達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

鄭玄が注を書いた順序(2)

 先週の続きです。 藤堂明保「鄭玄研究」(蜂屋邦夫編『儀礼士昏疏』汲古書院、1986)から、鄭玄の著作の執筆順を考えていきましょう。今回は、併せて池田秀三「鄭学における「毛詩箋」の意義」(渡邉義浩編『両漢における詩と三伝』汲古書院、二〇〇七)、間嶋潤一「鄭玄『尚書注』と『尚書大伝』―周公居攝の解釋をめぐって」(『東洋史研究』六〇(四)、二〇〇二)を参考にしています。

 再び基本資料を掲げておきます。

『唐會要』卷七十七

 劉子玄上孝經註議、・・・鄭自序云「遭黨錮之事、逃難注禮、至黨錮事解、注『古文尚書』、『毛詩』、『論語』。爲袁譚所逼、來至元城、乃注『周易』。」

(訳)鄭玄の「自序」に「党錮の禁に遭って、難から逃れて『礼』に注した。党錮が解けて、『古文尚書』『毛詩』『論語』に注した。袁譚に迫られて、元城に行き、ようやく『周易』に注した」という。

  今日は、『古文尚書』『毛詩』『論語』の三つの注釈の執筆順に関する、藤堂氏の説を見ていきましょう。

 上に書かれている順番をそのまま受け取るなら、古文尚書→毛詩→論語の順になるのですが、少なくとも『論語』注が『毛詩』注より先に作られたことは確実です。

 根拠は、鄭玄の『論語』注が『毛詩』注とかみ合わない部分があり、これについて弟子の劉炎が鄭玄に質問し、鄭玄が答えた文章が残っていることです。

『鄭志』(『毛詩』國風關雎疏所引)

 鄭荅劉炎云「論語註人閒行久、義或宜然、故不復定、以遺後説。」

(訳)鄭玄は劉炎に答えて「『論語』の注釈は、既に人々の間に行き渡って久しいので、意味としてはこうするべき(「衷」に改めるべき)かもしれないが、改めて定めることはせず、両説を後世に残す」と言った。

  鄭玄の『論語』注と『毛詩』注がかみ合わない部分というのは、以下です。

論語』八佾
〔経文〕關雎樂而不淫、哀而不傷。
〔鄭注〕世失夫婦之道、不得此人、不為滅傷其愛也。
(訳)世に夫婦の道を失い、この人を得られなかったとしても、その愛を傷つけ消し去るということはない。

『毛詩』國風、周南、關雎
〔詩序〕哀窈窕、思賢才。
〔鄭箋〕、蓋字之誤也、當為
(訳)「哀」というのは、おそらく字の誤りであって、「衷」とするべきだ。

 鄭玄が『鄭志』で「論語註人閒行久」と言っていることを見ると、『論語』注は、『毛詩』箋よりもだいぶ前に作られていたのかもしれませんね。

 また、『毛詩』箋の編纂が遅れることは、以下の記録からも分かります。

『鄭志』(『礼記』礼器疏所引)

 鄭荅炅模云、為記注之時、依循舊本、此文是也。後得毛詩傳、而為詩注、更從毛本、故與記不同。

(訳)鄭玄は炅模に答えて「『礼記』の注釈を作った時、旧来の本に従った。この文はこの旧来のものなのだ。その後に『毛詩』を得て、このために注釈を作り、改めて毛氏の本に従った。よって『礼記』と異なるのである」と言った。(『礼記』礼器疏所引)

 

 次に、『古文尚書』については、藤堂氏は以下の資料を掲げています。

『鄭志』(『礼記』檀弓下疏引)

 張逸問「書注曰書説、書説何書也」。荅曰「尚書緯也。當為注時、時在文網中、嫌引祕書、故諸所牽圖讖、皆謂之説。」

 張逸は「先生の『書』の注に「書説」とありますが、この「書説」とは何の本のことですか」と質問した。鄭玄は「これは『尚書緯』のことだ。注釈を書いていた頃は、ちょうど文網(党錮の禁)の時で、秘書(宮中に秘された図書)を引用するのは憚られたので、諸々の引用した緯書はいずれも「説」と称した」と答えた。

 ちなみに、上の文章の「秘書を引用することが憚られた」とは意味が分かりにくいですが、池田秀三氏は、党錮に処せられた身で未来予知の内容を含む緯書を用いることが憚られたということではないか、と述べています。緯書には王朝交代を含む未来予知に関わる内容がありますから、敏感な時期には用いるのが躊躇われるのでしょう。

 ここから、党錮の禁の時に『尚書』注は書かれたということになり、先ほど挙げた三つの注釈の中では、早い方に位置することになります。

 ただ、この推理にも気になる点があります。というのも、冒頭の「注曰書説」は、『礼記正義』の原文では、「注曰書説」になっているのです。これを、袁氏の説に基づいて、藤堂先生は「注」に改め、『尚書』注の執筆時期の証拠としているのです。

 袁氏がなぜ改めるのかというと、三礼注には実際には「書説」からの引用がないため、これは『尚書』注の話なのではないか、と考えたからです。ただ、三礼には例えば「易説」など、緯書を「説」という言葉で引くこと自体はよくありますし、疏の引用者もこれをあくまで『礼記』に関係する『鄭志』の条として引いていることは確かです。よって、これを『尚書』の話に改めてしまうのは行き過ぎではないかと思いますが、いかがでしょう。

 ここで、『尚書』注の執筆時期を特定し得る他の証拠があればよいのですが、藤堂氏は挙げていません。上の「古文尚書、毛詩、論語」が執筆順と考えれば証拠になりますが、既に「毛詩、論語」の順番はひっくり返りましたから、信憑性は今一つというところです。

 なお、三礼注の執筆時期が党錮の時期に当たることは、前回述べたように他の資料があるので問題ありません。

 

 ここで考証が進む可能性があるとすれば、鄭玄の『尚書』注の中身からの論定ということになります。『尚書緯』と『尚書中候』の注釈は初期のものということでよいですが、ここに『尚書大伝』注も絡んでくるので状況は複雑です。

 鄭玄と『尚書』の関係については、間嶋潤一氏の研究が詳細で示唆に富むのですが、藤堂氏の執筆順の結論に関しては前提として受け入れているので、この点についての考察はあまりないように思います。

(棋客)