄が自分で自分の学問の概説を述べた書です。この著作の執筆時期については意見が分かれており、最初期とするものと最晩年にするものとがあります。

 晩年とする根拠は、この中で鄭玄が『毛詩』に言及しているが、鄭玄が『毛詩』を知ったのは晩年のことであるはずだから、というものです。内容が全体を総括する色彩をもっていることからも、晩年の著というイメージが出てくるのでしょうか。

 最初期とする直接の根拠は以下の太字部分です。

『公羊注疏』何休序、疏

 何氏本者作『墨守』以距敵長義以強義、為『癈疾』以難『穀梁』、造『膏肓』以短『左氏』、蓋在注傳之前、猶鄭君先作『六藝論』訖、然後注書

(太字訳)鄭玄は先に『六藝論』を作り終わってから、その後に他の書物に注した。

  下線を引いたところがよく読めず、阮元校勘記でも色々と議論されているのですが、今は置いておきましょう。とにかく『公羊疏』は、何休が公羊注を書く前に『墨守』などを著していたのではないかと推測し、これを鄭玄が先に『六藝論』を書き、後に書(この場合は普通名詞でしょう)に注釈を附したことになぞらえています。

 同じく、この情報が何の資料に基づくのかは不明なのですが、『公羊疏』も古いものですから、信頼できると考えておきましょう。

 これに加えて、皮錫瑞は、鄭玄が初期に今文学を学び、徐々に古文学を取り入れたと考えるので、『六藝論』が今文説を多く取り、緯書をよく引用することから、初期の作であると結論付けています。今文説・古文説の話は置いておくにしても、『六藝論』の内容はほとんどが緯書の引用からなり、それによって経書の成り立ちを総論している書であることは確かです。よって、上の緯書注の制作と同時期であったとすると納得できます(池田秀三「緯書鄭氏学研究序説」を参照)。

 ここから、藤堂氏・池田氏は、六藝論は最初期のものであるが、一部は晩年に増補された、としています。

 

 さて、三禮以下の執筆順については、以下の記述が大きな考証材料になっています。

『唐會要』卷七十七、劉子元上孝經註議

 鄭自序云「遭黨錮之事、逃難注禮、至黨錮事解、注『古文尚書』、『毛詩』、『論語』。爲袁譚所逼、來至元城、乃注『周易』。

(訳)鄭玄の「自序」に「党錮の禁に遭って、難から逃れて『礼』に注した。党錮が解けて、『古文尚書』『毛詩』『論語』に注した。袁譚に迫られて、元誠に行き、ようやく『周易』に注した」という。

 『文苑英華』にも「孝經老子注易傳議」として引かれています。『孝経注疏』の引く文章には「注禮」の二字がありません。

 この文章は、劉知幾が今文『孝経』鄭注に反対する十二の条のうち、最初の一つに引かれている根拠です。劉知幾を経由したこの引用以外に、この文章は見えません。今回の私の疑問は、この「鄭自序」とはどういう本なのか? というものです。過去の議論は基本的にこの記述をそのまま信用しており、それ以上の議論が見当たりません。

 文章の内容から素直に考えると、『周易』の自序なのかな、という感じですが、そういう理解で良いのでしょうか。ただ、鄭玄が自分で書いたものと考えると、少々引っ掛かる点があるのも事実です。

 というのも、『後漢書』鄭玄伝の最後に、

後漢書』鄭玄伝

 時袁紹曹操相拒於官度,令其子譚遣使逼玄隨軍。不得已,載病到元城縣,疾篤不進,其年六月卒,年七十四。

 と記されており、先の「爲袁譚所逼、來至元城」と内容は確かに符合します。しかし、鄭玄が自分で「爲袁譚所逼」と書くものでしょうか。当時の最有力者の子である袁譚の名を直言し、かつ「所逼」などと書いてよいものかどうか、気になります。『後漢書』鄭玄伝に「不得已」とあることから、鄭玄が袁譚に応じたのが「所逼」であったのは事実でしょうが、鄭玄が自分でこう書くとは考えにくいようにも思えます。

 もう一つの疑問は、「載病到元城縣,疾篤不進,其年六月卒」という有様であった鄭玄が、この時期に『周易注』や「自序」を書けるものだろうか、という疑問。まあ、これは前々から書いていて完成したのがこの時、と考えればいいでしょうか。

 個人的には、「遭黨錮之事、逃難注禮」や「爲袁譚所逼、來至元城、乃注周易」という文に、『後漢書』鄭玄伝を題材にしながらも、いわゆる「発憤著書」のイメージで味付けされた創作の香りがするのですが、皆さんはいかがでしょう。

 ただ、いろいろ議論したところで、数少ない資料である「鄭自序」の引用は、結局参考にせざるを得ないのも確かです。

 

 最後に、これは細かな揚げ足取りですが、池田秀三「緯書鄭氏学研究序説」では、「自注中候、裁及注禮」と、「遭黨錮之事、逃難注禮」を組み合わせて、緯書注の執筆は党錮の禁以前とします(p.64)。ただ、この二つの記述から、緯書注の執筆は党錮以前であるとは言い切れないのではないでしょうか。党錮の禁→緯書注→三禮注という可能性は否定しきれないかと思います。

 

  さて、「著作の順番」と一言でいうのは簡単ですが、実際には「これで完成」という絶対的なタイミングは存在するものではなく、後から何度も書き直されるものであるはずです。『六藝論』はその一例ですが、他の著作も同様で、集中的に書かれた時期はあるのでしょうが、その後に各説の修正は不断になされているはずです。

 また、『鄭志』を見ると、弟子の質問によって鄭玄説の矛盾が明らかになり、鄭玄が苦労して説明している例もよく見受けられます。学者や弟子との対話の中で、誤りを発見し後から修正することもあったはずです。結局、「著作の順番」というのは緩やかな括りで考えなければならないことも、忘れてはいけません。

 とはいえ、こうした考察が無意味というわけでもありません。「中心的に書いたのはこの時期」という想定を頭に置いておくことによって、鄭注を読んでいてぶつかった疑問が解けることもあるのです。

 

 今週は初期の著作だけを取り上げました。次回に続きます。

 

 ちなみに、鄭玄の著作の執筆順について整理した内容は、最近更新しているnoteの『鄭玄から学ぶ中国古典』の後篇・第二章に載せています。宣伝がてら、貼り付けておきますので、ぜひご覧ください。

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(棋客)