達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

栗林輝夫『荊冠の神学―被差別部落解放とキリスト教』(1)

 今日は、前回紹介した、栗林輝夫『荊冠の神学―被差別部落解放とキリスト教』(新教出版社、1991)について、もう少し詳しく書いていくことにしましょう。

 「荊冠の神学」という言葉は、本書で最初に提示される概念であり、また探究の対象となっているものです。簡単に言えば、部落差別、部落解放運動に出発点を置くことで、聖書でいうところの「解放」を再解釈しよう、ということを試みています。

 この際、序章ではっきり宣言されているのは、「荊冠の神学」は、被差別民の解放を、個人の愛、神への回心など、内面的な問題にして解消するのではない、という点です。こうした発想は、むしろ、差別のある社会構造に、信仰が神学が取り込まれてしまった現実を反映するものだ、と厳しく批判します。また、こうした解消の仕方が、古くは賀川豊彦、そして現代に至るまで、保守的な信仰者の間で唱えられ続けていること(そしてそうした態度こそが差別であること)を指摘しています。

 部落差別の問題は、個人の内面の信仰で解消されるものではありません。差別を必然とするような社会・経済の構造、差別を内包してしまう文化、被差別部落が形成されてきた歴史的過程など、個人の信仰ではどうしようもないことを含んでいます。(以上、p.37-41の要約)

 「荊冠の神学」とは何か、というまとめをしているのが以下の一段です。

 これまで無視されてきた被差別民は今、歴史を主体的に担う者として、日本の経済、社会、政治、文化の状況すべてを根底から問いかえす作業を私たちに要請している。彼らの問いかけは、社会の支配層と共に歩む中間層の問題意識でなされた神学が論じるところとは違って、差別を温存する社会そのものの基礎をラディカルに問題とする。そこでの神学的な問いとは、世俗的な近代的な日本社会にどのように神を語り得るか、真に近代的人間を作るためにキリスト教は何を日本人に示すか、といった進歩的神学の問題ではなく、また近代を神を忘れた反聖書的時代、「たんなるヒューマニズムの支配」の時代として退ける保守の神学でもない。そうではなく、神は、いまある差別という精神的・物理的な抑圧の下に押し込められてきた被抑圧者に、「貧しきもの」「悲しむ者」「ちいさきもの」「失われたイスラエルの子」また「罪人」といった、特定の民へと注がれる神の偏愛と救いのわざがどう関わるのか、そして私たち信仰者は現在の差別の罪をいかにして克服していこうとするのか、それを模索する神学なのである(p.47)。 

 以上のように、序章をざっと読むだけでも、現代社会のあらゆる場面に通じる、きわめて普遍的な問題提起になっていることが分かっていただけると思います。

 

 では次に、第三章「荊冠の神学の資料と規範」から、本書の研究で用いる資料と、その用いる方法について説明する一段を見ていくことにしましょう。同じくテキスト解釈の研究を試みる身として、興味深いものがあったからです。

 一般に「歴史」は「上から」、つまり支配する者、勝者によって書かれるのが常である。「下」にある被差別部落のさまざまな生活体験を、日本の主流な歴史の中に読み取ることがなかなか難しいのと同じように、教会内の被差別部落への省察や実践の資料、記録も乏しく断片的である。それらは多くの場合、短い講話、説教、随筆、証し、報告、記事といった形を取る。またまとまった論考があったとしても、「社会問題と信仰」とった啓蒙的な実践神学の一部とか、「宗教と差別」という差別問題を解説した本の一章といった、限られたものの場合が多い。一人の著者によって統一的に書かれた信仰の証しにいたっては数えるほどしかない。しかし私たちはそれでも、一瞬の輝きにも似た深い洞察が含まれている、こうした記録資料を発掘し、そこに原初的に与えられた理解を分析して統一性を与え、貴重な教会的遺産としてそれらを蘇らせねばならない。(p.173-174)

 以上は、用いる資料について述べるところです。下層の人々の歴史研究につきまとう資料的な限界というのは、普遍的な問題でしょうね。

 そして以下が、それらの資料をどう読み解くか書いた部分です。序章の言葉と重なる所もありますが、改めて引用しておきましょう。

 私たちの前には、資料として二つのものがある。ひとつは差別された者の「経験」、出来事、歴史、状況、省察言語化した資料、もうひとつはキリスト教信仰の内容、「聖書」と「伝統」に伝えられた資料である。私たちの主題である「苦難」にせよ「解放」にせよ、それらは二つの異なった次元をもっている。苦難とか解放と言うことは、差別と偏見の中にあって今そこから脱却しようとしている、具体的な被差別部落民の経験に根付いた言葉だということがまずある。しかし次に苦難や解放とかの用語は、神の歴史的わざ、イエス・キリストの福音にかかわるキリスト教の神学カテゴリーの言葉であって、困窮した者にたいする神の偏愛と救済という、信仰の内実を表している。私たちの解釈の作業は、要約して言えば前者の被差別民の経験をもって、後者の聖書や伝統を再解釈し省察するということにある。荊冠の民である被差別民の痛みと希望によって、荊に顕現した神ヤハウェの解放、荊冠者イエスが示した自由の意味を見出していこうとすることにある。(p.186-187)

 次回の記事はこちらです→栗林輝夫『荊冠の神学―被差別部落解放とキリスト教』(2) - 達而録

(棋客)