前回の続きとして、そもそも(中国)古典を解釈するとはどういうことか、ということについて、橋本秀美『論語―心の鏡』(岩波書店、2009)を見ておく。以下は、王念孫の経書解釈法について論じた一段の、まとめとなる部分である。(p.163-164)
結局、解釈において、言葉の使われ方を論証する方法は、技術であり手段であって、傍証を提供することはできても、最終的根拠とはなり得ない。何故かと言えば、この言葉が他でこういう意味で使われているから、ここでも同じ意味であろう、というのは単なる可能性に過ぎないからだ。蓋然性に高低の差はあり、論証によって蓋然性を高めることはできるが、他の解釈の可能性を否定することは不可能である。「愛してる」という一言が、どれほど多くの異なる思いを含むことがあるか、考えてみよう。相手がどれほど自分を愛しているか、それは自分なりに解釈するしかない。どんな口調で言ったか、どんな表情で言ったか、あるいは日ごろ彼が自分にどういう態度で接しているか、など、判断の参考となる事柄は無数にあるが、それでも絶対確実な解釈というのはあり得ない。言った本人にさえ、本当のことは分かっていないかもしれない。それでも彼の言葉を信じる、という時、それは正に信念であり、賭けでもある。
この言葉を借りれば、私は、次の研究の目標は、自分の信念や賭けとなるような解釈を示したいと考えていると言えそうだ。(もちろんこれまでの継続でやりたいことも色々あるが。)
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色々な事情を考えても、私にはどうしてもこの解釈が正しいとしか考えられないのだとすれば、絶対に正しいという保証はないが、私はそれを信じる以外ない。そして、あらゆる事情を考慮した上で、可能性がどんなに小さいと言われても、自分はその可能性を信じる、という人がいた場合に、他人は彼の判断が誤りだと言う権利を持たない。人間そうやって生きているのだが、古典の解釈というのもまたそんなものである。表面的な指標だけを頼りに、客観的に計算できる蓋然性だけを信じて生きているのは、全くつまらない人間だと思う。古典解釈に客観的で厳密な科学的方法がある、などというのは、同じようにつまらない妄想であるし、王念孫たちの解釈方法をそのようなものとして理解するのは、甚だしい曲解と言わねばならない。
言葉の綾ではあるが、「他人は彼の判断が誤りだと言う権利を持たない」というよりも、誤りだと批判する権利はあるが、その批判によってその人のその判断が無価値なものになるわけではない、というような表現の方が私にはしっくりくる。
また、「表面的な指標だけを頼りに、客観的に計算できる蓋然性だけを信じて生きているのは、全くつまらない人間だと思う」とあるが、「つまらない人間」という言葉は批判としては弱いし、別に「つまらないから駄目」だという話でもない。
問題の所在は、面白いかどうかではなく、「表面的な指標」や「客観的な計算」といった社会の共通認識を作り出すプロセスには、必ず政治的な意思決定が介在しているという点にあると私は思う。その意思決定は、マジョリティや権力者に有利に働くように動くものであり、そこから零れ落ちる人は、それを信じては生きてはいけない。つまり、「表面的な指標だけを頼りに、客観的に計算できる蓋然性だけを信じる」ことでは生きていけない人、そのためにこそ新しい解釈が必要とされていると考えたい。
最後、以下のようにまとめられている。
古典には様々な意味があり、様々な読み方が可能である。古典が直接具体的な内容を主張しているのではなくて、意味は読者がそれを読むことで始めて生まれてくるのである。古典の内容が、私の心の琴線に触れたとき、そこで始めて古典の音が鳴り響く、つまり共鳴だ。(p.165)
古典は、とりわけ『論語』のように表現が簡単な古典は、いろいろな意味で理解される可能性を持っている。しかし、我々は、そのすべてを聞き取ることはできず、自分の心の琴線と共鳴する部分だけを聞くことになる。つまり、同じ『論語』を聞いている筈でも、私に聞こえている音と、あなたに聞こえている音は、同じではない。それは、どちらが正しい音なのかという問題ではなく、私の琴線とあなたの琴線が違っているという問題なのである。(p.166)
そこで、私自身、自分の琴線に響き、共鳴するようなものって中国古典の中で見つけたことがあるかな、と思い返してみると、批判という形で共鳴することばかりであるように感じられる。
そこで、次に、中国古典を批判することの意味について書いてある中島隆博『悪の哲学 ─中国哲学の想像力』(筑摩書房、2012)の末尾の文章を読んでみる。(p.203)
なぜ中国哲学なのか。一つには、それが歴史的な存在であるわたしたちを深く貫いているからである。ただし、それは中国哲学を繙けばすぐさまオルタナティブを見いだすことができるというわけではない。そのような主張は往々にして、中国哲学の複雑さを見過ごしてるし、中国の哲学的営為に対する尊厳を欠いている。中国哲学が重要なのは、それが批判可能な言説であるという一点である。それは完成された体系でもなければ、政治的・倫理的・道徳的にそのまま許容できる言説であるわけでもない。そうではなく、それはわたしたちが批判という営みを起こすことによって、限界にまで至ろうとするわたしたちの思考の苦闘と喜びを誘発してくれる言説なのである。中国哲学を尊敬するとは、それをその複雑な可能性において読解し直すという批判の営為をわたしたちが引き受けるそのことにおいてしかない。
ここには、批判という共鳴の仕方が描かれていると思う。中国古典が直接オルタナティブを見い出す対象にはならないという話はよく分かる(そんなものはどんな文献にも期待してはいけないだろうが)。
実際、私としては、批判的にとらえたい中国古典の言葉は山ほどある。ただ、そこから思考の可能性を引き出すことにどうすれば繋がっていくのか、あまりピンときていない。中島先生のこの本も、中国古典における悪を、大震災と原発事故をきっかけに考えていくというもので、色々と教えられるところはあったのだが、果たして実際に苦しむ人に何か考え方を提供できたと言えるのか、よく分からない。結局、インテリが本の題材にしたという段階に留まってはいないか。何となくしっくりこないところがあったのが正直なところである。
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もう一つの理由は、先ほどの理由とは逆に見えるものだが、わたしたちは中国哲学をすっかり忘却しているからである。もはや思い出そうと思っても思い出すことのできない過去にそれは属している。その忘却の淵から中国哲学を救い出すことによって、わたしたちは別の時間性に触れ、わたしたちの存在の歴史性を掻き乱し、そして未聞の未来を切り開こうというのである。要するに、中国哲学を通じて思考することは、批判と時間を手に入れて思考することである。
「批判と時間を手に入れて思考する」というのは、とてもいい言葉だと思う。中国古典にその可能性があることは確かだろう。
(棋客)