達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

クェンティン・スキナー『思想史とはなにか―意味とコンテクスト』(1)

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 本日は、クェンティン・スキナー『思想史とはなにか―意味とコンテクスト』(半沢孝麿・加藤節編訳、岩波書店、1999)を紹介します。本書は、決して易しい内容というわけではありませんが、広い分野の方に啓蒙を与える本であることは疑いありません。

 私はこの本を一年ほど前にある先生に勧めていただいて読み、たいへん感銘を受けました。数回にわたって、最初の章の「思想史における意味と理解」の内容を見ていきます。今回はp.47-52です。

 

 まず、冒頭の文章から読んでいきましょう。

 私の目的は、思想史家が理解したいと思う作品に取り組もうとする時に、必ずや生ずる基本的な問題と考えられるものについて考察することである。思想史家は皆、詩や戯曲や小説などの文学作品に、あるいは倫理、政治、宗教、その他の形態における思想を問題とする哲学作品に注意を集中するであろう。しかしどのような作品を対象にするとしても基本的な問題は変わることはないであろう。すなわち、何が作品の理解に到達するために採られる適切な方法かという問題である。確かにこの問題に対しては、目下のところ正統と認められている二つの、(しかし互いに対立する)解答があり、両者とも広い支持を集めているかに見える。一方の(おそらく多くの思想史家がますます採用するようになってきている)正統派学説は、あるテクストの意味を決定し、それゆえにテクストを理解する試みに対して、「最終的な枠組」を提供するのは「宗教的、政治的、経済的な諸要因」のコンテクストであると主張する。(今なお最も広く受け入れられているように思われる)もう一つの正統派学説は、テクストの意味を解くために必要な唯一の鍵としてテクストそれ自体の自律性を主張し、「全体のコンテクスト」を再構築しようとするいかなる試みをも「余計な、そしてひときわ有害なこと」として斥ける

 これから私が行なおうとすることは、これら二つの正統派学説を順次考察し、そのいずれもが実質的には同じような基本的欠陥をもつこと、すなわち、どちらの方法も、対象となるいかなる文学作品や哲学作品をも適切に理解するのには十分な、いや適切な手段ですらないということを論証することである。

 スキナーは、作品・著作の理解に当たっての適切な方法が何かという問いに対しては、以下の二つの解答があると言います。

  1. あるテクストの意味を決定し、それゆえにテクストを理解する試みに対して、「最終的な枠組」を提供するのは「宗教的、政治的、経済的な諸要因」のコンテクストであると主張する。
  2. テクストの意味を解くために必要な唯一の鍵としてテクストそれ自体の自律性を主張し、「全体のコンテクスト」を再構築しようとするいかなる試みをも「余計な、そしてひときわ有害なこと」として斥ける。

 スキナーはこの両者に、どちらも基本的な欠陥があることを指摘しようと試みます。これが第一章の内容です。よって、本章は過去の研究に対する批判・否定(というより、過去の研究がなぜそのような誤謬に達してしまったのか分析し、その原因を性質ごとに分類)が多くを占めています。しかし、結論は積極的なものであり、「思想史」の新たな現代的意義を示すものでもあります。

 では、彼がどのように過去の研究の方法論に対する批判を進めているか、見ていきましょう。まず、②に対する批判を見ていきます。

 このアプローチ(筆者注:②のアプローチ)それ自体は、より限定された文学研究の場合に劣らず、思想史においても、研究行為そのものに対する次のような独特の形態の正当化と論理的に結びついている。すなわち、きわめて特徴のある言い方がされるのだが、過去の哲学(あるいは文学)作品を研究する意義はこぞって、それらの作品が(好まれる言葉で表わすならば)「普遍的観念」という形での「時代を超越した要素」を、いや「普遍的応用性」をもった「超時間的知恵」すらも含むことにあるというのである。

 …その目的は、「古典的作品を、歴史のコンテクストからまったく切り離して、政治の真実についての普遍的命題を提示しようとする、変わることなく永久に重要な試みとして再評価すること」でなければならない。なぜならば、反対に、社会的コンテクストの知識が古典的テクストの理解にとって必要条件であると提唱することは、そのテクストがまさに時代を超えた永遠の重要性を持つことを否定するに等しく、それゆえに、テクストが言ったことを研究する意味をすべて抹殺するに等しいからである。

 いかなる古典の作者も当然に、「永遠の関心」をひく明確な一組の「基本的諸概念」を考察し、その意味を明らかにしていると考えられるというこの絶対的な確信こそ、文学や哲学の思想の歴史の研究に対してこのアプローチがもたらした混乱の主たる源であると思われる。

 ②のアプローチは「テクストそれ自体の自律性を主張する」ことです。こう聞くと難しいですが、例えば、古典の文章を現代への警句として読み取ろうとする場合、どうしてもこのような読み方になります。

 このアプローチには、以下の最大のディレンマが存在します。

 思想史との関連―とりわけ歴史家はただテクストだけに集中すべきであるという主張との関連―では、言うまでもなく、このディレンマの意味は次のところにある。すなわち、そもそも所与の古典的作品が言ったこと(とりわけ異文化の中で言ったこと)は、彼がこう言っていたにちがいないとあらかじめ何らかの予想をつけた上でなければ、まったく研究できないということである。これは要するに、心理学者にとっては馴染みの、(明らかに逃れようもない)決定因としての観察者の心の構え(set)のディレンマである。…すなわち、われわれが知覚や思考を作り上げ、調整するに際して不可避的に用いざるをえないこれらのモデルや先入見は、それら自体、われわれが考え、知覚する対象を決定するものとして作用する傾向をもつという命題である。われわれは理解するためには分類しなければならないが、既知のものを通してしか未知のものを分類できないのである。われわれの歴史理解を拡げようとする試みに常につきまとう危険は、このように、誰かがあることを言っているにちがいない、あるいは行なっているにちがいないというわれわれの側の期待それ自体が、主体自身は自分が実際にしていたことの説明としては認めようとしない―あるいは認めることすらできない何事かをその主体がしているというわれわれの理解を決定してしまうところにある。

  たとえば、『論語』や『老子』の文章に対して、これはよくある哲学の問題―心と身体、名と実、意識と無意識などなど―について語っているはずだ、と「構え」を持つことがいかに解釈を変化させるかということは、よく分かる話でしょう。(一例として便宜上簡単に説明しましたが、実際はもっと原理的な問題を孕んでいます。)

 スキナーは、ここから生じる問題点を二つ挙げます。

 私が試みるのは次の二点である。第一に、それぞれの古典作者が言っていることだけを研究することは不可避的に、さまざまな種類の歴史的背理に陥る不断の危険を冒すものであり、しかもその危険の冒し方にもさまざまな形態があると主張することである。第二に、したがってその結果は歴史とはとても言えず、神話とでも言った方がふさわしいものになってしまう、これまたさまざまな形態を分析することである。

 では次回、この「神話」のパターンを見ていくことにしましょう。

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(棋客)