達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

ベンヤミン著・鹿島徹訳『[新訳・評注]歴史の概念について』(2)

 予告していた通り、ベンヤミン著・鹿島徹訳『[新訳・評注]歴史の概念について』未来社、2015)の内容を少しだけ紹介します。

 まず、ベンヤミン『歴史の概念について』のテーゼⅥ(p.49-50)を一部引用します。

 過ぎ去ったものを史的探究によってこれとはっきり捉えるとは、〈それがじっさいにあったとおりに〉認識することではない。危機の瞬間にひらめく想起をわがものにすることである。史的唯物論にとって重要なのは、危機の瞬間に史的探究の主体に思いかけず立ち現れる、そのような過去のイメージを確保することなのだ。

 その危機は伝統の内実をなす物事とその受け取り手とを、ともにおびやかしている。この両者にとって、危機とは同じ一つのもの、すなわち支配階級に身をゆだねてその道具になりかねないということだ。伝承を支配下に置こうとしている体制追随主義(コンフォーミズム)の手から、伝承をあらためて奪いかえすことを、いつの時代においても試みなければならない。

 続いて、テーゼⅦ(p.51-52)を一部引用します。

 ……この気分の本性〔無気力〕をよりいっそう明確にするためには、歴史主義の立場に立つ歴史叙述者がいったいだれに感情移入しているのかと、問いを投げかけてみればいい。かれらは当然にも、勝者に感情移入していると答えるだろう。だがそのときどきの支配者は、それまでに勝利を収めたすべての者の遺産相続人である。それゆえ勝者への感情移入というものは、いつでもそのときどきの支配者の役に立ってることになる。

 これだけ言えば、史的唯物論者にはもう十分だろう。今日にいたるまで勝利をさらった者はだれであれ、いま地に倒れている人びとを踏みにじりながら今日の支配者がとりおこなっている祝勝パレードの列に加わって、ともに行進しているのだ。これまでの慣例のままに、そのパレードには戦利品も一緒に引き出されてゆく。その戦利品は文化財と呼ばれる。……このようなものが存在しているのは、それを創造した偉大な天才たちの労苦だけではなく、かれらと同時代の人びとの言いしれない苦役のおかげなのである。それが文化の記録であることは、同時に野蛮の記録でもあることなしにはありえない。しかもそれがそれ自体として野蛮から自由ではないように、ある者の手から他の者の手へとそれが渡ってきた伝承の過程もまた、野蛮から自由ではない。

 それゆえ史的唯物論者は、この伝承からできる限り距離をとる。かれは歴史を逆なですることを自分の課題とみなすのだ。

 最後に、テーゼⅧ(p.53)の冒頭を見ておきます。

 抑圧された人びとの伝統は、いまわたしたちの生きている〈例外状態〔非常事態〕〉が、じつは通例の状態なのだと教えてくれる。この教えに応えるような歴史の概念を手に入れるよう、わたしたちは迫られてる。それを手に入れたとき、真の意味での例外状態を招来することが、わたしたちの課題としてはっきり示されるだろう。

 非常に簡潔で、それでいて力強く、こうして読み進めるだけでベンヤミンの示す道筋が浮かび上がってくる感覚がします。

 テーゼⅥ~Ⅶあたりについての鹿島氏の解説(p.120-122)は、大阪人権博物館に対する大阪市の攻撃を例に取り、「差別された人びとの長年にわたる辛苦の経験が形象化されている土地建物が、いま消滅の瀬戸際にあると言わざるを得ない」としつつ、以下のように述べています。

 しかし、「かつて生じたことは歴史にとりなにひとつとして失われたものと諦められることはない」(※ブログ筆者注:テーゼⅢの言葉)。その消滅の「危機」においてこの土地建物は、いま忘れられつつある過去の差別とそれに踏みにじられた人の存在に、わたしたちの目を向けようとしている。そこから転じて、現在なお根強く存在し、インターネットなどを媒介に隠微に拡大すらしている日本社会の差別にどう向き合うのかと、問いかけている。

 大阪人権博物館の経緯については、「運営継続について|大阪人権博物館[リバティおおさか]」に詳しくまとまっています。本書の執筆時にはまだ博物館は存在していましたが、いまは取り壊されて更地となっています。運営団体は移転しての再開を目指していますが、まだどうなるか分かっていません。

 権力者に奪われようとしている場所というと、私がたびたびブログで取り上げてきた吉田寮もそういう場所の一つです(京大吉田寮について - 達而録)。いずれ吉田寮も消え、大学側の喧伝するストーリーの中に取り込まれてしまうのかもしれません。しかし「かつて生じたことは歴史にとりなにひとつとして失われたものと諦められることはない」のです。そして危機の場、実は例外ではない〈例外状態〉の場であるからこそ、「危機の瞬間に史的探究の主体に思いかけず立ち現れる、そのような過去のイメージを確保する」ことが、大げさに言えば、私の課題ということになるのかもしれません。

 引き続いて、鹿島氏がテーゼⅥ~Ⅶの概要を述べているのですが、これも非常に明快です(p.122)。

 先行するテーゼⅥでは「危機」とは、伝統の内実とその受け取り手とが「支配階級」の「道具」になりかねないという危機のことであった。自分の支配の正統性を調達し弁証しようとする者は、多かれ少なかれ〈過去の伝統の継承者〉としての装いをまとう。そのためには、たとえば〈万世一系〉といった伝統の時間的連続性の仮構にとどまらず、伝統の内実を過去の〈偉大な事績〉や〈万邦無比の文化の精華〉などにより充填しようとする。これらは、過去の支配者の事績であり、その体制が生み出した文物であるにほかならない。これを「伝統」として継承しているとする正統性の調達が、現在の支配体制を強化することにつながっている。

 本テーゼ(ブログ筆者注:テーゼⅦ)では、そうした支配体制を補強するものとして、一つには「歴史主義」の歴史叙述、もう一つには「文化財」が批判的に取り上げられてゆく。

 ここから先、ではどのように歴史を語り、支配者に対抗するのか―という文脈から、進歩史観進歩主義的なものの見方に対する批判が出てきます。そのあたりもとても読みごたえがあって面白いです。

 歴史学者が現代に果たしうる意義とは何なのか、改めて考え直すことのできる本です。みなさま、ぜひ読んでみてください。

(棋客)