前回の記事、劉咸炘『治史緒論』中篇の四「史旨」の続きです。
まとめると、史に載せられたことは人事である。どうして人事の律を究めつくすことができようか。これを究めたいのなら、『易』こそ重要だ。道家は史に詳しく、道家の持論である循環の律は、本当に重んじるべきもので、進歩を迷信する人は信じないことである(『道家史観説』および『反復論』に詳しい)。律とは、知識の網が詳しく行き届いたもので、善く史を作る者、善く史を読む者は、みな得ているものだ。(律を)得た者は、必ず抑揚して(使いこなして)史を修める。これが史旨であり、章先生がいう「子の意がある」ものである。しかし、これは隠れていて見難いものである。史を学ぶ者に試問して、司馬遷・班固の旨はどこにあるのかと問うと、答えられる者は少なく、必ず「史は事実を記すものであり、どうして自分の意見によって旨を言うだろうか」と言う。史とは、志によって事実を記し、明白な理に基づき、いわゆる「過去を保存して未来を知る」ものであり、ただの役人の抄録のようなものということがあろうか。古い出来事を改めてはならず、ただ自分の意見を付け加えるだけともいうが、全く自分の意見を無にすることができようか。ましてやいわゆる「旨」は、その人の知識によるものであり、真理を害するものではない。
劉咸炘は、自らの学問を「人事学」と称しており、ここで史に載せられることが「人事」であると述べているのも、そこに繋がってくるのでしょう。「道家史観説」の話は前回の記事に出てきました。
次に、その具体例の一つとして、司馬遷・班固の「史旨」がどこにあるのかということを説明していきます。劉咸炘は、『史記』と『漢書』について篇ごとにコメントをつけながら自分の意見を述べた『太史公書知意』『漢書知意』という書物を作っており、以下はその書の要約になっています。
司馬遷・班固の書については、私はすでに詳しく論じたことがあり、以下にはその大旨を述べる。司馬遷は、六藝以外の遺文を網羅し、その誤りを正す。よって「考信六藝,折衷孔子(六藝の書の真実を調べ、孔子に折衷する)」の八字を主旨とする。帝王の道は、秦漢に至って大きく変化し、それは人によるものでもあり、天によるものでもある。よって「究天人之際,通古今之変(天と人の関わりを究めつくし、昔と今の変化に通暁する)」の十字を主旨とする。
「考信六藝,折衷孔子」は、『史記』伯夷列伝に「夫學者載籍極博,猶考信於六蓺(藝)」とあり、孔子世家の賛に「自天子王侯,中國言六藝者折中於夫子,可謂至聖矣」とあります。また「究天人之際,通古今之変」は、『漢書』司馬遷伝に載せられている司馬遷の書簡(報任少卿書)に「凡百三十篇,亦欲以究天人之際,通古今之變,成一家之言」とあります。司馬遷の「史旨」の根本としてこの語を提示するわけです。
以下、続きです。
古今の風気は、大きく緩柔・急剛の二つに分けられ、政治が「急」なら人は「柔」となり、政治が「緩」なら人は「剛」となる。太史の学は道家に基づき、景帝・武帝の政治の「急」の時期に当たる。よって、「剛」を主とし、郷愿を貶めて狂狷を賛美した。司馬遷は、西漢末の「柔」の弊害を見ていたのだ。班固の学は儒学に基づき、章帝・和帝の政治の「緩」の時期に当たる。よって「柔」を主とし、中行を提示して狂狷を貶めた。班固は東漢末の「剛」の弊害を見ていたのだ。二人は、基づく学問があり、善く時代の変化を観察し、流行している弊害を知っていたことによって、良史たりえたのだ。范曄は宗とする学問が深くなく、その書は円神の本体を失っている。しかし、宗旨はあったようで、人が「柔」の時期であるから、「剛」を主とし、狂狷を賛美した。六代の士風は卑劣・怯懦で、節操がなく、范曄はそれを見ていたのだ。三家の宗旨はそれぞれを矯正しあうが、実はそれによって完成する面もあり、班固は司馬遷が姦雄を進めることを非難し、范曄は班固が節義を貶めたことを非難するのは、まさにこの意味であり、互いに軽視しているわけではないし、後人が得たことを元に言葉を借りて非難しているわけではない。
大雑把な議論ではありますが、当時の時代的な背景があって、その中で歴史書が作られ、そしてそこにはその時代特有の課題が現れている、という方向で理解しておきましょう。
(棋客)