達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

章炳麟と章学誠(1)

 最近、章炳麟と章学誠の関係について調べていまして、章炳麟の全集の中から、章学誠に言及する部分を探しています。

 それに関連して、島田虔次『中国革命の先駆者たち』(筑摩書房、1965)を読みました。以下、内容の紹介というより、それぞれの出典をメモしただけのものですが、ちょっと載せておきます。

 本書の最後の章の「章炳麟について」に、以下のような一節があります。

 ところで「六経皆史」とはまた、内藤湖南の顕彰いらい、我国においても余りに有名な、章学誠の語であったことはいうまでもない。太炎は実にしばしば章学誠を引いており、のち胡適に反駁されて、一般には太炎の黒星と見られているかの「百家九流みな王官より出ずるの説」のごとき、もちろんはやく漢書藝文志に出るとはいいながら、また近く章学誠の主張を踏襲していること恐らく確実であるから、この「六経みな史なり」の説の章学誠を受けていることも、疑いないであろう。章学誠が進んで更に「天地間にありとあらゆる著述はみな史学である。六経はただ、聖人がこの六種の史を取り出して訓を垂れたというに過ぎない。子部や集部に属する諸家も、その源はみな史かあら出たのである」というとき、太炎の説はこれと符節を合するごとくではないか。(p.240)

 「六経皆史説」については、島田虔次には「歴史的理性批判―六経皆史の説」(林達夫久野収編『歴史の哲学』岩波書店、1969)という文章もあります。ほか、井上進『明清学術変遷史』など、さまざまな書籍で解説されています。

 「百家九流みな王官より出ずるの説」とは、上にいう通り『漢書』藝文志の説で、以下のように、「諸子略」の各分類の源が官職にあったことを述べています。

  • 儒家者流,蓋出於司徒之官。
  • 道家者流,蓋出於史官。
  • 陰陽家者流,蓋出於羲和之官。
  • 法家者流,蓋出於理官。
  • 名家者流,蓋出於禮官。
  • 墨家者流,蓋出於清廟之守。
  • 從(縦)橫家者流,蓋出於行人之官。
  • 雜家者流,蓋出於議官。
  • 農家者流,蓋出於農稷之官。

 たとえば章炳麟は、「論諸子学」で以上の部分を引用し、「此諸子出于王官之証」と述べています(上海人民出版社『章太炎全集』演講録上、2018、50頁)。

 これが「章学誠の主張を踏襲している」とありますが、『漢書』藝文志の上の部分を章学誠が直接言及する例としては、

『文史通義』外篇一、述學駁文

 諸子之書多周官之舊典,劉班敘九流之所出,皆本古之官守,是也。古者治學未分,官師合一,故法具於官,而官守其書。

 などがあります。ただ、そもそも章学誠の六経皆史説を始めとする学説の多くが、漢書藝文志のこの説と通底する点があると言った方がよいでしょう。

 次、「天地間にありとあらゆる著述は……」から始まる章学誠の言葉は、「報孫淵如書」からの引用です。

『文史通義』外篇三、報孫淵如書

 愚之所見以為,盈天地閒,凡涉著作之林,皆是史學。六經特聖人取此六種之史,以垂訓者耳。子集諸家,其源皆出於史,末流忘所自出,自生分别,故於天地之閒,别為一種,不可收拾,不可部次之物,不得不分四種門戸矣。

 「太炎の説はこれと符節を合するごとくではないか」について、島田氏は直前の部分で以下のように太炎の説を引用しています。

 もし民族主義という「義」を知るのみで、歴史や典籍をいっさい読まなかったら、思古の幽情は発しようがない。思うに民族主義は恰も農事のごときものであって、史籍に記されている人物や制度、地理や風俗の類で灌漑してやれば、蔚然として興ってくる。……孔子の教の眼目は歴史にある。孔子を奉じるものは、よろしくその禄を求め政治をやろうという生き方を振りすてて、ただ歴史上の事蹟の感動するの値するものを取り、不断に玩味すべきである。『春秋』よりさらにさかのぼれば六経があるが、六経はもとより孔子歴史学である。『春秋』から降れば、『史記』『漢書』および歴代の書志・紀伝、これまた孔子の歴史の学(を継承したもの)に他ならない。(p.236)

 上は、「答鐵錚書」(『民報』十四、のち『太炎文録別録』二)からの引用です。ほか、章太炎の言葉に「中国の著作は、すべて「事」を記すことを任務としている」「六経はみな記載の文である」といった言葉があることを島田氏は指摘しています。

(棋客)