達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

桃崎有一郎「日本「肉食」史の進展に寄せて〈学術雑誌の書評のあり方〉を問う:中澤克昭著『肉食の社会史』を題材に」

 今回は、桃崎有一郎氏の「日本「肉食」史の進展に寄せて〈学術雑誌の書評のあり方〉を問う:中澤克昭著『肉食の社会史』を題材に」という論考を取り上げて、私なりの感想を述べたいと思います。

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 この論考は、前半中澤克昭『肉食の社会史』(山川出版社、2018)についての書評であり、全くの門外漢である筆者にも本書の魅力がよく分かるものになっています。そして、後半は「提言としての書評論」と題し、一風変わった文章が載せられています。

 今回この論考を取り上げたのは、その後半部分で、「書評とはどうあるべきか?」という問題に対して、分野の垣根を越えた刺激的な問題提起がなされているからです。(もう一点、桃崎氏は『礼とは何か:日本の文化と歴史の鍵』などで、日本史の側から中国の礼制関連のことを研究されており、いつか中国学の側から「書評」をされることがあるのではないかと思うから、という理由もあります。)

 

 今回取り上げる後半部分は、(私が勝手に分けると)「①書評とはどうあるべきか」そして「②過去の歴史学会の態度の問題」の二つの議論がなされています。

 ①から見ていきましょう。端的に言えば、桃崎氏は、書評において当該書籍への批判を展開することに反対し、ポジティブな評価をすることに専念すべきであると主張しています。

 私は書評の95%以上を、できれば100%を、前向きな評価で埋めるべきと考えている。…学問でも何でも、一つの世界を先に進めるのは、リスクを取って未開の世界へと踏み出し、そして現に多くの失敗で苦渋を味わった人だけだ。

 桃崎氏は、「相手も同等の苦労をして批判するならまだしも、書評でお手軽に批判する者に、そんな権利などあろうはずがない」とし、批判する場合には以下のような手続きが必要であると述べています。

 批判するなら、書評のような媒体で批判だけ単体で行うのではなく、自分の論文や著書を公にする時、自分が描く「より魅力的な絵」とともに、その絵を描くにはどうしても批判せざるを得ないタイミングで提示すればよい。

 そして以下の結論に至ります。

 書評には、〈その本によって我々学界全体がどのように前進できたか。そして、あくまでその評価すべき前進の成果として、どのような新たな課題が学界全体に見えてきたか〉だけを書くのが有意義だと信ずるに至った。

 以上の内容については、書評の対象となる「研究書」が、実際にその分野の研究の進展に貢献するものであった場合に限定すれば、概ね納得できます。(研究の進展に貢献しない書籍など「研究書」とは呼べない、と言われてしまえばそれまでですが。)

 細かいことを言うと、「書評でお手軽に批判する者」という表現は気になってしまうでしょうか。書評であるからといって、「お手軽」に取り組む研究者など、少数派ではないかと思うからです。(あるいは氏の文章では具体的なターゲットが念頭に置かれているのかもしれません。)

 もう一点気になるのは、以下の記述です。

 たまたま自分の蛸壺的な専門知識が勝っている部分を見つけて、事もなげに批判する。そうした営みに価値があるとは、今の私にはどうしても信じられない。

 ここは桃崎氏自身の過去の体験を振り返って述べたものですから、一般論として論じるのは危険かもしれません。

 ただ、これを読んで最初に浮かぶ感想としては、専門が異なる研究者による「蛸壺的な専門知識」こそ、その著者の側が得ることが難しい知識であり、他分野の研究者のレビューにおいて最も必要とされる箇所ではないか、と言いたくもなります。

 もちろん、桃崎氏はこういった営みを否定するわけではなく、これを書評・レビューという形で行うことを批判しているだけでしょう。先の言葉を借りれば、批判する際には「自分の論文や著書を公にする時、自分が描く「より魅力的な絵」とともに」するべきであるということになります。しかし、「魅力的な絵が示されなければ、批判は許されない」と断じてしまってよいものでしょうか?

 

 ここで、自分に置き換えて考えてみたいと思います。中国の礼学を一応の専門とする私が、桃崎氏の礼とは何か』の中で語られる中国の礼学に関する部分について(学術的に認められた場で)何か指摘をしたい場合、どのような方法が考えられるでしょうか。

 中国の礼学研究者が、日本中世史の世界を桃崎氏よりも「魅力的な絵」で書くことは不可能であり、自分の論文や著書でこれを表現することはできません。また、書評するにしても、この本によって「日本中世史の分野の学界がどのように前進したか」といったことは書きようがありません。

 しかし、中国の礼学研究者の「蛸壺的な専門知識」による批判が、桃崎氏の研究に何らかの示唆を与えることもあるはずで、学問的良心から、これを公にしたいと考える人がいるかもしれません。(分野外の側から「蛸壺的」に見える事柄は、当該分野においては往々にして「基礎的な事柄」であるものです。

 かりに「書評」という場にこれを載せるべきでない場合、こうした営みを発揮する場所は、どこに求めるのがよいのでしょうか。私としては、現状の枠で考えるならば、結局「書評」が最適であるかと思います。

 

 さて、どうでもいい細かな疑問を挟んでしまいましたが、①の論旨は明快であり、書評を書く場合の大まかな指針としては、ある程度納得できる内容なのではないでしょうか。実際、この指針を実践して書かれた『肉食の社会史』の書評部分は非常に魅力的な文章であり、本書の意義が存分に伝わるものになっているといえるでしょう。

 

 次に、「②過去の歴史学会の態度の問題」に進みます。これは①の議論から引き出された論点であり、最初は「書評」に限定した話なのかと思っていましたが、どうもそういうことではなく、学界全体に対する問題提起になっているようです。

 ここでは、歴史学会における「批判」の在り方についての問題提起が行われています

 理性と向上心がある者なら批判は受け入れるべき、というよりも自ら進んで批判を求めるのが正しい、という考え方が、少なくとも日本の歴史学会には広く受け入れられている。…こうした考え方の根底にあるのは、〈学説への批判は、人格への非難とは違う〉という「正論」である。

 それは確かに一理ある。しかし、一理しかない。こうした考え方は、〈学問は所詮、人間の営みだ〉という観点が欠落している。研究者の多くは、……生業と寝食以外のほぼ全時間を、研究に費やしている。ある仮説を世に問うまでに五年かかったなら、それはその人の人生の五年を丸ごと費やしたということである。その仮説を否定することは、その研究者が費やした、限りある人生の五年という時間を丸ごと否定することに等しい。そう考えたとき、〈学説への批判は人格への非難とは別物だ〉という考え方が、正論でも何でもなく、〈人間が行う学問という営み〉に対する洞察がすっぽり欠如した、机上の空論であることに気づく。

 「理性と向上心がある者なら批判は受け入れるべき」また「自ら進んで批判を求めるのが正しい」という発想は、それこそ『論語』まで遡れそうなほど、ごくごく普遍的な考え方でしょうね。ただ、「理性と向上心がある者なら批判は受け入れるべき」という話と、「学説への批判は、人格への非難とは違う」という考え方とは、似ているようで全然別の話ではないかという気もしますが。

 さて、安易な批判は、その人の研究に対するリスペクトに欠けるものであるという話は、よく分かります。しかし、その次の「その仮説を否定することは、その研究者が費やした、限りある人生の五年という時間を丸ごと否定することに等しい」という部分については、別の考え方もあると思います。これは最後に述べることにし、いまは桃崎氏の行論を見ましょう。

 人は自分の人生のために学問をするのであって、学問の犠牲となるために人生があるのではない。歴史学は、人文科学を標榜していながら、そうした「学問と人」の問題にあまりに疎かったのではないか。…

 そう考えた時、すぐに閃くものがあった。なるほど、学問と人を機械的に切り分けて是とする考え方は、人文科学の所産ではなく、歴史学を社会科学だと信じている人々の発想なのだ、と。…歴史学が完全に社会科学に取り込まれ、社会科学の弱点まで抱え込んで、人文科学の強みを忘れ去る必要はない。象牙の塔の中からは想像しにくいと思うが、外の実社会では、仕事をけなしたり褒めるのは、人をけなしたり褒めるのと同じことである。

 研究者によるアカハラの問題を想起するまでもなく、桃崎氏の言いたいことは伝わるでしょう。私の考えでは、そもそも「学説への批判は、人格への非難とは違う」という言葉が一人歩きしているのが問題なのだと思います。もともとの順番としては、「議論の相手へのリスペクトを前提にして、その学説に対する批判を行う」ということのはずです。「学説批判だから問題ないだろう」と開き直って配慮に欠けた批判をする態度は、これとは似ても似つかぬものであると言わざるを得ません。

 この点には賛同するのですが、「学問と人を機械的に切り分けて是とする考え方は、人文科学の所産ではなく、歴史学を社会科学だと信じている人々の発想なのだ」というのは、どうなのでしょうか。議論の枠が大きすぎて、「本当にそうなんですか?」と問いかけたくなってしまいます。が、一旦わきに置いておきましょう。

 

 さて、話を戻して、先ほどの「その仮説を否定することは、その研究者が費やした、限りある人生の五年という時間を丸ごと否定することに等しい」という考えには、私は賛成できません。この文章の少し先には、「研究者は、自分の研究に人生を賭けている。その研究成果を否定することは、その人の人生の何割かを否定することと同じだ」という言葉もあります。この主張について考えていきましょう。

 

 みなさん、少し考えてみてください。「学説を否定すること」は、「その説を唱えた学者の人生の一部を否定すること」になるのでしょうか?

 答えは否。そんなことはないはずです。むしろ、このような考え方こそ、「人生」を「学問の犠牲」(言い換えれば「学問的真理の犠牲」)にしてしまうものではないでしょうか

 鄭玄・朱子考証学者たち、また武内義雄宮崎市定ニュートンガリレオなど誰を考えてもよいのですが、その人の学説が「学問的真理」を失ったからといって、その学説が無価値なものになるわけでもありませんし、その学者の人生が否定されるわけでもないというのは、言うまでもないことです。「研究成果を否定することは、その人の人生の何割かを否定することと同じ」なのであれば、過去の研究者のほとんど全員が、人生の何割かを否定されたということになってしまいます。こういう考え方もあるかもしれませんが、桃崎氏とて、こうした事態の出来を望んでいるわけではないでしょう。

 以上を一言で表現すれば、「ある学説が学問的真理でなくなったとしても、学術史的意義は残り続ける」といったところでしょうか。いやむしろ、「ある学説は、学問的真理を失うことと引き換えに、新たに学術史的意義という側面から輝きを放つ」と逆説的・積極的に表現してもいいのかもしれません。「歴史学」の意義は、まさしくこうしたところにあるのではないでしょうか。

 

 ……などど書き連ねてきましたが、こんなことは桃崎氏としても百も承知であり、あくまで氏としては、建設性のない批判や、無意味なほど細かい批判に対して言っているだけなのかもしれません。ただ、上の文章だけを見ると、どうしてもこうした反論をしたくなってしまいます。(それは桃崎氏の行論が、刺激的な問題提起になっているからです。)

 桃崎氏は、以下のようにも述べています。

 歴史学者には、自分が歴史の一部であるということを忘れ、歴史学の常識的な大原則と自分を結びつけない人が多い。

 仰る通り「歴史学者」が「歴史」の一部であるのと同様に、歴史学者の否定された学説もまた、悠久なる「学問の歴史」の一頁であるはずですね。歴史学者は、このことも忘れてはならないでしょう。

 

 結局のところ、人格攻撃やハラスメントとの線引きが前提としてあれば、「批判によって私の人生が否定されるのでは」という心配は無用であると思います。それによって色々な誤りが発覚したとしても、研究者の「人生」や研究に向けた「努力」そのものが否定されるわけではありません。また、仮に批判者自身が「魅力的な絵」を示すことができなかったとしても、その批判を通してその著者の側が後に「より魅力的な絵」を提示する一助となれば、十分ではないでしょうか。

 以上の意見でさえ、桃崎氏には「歴史学を社会科学だと信じている人々の発想だ」と言われてしまうのでしょうか。更に言えば、本記事自体、ブログという媒体で「お気軽に」批判したものということになってしまうのかもしれませんが…。

 

 最後に寄り道がてら、無理やり専門に引き付けて考えてみると、「研究への評価が人格への評価に直結する状態」は、古代中国の気の理論でいうところの「角砂糖モデル」に近い感じですね。すると両者を分離するのが「箱モデル」に当てはまります。

 「角砂糖モデル」とは、ある人の作品(書画・詩など、表現されたもの)には、その人の「気」(本質・精神・肉体といったその人を形作るもの)が反映されるものであるという考え方。簡単に言うと、優れた気をもつ人物であれば、優れた作品を残しているはずだ(または、これは優れた作品だから、優れた気をもつ作者が書いたに違いない)となります。逆に、「作品を見てもその人の中身は分からない」という考え方が「箱モデル」です。

 ……少々無理やりすぎました。いずれにしても、②に類する議論は、近年の歴史学会がどうこう、社会科学がどうこうではなく、古くからよくあるものではないでしょうか。

 

礼とは何か: 日本の文化と歴史の鍵

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(棋客)