達而録

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クェンティン・スキナー『思想史とはなにか―意味とコンテクスト』(5)

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  前回の続きです。クェンティン・スキナー『思想史とはなにか―意味とコンテクスト』(半沢孝麿・加藤節編訳、岩波書店、1990)を読んでいきます。

 スキナーは、作品・著作の理解に当たっての適切な方法が何かという問いに対して、二つの解答を提示しました。

  1. あるテクストの意味を決定し、それゆえにテクストを理解する試みに対して、「最終的な枠組」を提供するのは「宗教的、政治的、経済的な諸要因」のコンテクストであると主張する。
  2. テクストの意味を解くために必要な唯一の鍵としてテクストそれ自体の自律性を主張し、「全体のコンテクスト」を再構築しようとするいかなる試みをも「余計な、そしてひときわ有害なこと」として斥ける。

 このうち、(1)~(4)で②のアプローチの問題点を論じてきました。この内容から、ある著作の理解に当たっては、①がよりよい方法ではないか、と話が進んできます(p.99-110)。

 ここまで論じてくると、私が冒頭で挙げた二つの方法論のうちでは、第一のものが、思想史研究の方法として決定的な優位を示すと思われて当然であろう。これまで私が示してきたように、単に所与の観念や所与のテクストそれ自体のみに集中することが原理的に適切でないとすれば、おそらく最良のアプローチはそうではなくて―方法論者たち自身がますます強調しているように―われわれの観念は「より直接的な状況への応答」であり、したがってわれわれはテクストそれ自体ではなく、むしろ「テクストを説明する他の出来事のコンテクスト」を研究すべきであるという認識のうちになければならない、ということになるであろう。…

 「コンテクストに即した読み」というこの方法が、哲学についても文学についても、思想史の適切な方法論を提供するという信念は、実際ますます一般に是認されるようになってきているかに見える。最も通史的な古典テクスト史でさえも、「社会的・政治的状況について」何らかの知識が必要なことをある程度は認め、当のテクストそのものを「生み出し」た「歴史的条件」に「しかるべき注意」を払う姿勢を示すのが今や普通である。

 ここに書かれている通り、 近年の研究においては、一般に、書き手の社会的・政治的状況に注意を払うことが必要であるとされています。スキナーは、以下のように、実際にこのアプローチが有効な場面があることも述べています。

 所与のテクストのコンテクストについての一定の知識が実際テクストを理解する助けとなるという事実は、次のようなまず疑うことのできない事実の反映である。すなわちいかなる行為の遂行―陳述を行なうことは、まさに一つの遂行として理解されなければならない―にとっても、存在しなければその行為(なされた陳述)が違ったものとなっていたかもしれず、また生じなかったかもしれない一組の条件、いや、行為の発生がその存在によって予言されたかもしれない一組の条件が、少なくとも原理的には常に発見可能だという事実である。あらゆる陳述にとって何らかの説明的なコンテクストがなければならず、あらゆる行為にとって何らかの因果的先行条件群がなければならないということに疑問の余地はないであろう。所与の陳述、あるいはその他の行為に関する何らかの別な(目的論的)説明様式を提供する手段として、コンテクストや原因となる条件ではなしに、主体が申し立てる心的な状態に集中することは、少なくとも、説明の試みにとっては有意なはずの大量の情報を無視することになるであろう。逆に、テクストのコンテクストはテクストの内容を説明するのに用いることができるという仮説は、意志的に遂行された行為は因果的説明の通常の過程によって説明されるべきであるというより一般的で、ますます受容されつつある仮説を例証し、またそこから説得力を得ていると言ってよいであろう。

 しかし、「行為」とその「原因」を明らかにしようという試みには、原理的な限界があることをスキナーは論じていきます。

 しかし、だからといって、行為の原因の知識が、行為そのものの理解と本当に等しいか否かは、断じて疑ってしかるべきではないだろうか。というのは、行為の理解は、起こった行為の因果的先行諸条件の把握を前提とするだけでなく、―それとはまったく別に―行為を遂行した主体にとってのその行為の狙い(point)の把握をも同様に前提すると言ってよいからである。…

 ここからスキナーは、「陳述がなされるコンテクストとしての諸条件の研究」が、なされた陳述の理解にとって適切な方法論とは看做されないとし、その例を二つ挙げます。

 われわれの手許にあるのは、実際の陳述に先行もせず、また、それと偶然的に結びついているのでもない意図であり、むしろここでは、意図の陳述が行為それ自体を性格づけるのに役立つのである。…要するに、一方、決して行為としては結実しないかもしれないXを行なおうという意図(intention to do x)―そのような、行為に先行する意図の陳述が行為としてついに結実しなかったとしたら、いったいわれわれはそれを何と言うべきか明らかではないが―と、他方、当該行為の実際の生起を前提とするだけでなく、その行為の狙い(point)を特徴づけるのに役立つという意味で、論理的にその行為と結びついてもいるXを行ないつつある際の意図(intention in doing x)との間には違いがあるということなのである。私がいま行なっている議論に対してこの主張が持つ意義はもはや明らかであろう。なされた陳述あるいはその他遂行された行為はすべて、それを行なった意図―それを原因と呼んでもかまわないが―を前提しなければならないが、それだけではなく、その行為を行ないつつある際の意図をも前提しなければならないのである。後者は、原因ではありえないが、にもかかわらず行為自体が正しく性格づけられ、したがってまた理解されるためにはどうしても把握されなければならないものである。

 しかし、この議論では、コンテクスト主義のテーゼのうちでも最強力なものを迎え撃つには不十分であると主張する向きもあるかもしれない。それによれば、この議論は、実質的には、ある主体が所与の陳述をすることによって何をするつもりであったかについての議論である。これに対して、コンテクストの研究を擁護してなされる主張は、まさにコンテクストそれ自体が、テクストが意味しているはずのことを明るみに出すのに役立ちうるというところにあった。しかし、この主張は、コンテクスト主義の方法論が依拠していると思われる第二の誤った前提、すなわち、「意味」と「理解」とは事実上厳密に相関的な用語であるという前提を暗示するだけである。だが、J・L・オースティンが古典的に論証したところによれば、陳述の理解は、所与の発言の意味の把握だけではなく、彼がその発言の意図された発語内的力(illocutionary force)と名づけたものの把握をも前提とする。この主張は、私の現在の議論にとって二点において決定的に有意である。まず第一に、所与の主体は発言を発することにおいて(inuttering)何をしているのかというこの一歩進んだ疑問は、意味についての疑問では全くなくて、発言それ自体の意味と対応するものでありながら、しかもなおその発言を理解するためには把握することが不可欠な一つの力についての問題である。そして第二に、たとえ所与の陳述が意味しているはずのことをその社会的コンテクストから解読できたとしても、そのことは依然として、その陳述において意図された発語内的力の真の把握にも、したがってまた、結局は所与の陳述の真の理解にも導くものでは全くない。要するに、問題は、一つの避け難い空隙が残るということである。すなわち、たとえテクストの社会的コンテクストの研究が前者を説明する助けとなりえても、だからといって、テクストを理解する手段が提供されたことにはならないのである。

 ここまで、よく分からないと思いますので、スキナー自身が提示している具体例を見てみることにしましょう。以下の状況を想定してください。

  1. ある歴史家が、ルネサンス期の道徳論の中で、「君主たるものはいつ有徳であってはならぬかを学ばねばならない」という陳述に出会ったとする。
  2. この陳述の意味(sense)および意図された言及対象は、完全に明白であると想定する。
  3. さらに、これは、発言の社会的コンテクストの研究―君主の徳は、その時代には事実上彼らの破滅に通じていたことを明らかにした研究―の結果であるとも想定する。

 この状況で、上の陳述について、二つの答えを想定してみるとします。

  1. このようなシニカルな助言は、ルネサンス期の道徳論の中ではしばしば提示された。
  2. それまでほとんど誰も、このようなシニカルな助言を教訓として公けに提示することはなかった。

 この二つのうち、いずれが真実に近いか、歴史家は見いださなければならないわけです。答えが①なら、発言者が心に抱いていた発言の意図された力は、一般に是認されていた道徳的態度を裏書きするか、または強調することにあります。しかし、答えが②なら、発言の意図された力は、確立された道徳の常識を拒否論駁することに近くなります。

 実際に、マキァヴェッリ君主論』のこうした趣旨の陳述について、両者の主張が思想史家によって代わるがわる提示されてきました。二つの主張のうち一つだけが正しいということは明らかで、しかもどちらが正しいかということは、マキアヴェッリの意図を理解する上できわめて大きな影響を与えます。つまり、マキアヴェッリが彼の時代の政治の基本的な道徳的常識を覆そうとしたのか、あるいは支持しようとしたのか、という点に関わってくるのです。

 しかし、この疑問の結論は、陳述それ自体の研究からも、また(十分に明晰な)その意味の研究の積み重ねからも到達しえないような種類の事柄です。なぜなら、「コンテクストそれ自体は、明らかにあれかこれかの関係にある二つの発語内行為のいずれをも生み出すことができ、したがって、一方を選び他方を斥けるためにそれに訴えることはできないから」です。

 スキナーは、以下のようにまとめています。

 だからこそ、過去になされた陳述を理解したと言われるためには、言われたことを把握するだけでは、いや、たとえ言われたことの意味が変化したことを把握しても、それだけでは十分ではありえないのである。したがってまた、陳述が何を意味したか、あるいは、それが意味したにちがいないことについてそのコンテクストが何を示すと言われうるかを研究するだけでは決して十分ではない。所与の陳述についてなお把握されるべく残っている点は、言われたことはいかなる意図であったのか、したがってまた、同一の一般的コンテクストの中にありながらさまざまに異なる諸陳述の間には、いかなる関係があったのかという点である。

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(棋客)