前回の続きです。今さらですが、劉咸炘の「目録学」は、以下の章立てからなっています。
- 弁言(前回紹介した文章)
- 上編
- 著録第一
- 存佚第二
- 真偽第三
- 名目第四
- 篇巻第五
- 部類第六
- 互著別裁第七
- 次第第八
- 題解第九
- 下編
- 版本第十
- 校勘第十一
- 格式第十二
- 一題目
- 二次第
- 三分注
- 文字第十三
- 末論第十四
前回「弁言」をだいたい読みましたので、引き続き、上編の「著録」を読んでみることにしましょう。原文は省略します。
書物を著録する営みは、官府におけるものは漢代に始まり、民間におけるものは宋代に始まった。書籍の源流は上古にまで遡るが、著録の営みは(上古には)見えない。『隋書』経籍志は「古くは、史官が典籍を管理しており、おそらく目録があって提要を作っていた」という。また『文献通考』経籍考は、冒頭で『周礼』の「太史」が六典を管理し、約劑(盟書・証文)の副本を蔵したことなどの諸文を引用し、官府による蔵書の端緒であるとする。しかし、これらはいずれも役人の仕事であって、後世の档案のようなものに過ぎない。おそらく、三代以前には私家の著述が存在しないので、最初の頃の文書は、規則の条目や出来事を記録したメモしかなかった。『荘子』が老子のことを「守蔵史」と称するが、ここで蔵されるものとはこういう類を指す。
この一段は、「目録学」の講義をするに当たって、そもそも「目録」を作る営み、つまり所蔵された書物の記録を作る営みがいつから始まったのか、ということを説明する部分です。
続きを見ていきましょう。
官学が私学に変化すると、諸子百家が争って主張し、著作が増えるようになり、秦は李斯の言葉に従い、博士官の職ではなく、天下に蔵される『詩』『書』などたくさんの書物を、みな混ぜて焼いてしまった(『史記』秦始皇本紀)。漢は秦の失敗を改めて、篇籍を収蔵し、書物を献上する道を広く開き、蔵書の政策を立て、書を複写する官職を置いた。成帝は謁者の陳農に遺書を集めさせ、光禄大夫の劉向・歩兵校尉の任宏・太史令の尹咸・侍醫の李柱国らに、これを校正するように命じた。劉向が死ぬと、子の劉歆が後を継いで、群書を統べてその『七略』を奏上した(『漢書』藝文志)。これが官府における著録の最初である。
これよりのち、歴代の王朝で官府の著録がある。私家の著録は梁の阮孝緒に始まったが、この頃はまだ木版印刷の方法がなく、人々が書を蓄えるには費用がかさみ、書を大量に持つことはなかった(葉夢得『避暑録話』)。唐・五代になって木版印刷は始まり、書物を得ることが徐々に容易になり、宋代初期には士大夫であれば蔵書が多くなり、荊州の田氏や邯鄲の李氏には、いずれも書目があり、ここで私家の著録が初めて盛んになった。
荊州田氏、邯鄲李氏の書目については、『通志』藝文略・家藏總目に「荆州田氏書目六卷(田瑋)」「李邯鄲書目三卷(李淑)」の著録があります。
また、胡應麟『少室山房筆叢』の引く葉夢得の言葉に、「本朝公卿名藏書家,如宋宣獻,李邯鄲,四方士民如亳州祁氏,饒州吳氏,荆州田氏等,吾皆見其目,多止四萬餘卷,其間頗有不必觀者」とあります。
ここまではイントロダクションといった感じですが、ここから「将明著録之義,先辨簿目之體」として、もう少し細かな議論に入っていきます。
(棋客)