達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

クェンティン・スキナー『思想史とはなにか―意味とコンテクスト』(6)

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 前回の続きです。クェンティン・スキナー『思想史とはなにか―意味とコンテクスト』(半沢孝麿・加藤節編訳、岩波書店、1990)を読んでいきます。

 スキナーは、作品・著作の理解に当たっての適切な方法が何かという問いに対して、二つの解答を提示しました。

  1. あるテクストの意味を決定し、それゆえにテクストを理解する試みに対して、「最終的な枠組」を提供するのは「宗教的、政治的、経済的な諸要因」のコンテクストであると主張する。
  2. テクストの意味を解くために必要な唯一の鍵としてテクストそれ自体の自律性を主張し、「全体のコンテクスト」を再構築しようとするいかなる試みをも「余計な、そしてひときわ有害なこと」として斥ける。

 (1)~(4)で②のアプローチに、(5)で①のアプローチに欠陥があることを説明しました。これらの検討を踏まえて結論に向かっていくのですが、今回は結論に入る前の地ならしをする部分を読んでおきましょう(p.111-112)。

 私はこれまで、純粋にテクスト至上主義的研究もコンテクスト至上主義的研究もともに不十分であり、また全面的に誤解を生み出す可能性すら持つというこの主張を、起こりうる最も単純な事例だけから例示してきた。しかしまた、より明示的ではなく、またおそらくは公然と言明することが不可能な発語内行為の同定(identification)の問題を処理するためには、(私が他の場所で論証しようと努めてきたように)発語内的力についてのオースティン自身の議論をより間接的仕方で拡大する必要があるということも言ってよいと思う。たとえばわれわれは、ある特定の議論を用いないことが常に論争の的となり、したがってまた、関係する発言を理解するための必要な手引きともなりうるという明白な、しかしきわめて把え難い事実を処理することができなければならない。

 スキナーは、作者が「ある議論をしないこと」に注目せねばならないことがあるといい、この具体例としてロックの研究を挙げています。

 たとえば、ロックが『統治二論』第二部の中でいかなる歴史的議論もしなかったことを考えてみよう。一七世紀のイングランドにおいては、政治原理をめぐる議論は、事実上イングランドの過去に関する対立しあう異説の研究に基づいていた。だからこそ、ロックがこれらの問題に言及しなかったことは彼の全議論の最もラディカルで独創的な特徴であると強力に主張することもできるのである。ロックのテクストを理解する手掛りとして、このことは疑いもなく重要である。しかし、それは社会的コンテクスト(テクスト自体はなおのこと)の研究が決してもたらすことのできない手掛りなのである。

 スキナーはもう一つ、古典に含まれる「諧謔」や「婉曲的言及」を処理する必要性があることも述べています。

 同様に、ある種の古典的な哲学のテクストが、同時代の人ならばたちどころにジョークと見るものをきわめて数多く含んでいるという厄介な可能性を処理できることもわれわれには必要である。おそらく、プラトンホッブスとがまず思い起こされるであろう。ここでもまた、疑いもなくこのことが、彼らのテクストを理解する重要な手掛りである。しかし、再び同じように、従来承認されてきた二つの方法論のいずれも、その点でいったい何の役に立つのか理解困難である。同様に、仄めかしや婉曲的言及の問題も通常、重要な識別問題をはっきりと提起し、それに対応して、そうした要素が顕著に見られるテクストを誤解する明らかな危険性を生み出す

 作者が「ある議論をしないこと」に注目せねばならないこと、また古典に含まれる諧謔・婉曲を読み取らなければならないことというのは、言うは易しですが最も難しいことの一つであると思います。

 専門の論文を見ていても、「この議論をするときには、この例を出して説明するのが普通なのにしていない」といったことを読み取った研究を見たときには、いつも感服してしまいます。この領域に達するのは難しいものです。

 さて、スキナーは、第四節の終わりでこう述べ、結論パートに向かいます。

 すなわち、テクストそれ自体の研究だけに集中することも、テクストの意味を決定する手段としてその社会的コンテクストの研究だけに集中することも、いずれもテクスト理解のための条件に関する最も困難な諸問題を認識―解決はいわずもがな―することを不可能にするのである。

 次回に続きます。

(棋客)