達而録

ある中国古典研究者が忘れたくないことを書くブログ。毎週火曜日更新。

自分の研究の今後の方向性を考える(1)

 突然だが、最近、自分の研究の今後の方向性をあれこれ考えている。内容的に、相談できる相手もあまり思い浮かばないし、ここに放流しておきたい。

 

 私の博論のテーマは、後漢の鄭玄とその後の経学の展開(義疏など)についてである。色々なことを書いたのだが、大きな軸の一つに、過去の鄭玄研究に対する批判がある。過去の鄭玄研究では、鄭玄の学説や注釈の中に、鄭玄による(特定の政治的な)意図を読み込むという方法がよく用いられてきた。

 ある人の思考や意図を研究するためには、当然ながら、当時の政治的・社会的背景を踏まえる必要がある。しかし、その人の著述の中に、政治的意図が主張されているかということは、場合によるとしか言いようがない(「背景を踏まえて読む」ことと「背景を読み込む」ことは別物である)。そもそも、それが直接に言明されていない場合、そんな意図はないと考えた方がよい。政治的意図というものは、その時代の周囲の人に伝わらなければあまり意味がないわけで、それを千年後の研究者が「発見」したと考えている時点で、何かがおかしい。そういう方法を用いる研究は、「その人物に迫る歴史学的な研究として見た時には」、批判されるべきであると考える。(逆に言えば、そういう歴史学的なアプローチを企図するわけではないのなら、この研究方法が大きな意義を発揮することもある。後述。)

 

 ただ、博論の後、私が今後もこの方向性の研究を進めていきたいかというと、そういうわけでもない。あるいは、鄭玄・義疏の研究を深めていきたいかというと、それにもあまり前向きではないというのが正直なところだ。もちろん、研究できることが無いというわけではない。たとえば、「五經正義」の学説を細かく読み込んで、義疏の学説の系統を整理するという方向性なら、まだまだ研究の余地は残されているし、たまには今後もやってもいいとは思う。ただ、自分の研究の軸にはならないと感じている。

 では何を軸に置きたいかというと、クィアの実践・フェミニズムの実践として、自分の能力を使いたいということに尽きる。研究だけではなく、普段できること・職場でできることなども色々あるわけだが、研究について言えば、中国古典をある程度読解できるという能力を直接的にそのことに活かせれば一番いいと思う。

 むろん、漢文を読むということにこだわらなくても、中国語能力を活かすとか、情報整理能力を活かすとか、研究に活かす方法は色々ある(台湾のフェミニズム - Wikipedia中国の女性史 - Wikipediaを執筆したのもその試みの一つである)。ただ、せっかく長い時間を掛けて、専門的な訓練を積んだのだから、漢文読解と結び付けることができれば一番いいし、自分の納得のいくものが出やすい気がする。

 

 と、ここまでは考えが固まっているのだが、では何をどうすればいいのか、というのが非常に難しい。

 既にある似た研究として思いつくのは、①中国古典(特に儒教経典)の権力性を分析する研究、②中国の歴史上の人物の中に女性やセクシュアル・マイノリティの生の痕跡を見出していく研究、といったところである。

 ただ、①はそれこそ五四運動まで遡るぐらいに研究の蓄積があり、改めて徹底的な批判をすることはできるとしても、もう一歩踏み込んで方法を考えないと「それが軸になる」という感覚は湧かない。②については、資料収集的に整理して示すことは重要であると思うが(一例にスーザン・マン『性からよむ中国史』がある)、色々と注意が必要でもある。このことは、杉浦鈴さんクィアな死者に会いに行く:前近代のジェンダーセクシュアリティを問うための作法」(『療法としての歴史〈知〉:いまを診る』方法論懇話会編, 森話社, 2020)に書かれており、以下に引用する。

過去の時空間、特に近代以前を生きた人の性について分析する場合、自認について書かれた史料は極めて乏しい。そして本人以外によって記録された行動や外見についての記述を分析して導き出されるのは、「その人物が観察者の目にどのように見えたか」のみである。他認と自認を取り違えて、史料を読む者が推測した「時代を越えた他認」を相手に押し付けるのは、身勝手で暴力的なふるまいだろう。……生者と同じ重みを持って死者に向き合うために、相手のクィアなふるまいだけを切り取るのではなく、相手の人生を復元しうる限り復元し、想像せねばならない。(p.173~176)

 もちろん、「相手の人生を復元しうる限り復元し、想像する」ところまでできればよいわけで、そういう人が見つかれば、②の研究をしてもいいかもしれない。ただ、私の専門はかなり古い時代なので、一人に照準を合わせて細かい史実を明らかにするのは難しいことが多い。*1

 

 さて、先に、本来ありえなかった意図を読み込む、いわば陰謀論的な歴史研究を批判した。ただ、その研究方法自体は否定されるべきものではない。雑に言えば、思想的・哲学的な観点から、ある種の普遍性を見出そうとする方向性、つまり積極的に「読み替え」を試みていく古典への向き合い方がある。私の場合は、その読み替えの先にクィアへの応答を見いだせれば、かなりやりたいことに近づく。

 これと類似分野の試みとして「クィア神学」がある。また、近年、「クィア仏教学」の試みもなされている。クィア仏教学の研究を進めている宇治和貴さんの論文には、以下のような優れた問題提起がなされている。

今後の研究課題としては、平等を説いている仏教の教団のなかで、なぜ差別がなくならないかを問題とすることが必要であろう。教義は真実であり、現実は虚仮なので現実の教団のなかに差別があることは仕方のないことだという視点は、本来の親鸞思想からは成立しようのないものであることは先に指摘した。ではなぜ、現実の教団のなかでの差別が存在し続けるのだろうか。別の言い方をすれば、なぜ、現存する仏教教団のなかで「私は仏教者だから、セクシャル・マイノリティであることを一切気にせずにオープンに生きてこられた」というセクシャル・マイノリティ当事者が存在しないのかという問題である。答えは、仏教教団のなかに厳然としたセクシュアリティに関する差別があるから、当事者が名乗り出にくい環境があるということ以外にはない。

宇治 和貴 (KAZUTAKA UJI) - 「クィア仏教学」の構築にむけて - 論文 - researchmap

 ただ、この方向で研究を進めるためには、対象となる文献に対して、私自身が「そこに救いがある」という確信や信念を感じ取れるものでないと難しいと思う。キリスト教にしても仏教にしても、抑圧される立場の人(たとえば性的少数者)の救いをそれらの聖典に見出せる可能性があると、その研究者が考えているか、または実際に見い出しているからこそ、研究を続けることができる。しかし、私はもともとそういう気持ちで中国古典を読み始めたわけではないし、今現在、弱い立場の誰かが、中国古典を読んで救いを得るということがあるのかどうか、正直よく分からない。たとえば、老荘クィア・リーディングとか、可能性は感じるけれども、今の私がやっても表面的な解釈の操作をすることに終始してしまうと思う。

 

 雑にまとめると、いわゆる歴史学的な研究(たとえば『中国ジェンダー史研究入門』で示されているような研究)は、今後もやる人は増えていくと思うのだが、私はそれとは少し異なる角度で、古典解釈の研究の中から(つまり私がこれまで積み重ねてきたことの中から)、上手く結びつけて研究をやっていきたいと考えている。しかし、それがあまり思い浮かんでいないというのが現状である。

 色々悩んだが、ひとまず、近年の研究の異性愛規範・性愛規範の批判や、中国史におけるジェンダー史研究の批判から出発するのがいいのかな、と考えている。そのあたりを言語化して人に伝えないことには、結局自分がどこに違和感を覚えているのか、何と闘いたいのか、といったことも分かってもらえないからである。以前紹介した「クィア考古学」の試み(光本順「クィア考古学の可能性」 - 達而録)なども踏まえながら、色々考えていきたい。

(棋客)

*1:完全に未読で、書評しか読んだことがないのでこんなことを書くのは危険なのだが、合山究『『紅楼夢』――性同一性障碍者ユートピア小説』(汲古書院、2010)は典型的な「観察者の他認を押し付ける研究」になってしまっているのではないかと批判したくなる。対象は架空の人物ではあるが。