達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

小島祐馬と大学総長任命権問題

 今日は、竹ノ内静雄『先知先哲』(一九九二、新潮社)から、戦中の小島祐馬の活躍ぶりを学ぶことにいたしましょう。本書は、吉川幸次郎・田中美知太郎・小島祐馬といった学者の回想録になっており、他にも面白いこぼれ話が多数記載されています。

 ここで紹介するのは、1938年、滝川事件など大学の自治を揺るがす事件が次々と時代、大学の総長の任命権を国家が掌握しようという動きがあった時の話です。

 小島祐馬といえば、晩年に故郷の高知に戻ったのち、吉田茂を通して文部省大臣に就任要請されるも、「麦を作るのに忙しい」と言って断った、という話が有名ですね。私はそのイメージが強く、政治面にはあまり関心が無かったのかと思っていましたが、当時はむしろ辣腕として評判が高かったようです。

 学問の自由に対する当局の圧迫は、もう多年にわたっていた。 鳩山一郎文相による瀧川幸辰教授の辞職要求に端を発した京大事件は、その一例にすぎない。 虎の威を借る居丈高な発言は鳩山一郎にかぎらず、すでに長く横行していた。

 小島教授が文学部長であった昭和十三(一九三八)年に、帝国大学総長任命権問題というものが起った。

 同志社大学内田智雄教授の「小島祐馬と河上肇」によれば、 〈今はまったく忘れ去られているが、昭和十三年、近衛内閣〔第一次。この年中国に和平交渉打切りを通告。「国民政府を相手にせず」と声明―引用者〕の文部大臣陸軍大将荒木貞夫によって、当時 「六帝大」といったかと思うが、帝国大学総長の官選問題が提起されている。それは従来、総長が学内の自主的選挙によって決定せられ、内閣はそれをただ形式的に任命するという、現在とほぼ変らない選出方法であったのに対して、改めて内閣の任命制にすることによって、大学の思想言論の統一、教育行政の一元化をねらったものであることはいうまでもない。そしてその牙城たる帝国大学をまず陥落さすことによって、ひいて全国の大学を完全に、実質的には軍の統制下に置こうとするものであった。(p.190)

 形式的な任命権を、実質的な任命権に置き換える―なんだか最近も聞いたような話ですね。

 ちょうどこの問題が勃発したとき、小島は文学部長を務めており、この問題に対応することとなりました。

 このとき小島は、法学部教授の宮本英脩とともに、選ばれてこの問題の京大代表委員となり、荒木と大学側との数次の交渉において、その主導的役割を演じ、ついにこの案を撤回せしめたことがある。小島はもともと政治的素質と手腕とに恵まれており、自らするならば、台閣に列する機会もないわけではなかったが、これをみずから制したものの如くであり、われわれ門下に対しても、時政に関する意見や批判は述べたことがなかった。とにかく大学総長官選問題では、はしなくも小島の政治的手腕の片鱗が示されることとなった〉(『政論雑筆』二一一~二頁)

 当時の京大側の資料を見てみると、以下の資料のp.434-439に、宮本・小島の名前が出ています。東大と協力しながら事に当たった様子が分かりますね。

Kyoto University Research Information Repository: 【資料編 2】[第2編: 百年の出来事] 第5章: 戦時体制

 また、この頃の東大側の対応を描いた論文に岡敬一郎「田中耕太郎の大学行政の研究-自治擁護の問題構造-」があります。

東北大学機関リポジトリTOUR

 このあたりの詳しい経緯については、岡村敬二『京大東洋学 者小島祐馬の生涯』(臨川書店、2014)にも載っています。文部省だけではなく、東大や他の四大学との間にも軋轢が生じる場合があり、小島がその対応に奔走した様子が描かれています。

 大学間でも軋轢が生まれた原因は、当時京大は急死した浜田耕作総長の後任をすぐに決める必要があり、切羽詰まっていたのに対し、当分総長が変わることのない東大はそれほど急ぐ必要が無かった、といった事情もあったようです。

 以下、重沢俊郎の小島評価を引用しておきます。

 小島門下で、そのあとをつぎ京都大学教授になった重沢俊郎博士も、小島先生を偲んで次のように語っている。

〈大学行政の上における先生の多くの功績の中で、今日の時点でとくに強く追念されるのは、昭和十三年のいわゆる総長任命権問題のことです。大学の運営がとかく歪められがちな現在の情況の下にあって、現行の無記名投票による選挙方式を確立し、大学自治の精神を貫かれた先生のすぐれたご見識は、いまの大学にとって反省すべき教訓といえるのではないでしょうか。〉(「受業生の一人として」『展望』一九六七年三月号)

 戦前でさえ守り抜かれた「形式的な任命権」。現代の出来事と重ね合わせてしまうのは、私だけではないでしょう。

(棋客)