達而録

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クェンティン・スキナー『思想史とはなにか―意味とコンテクスト』(7)

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 ようやく最終回(7)まできました。クェンティン・スキナー『思想史とはなにか―意味とコンテクスト』(半沢孝麿・加藤節編訳、岩波書店、1990)を読んでいきます。今回は、いよいよ第五節、結論を提示する部分です(p.112-121)。

 もしこれまでの私の議論が正しいとすれば、今や、二つの積極的で一般的な結論がそこから引き出されることが示されるであろう。第一の結論は、思想史研究の適切な方法に関係する。すなわち、一方で、所与の作家の作品のみに集中して知の伝記を書こうとすることも、あるいは、所与の概念の形態を時代の変遷を通して追跡しながら観念史を書こうとすることもともに誤りであるに違いない。こうした型の研究はいずれも、(両者の欠点を併せ持つ教育用思想史は言うに及ばず)不可避的に誤った考えから生ずる。他方で、だからといって時折主張されるように、思想史研究のどの方法も等し並みに不満足なものであるということにはならない。むしろ、私の最初の積極的な結論は、私の議論の方向全体が、これまで私が押し進めてきたような批判を少しも受けることのない別な方法論を指示しているということなのである。私が一貫して強調してきたように、テクストの理解は、それが何を意味すべく意図されたものか、またこの意味がどのように受け取られるべく意図されたか、この両方の把握を前提とする。したがって、テクストを理解するということは、理解されるべき意図、および、この意図が理解されるべきであるという意図、すなわち、意図された伝達行為としてのテクスト自体が少なくとも具体的に表現してでているはずの意図、この両方を理解することでなければならない。それゆえ、所与のテクストを研究するに際してわれわれが向かいあう本質的な問題は、作者が、対象とすべく意図した読者のために書いたその時点で、書きながらこの所与の発言を発することによって実際に何を伝達しようと意図していたのかの問題である。したがって、発言自体を理解しようとするいかなる試みにおいても、本質的な目的は、作者の側におけるこの複合的な意図を再現することでなければならない。

 スキナーは、テクストの理解とは、以下の二つによって成し遂げられると結論付けています。

  1. それが何を意味すべく意図されたものか(理解されるべき意図
  2. この意味がどのように受け取られるべく意図されたか(この意図が理解されるべきであるという意図、意図された伝達行為としてのテクスト自体が少なくとも具体的に表現してでているはずの意図)

 この方法を実践するにあたって、気を配らねばならないのは以下の点とします。

 思想史の適切な方法論が心を配らなければならないのは、何よりもまず所与の場合に、所与の発言を発することによって、慣習上遂行されえたであろうコミュニケーションの全範囲を詳細に描き出すことであり、次いで、所与の作家の実際の意図を解読する手段として、所与の発言とこのより広い言語上のコンテクストとの関係を追跡することである。ひとたび、研究の適切な焦点がこのように本質的に言語の問題であり、したがって、妥当な方法論はこのように意図の再現にかかわるものである、と見られるならば、所与のテクストをめぐる社会的コンテクストに関するあらゆる事実の研究は、言語を解明しようとする右の企ての一部としての位置を与えられるのである。コンテクスト主義的方法論において、社会的コンテクストに関するこれらの事実の扱い方に問題があるのは、それらが不適切な枠組に嵌め込まれてしまっていることである。つまり「コンテクスト」は、誤って、言われたことに対する決定因として扱われている。そうではなく、コンテクストは、ある人物がその社会において、慣習上承認されうるどのような意味を伝えようと意図することが原理的に可能であったかの決定を助ける最終的な枠組として扱われなければならない

 テキストの理解に当たって、気を配らねばならないのは以下の二点です。

  1. 所与の場合に、所与の発言を発することによって、慣習上遂行されえたであろうコミュニケーションの全範囲を詳細に描き出すこと
  2. 所与の作家の実際の意図を解読する手段として、所与の発言とこのより広い言語上のコンテクストとの関係を追跡すること

 ここにおいて、「コンテクスト」は、著者の発言を決定する要因として扱われているわけではありません。そうではなく、著者がどのような意味を伝えようと意図することが原理的に可能であったか、ということを社会的背景から考慮する最終的な枠組であるとするわけです。

 

 次に、スキナーは、こうした研究によって紡がれるテクスト理解にどのような価値があるのか、またどのような可能性があるか、その積極的な意義付けを探ります。その中で、まず、思想史の研究を古典から学ばれるべき「永遠の問題」や「普遍的真理」に帰結する方向性を否定します。

 思想史の研究を、古典的テクストから学ばれるべき「永遠の問題」や「普遍的真理」の観点から正当化するいかなる試みも、思想史自体を馬鹿馬鹿しいほど、そしてまた必要以上に素朴なものにするという対価を払ってのみその正当化を贈いうることは明らかである、と私は考える。これまで示そうと努めてきたように、いかなる陳述も、不可避的に、特定の問題の解決に向けられた、特定の機会における、特定の意図の具体的な表現なのであって、したがって、それは、それを越えようと試みることは幼稚としか言えないほどに、特定の状況と密接に関係している。このことが意味する決定的に重要な点は、古典的テクストがかかわりうるのは、われわれのではなく、ただそれ自体の問いや答えに対してのみであるということだけではない。それはまた―コリングウッドの言い方を甦らせるならば―哲学には永遠の設問などおよそ存在せず、存在するのは個々の問いに対する個々の答えだけであり、また問う人の数と同じだけの多くの異なる問いが存在するということをも意味するのである。したがって、思想史研究の意義を、想像上の超時代的設問に対して試みられた解答なるものに集中することによって、古典的な作者たちから直接に学ぼうとする試みの中に求めることなど、およそ期待できない相談なのである。

 古典的テクストによって提供される解答なるものが持つこの途方もなく偶然的な要素は、繰り返し強調されてきた。…

 以上、古典的テクストの研究を通して直接に学ぶことを期待できるような永遠の問題は哲学には存在しないという主張を再定式化し、強調してきたが、このことは、もちろん、(おそらく数学におけるように)真理性がまったく時制とは関係のない命題も存在するという可能性を否定するものでは少しもない。(とはいえ、それらの命題の真理性はその理由からして偶然性が少ないと証明できることにはまだならない。)それはまた、もし十分に抽象的に組み立てられるならば、見かけだけでも永遠の問題が存在するという可能性を否定するものでさえない。私が力説したいのは以下のことだけである。すなわち、そうした問題を歴史的に研究する意義は、その解答からわれわれが直接に学びうることにあるとどれほど主張されるにしても、結局明らかにならざるをえないのは、解答と見做されるもの自体が、通常、異なる文化や時代の中では、大変に異なって見えるので、その結果、当該の問題を、要求されている意味で「同一」と考え続けることは何の役にも立たないということなのであるより率直にいえば、われわれは、われわれ自身の思考を自前ですることを学ばねばならないのである。

 ここでスキナーは、古典から普遍的意義を見い出して現代に活かす、という方向性を否定しています。では、思想研究、そして古典研究の意義は、否定されて終わりなのでしょうか?

 そうではありません。スキナーは、最後に思想史の研究の意義について、こう述べています。少し長いですが、「ここだけでも読んでくれ!」という部分ですので、そのまま引用しておきます。

 しかし、思想史のために現在主張されている哲学的価値が誤った考えに基づいているとしても、だからといって、思想史という主題それ自体には必然的に何の哲学的価値もないと断定するのが私の結論なのでは決してない。というのは、古典的テクストが、何か訳のわからない理由からしてわれわれ自身の問題ともかかわっているなどという憶測ではなく、それがわれわれとはまったく異質のそれ自体の問題とかかわっているというまさにその事実こそ、私から見れば、思想史研究の本質的な意義に疑念を投げかけるどころか、むしろ、それを明らかにする鍵を与えるものだと思われるからである。古典的テクスト、とりわけ社会、倫理、政治思想の分野におけるそれらは―もしもわれわれが求めるならば―、実効性ある道徳上の諸仮説や政治的主張本質的な同一性ではなく、むしろ多様性を明らかにする助けとなるものである。さらに言えば、ここにこそ、古典的テクストの最も本質的な哲学的、そして道徳的な価値が存在すると見ることができる。過去の諸思想を検討するための単に不可避なのではなく最良でもある展望の高所は、われわれが現在立っている状況という高所でなければならない、何となれば、定義上それは最高度に発展した状況だからと仮想する傾向(この傾向は、時に、ヘーゲルの場合のように歴史的発展の様態として明らさまに主張される)がある。だが、そのような主張は、基本的な問題に関して見られる歴史上の相違は意図や慣習の相違を反映しているのであって、諸価値の織りなす一つの共同体をめぐる競争や、ましてや絶対者の発展する知覚のようなものを反映しているのではないという事実に対する認識が少しでもあれば、それに耐えて生き残ることはできない。進んで言うならば、われわれ自身の社会は、社会・政治生活についてそれ自身に局限される信条や制度を持つという点で他のいかなる社会とも異ならないと認識することは、そのこと自体で、既に、まったく異なった、そして―あえて言いたいが―はるかに健全な展望の高所に到達したことを意味する。そのような思想の歴史の認識を持つことは、われわれが伝統的、いや「時代を超越した」真理としてさえ受け入れがちなわれわれ自身の諸制度の特徴が、どの程度まで、実は、われわれに特殊な歴史や社会構造の偶然的産物の最たるものにすぎないのかを示すのに役立ちうるであろう。実際には超時代的概念などといったものはなく、あるのはただ、さまざまに異なる社会と歩みを共にしてきたさまざまに異なる概念だけであることを、思想史から発見することは、過去についてだけではなく、われわれ自身についても一般的な真理を発見することなのである。それだけではない。われわれ自身の社会がわれわれの創造力に対してそれとは自覚されない拘束を課すことは常識であり、その限りではわれわれはすべてマルクス主義者である。だからこそ、他の社会の思想の歴史的研究が、それらの拘束をより少なくするために不可欠な、他をもってしては代え難い手段として企てられるべきだということが、われわれの共通の理解となるに値するのである。そうなれば、そのような歴史を無視する理由として現在恐ろしいほどの偏狭さでしきりに言い立てられることであるが、思想史は「もはや用をなさない形而上的概念」にすぎないものから構成されているという主張は、まさにそうした歴史を本質的に「有意な」ものと見做す理由と見られるようになるであろう。だがそれは、そうした歴史から粗雑な「教訓」が拾い出されるからではなく、その歴史自体が自己認識における教訓を提供するからこそである。このように、思想の歴史からわれわれ自身の直接的な問題への解決を求めることは、方法論的な誤謬を犯すだけではなく、道徳的な誤りとでも言うべきものをも犯すことである。これに対して、過去から―われわれはそもそもそれ以外には学びようがないのだが―必然的なものとわれわれ自身の偶然的な制度の産物にすぎないものとの相違を学ぶことは、自己認識そのものへの鍵を学びとることなのである。

 私はこの一段を、「多様なものを、そのままに多様なものとして受け取って学ぶことこそに、最大の意義がある」というように読みました。この読解が正しいのかは分かりませんが、非常に力強い言葉で、我々の研究を後押ししてくれる言葉だとは思いませんか?

 つまり、私にとっては、研究対象である「経学」が現実離れした観念的な産物であるからこそ、かえって魅力的であり、その多様な姿・異質な姿をそのままに理解し伝えることに意義があるのだ、とお墨付きを頂いたような気分になったのです。

 

 さて、結論の認識が正しいのかは置いておいて、全編を通してたいへん示唆深く、中国の学問の分析にも役立つ武器をたくさん手に入れることができました。学問の営みは世界に共通のものであり、類似点がさまざまに出てくるものだな、と感じました。(ここでこの類似点を強調し当てはめで理解すると、スキナーの批判する方法になってしまいますが…。)

(棋客)

※クェンティン・スキナー『思想史とはなにか―意味とコンテクスト』の過去記事

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