前回の続き。江原由美子「『差別の論理』とその批判―『差異』は『差別』の根拠ではない」(『増補 女性解放という思想』ちくま学芸文庫、2021)、今回はp.137-153を読んでいく。
〈差別の論理の不当性〉
以上をまとめると、「反差別言説の困難さ」は、「差別が被差別者にしかけられた問題ということを理解せず、「差別の論理」が設定する問題の枠組みにそのまま乗ってしまい、その問いの内部で立ち往生してしまう」ことにある。つまり、差別の論理が立てた「問い」をそのままに、「答え」の不当性にばかり議論を持って行ってしまうのである。
差別の論理は、あたかも「差別問題を解く鍵」が「差異をめぐる認識の是非」にあるように問題をしくむ。その結果、被差別者は反差別の主張のため、特定の差別者-被差別者の差異の認識を否定しようとし、「差別者の誤った認識」を「差別者が持つ特定の利益や意図」につなげて説明することに追い込まれる。
しかし、この議論も上手くはいかない。その理由は以下にある。
- 差別の本質は「差異」や「差異の評価」ではない。
- 差異やその評価は、その内容が差別者にとって利益をもたらすように不当に歪曲されていることが問題なのではなく、それがあたかも「差別問題を解く鍵」であるかのように仕組まれることが問題である。
- 差別の不当性を論証できなくさせているのは、差別者が「現実的な利益」を正当化しようとしているからではなく、「差別の論理」の仕組みによるものである。
〈排除行為としての差別〉
差別とは、本質的に「排除」行為である。差別意識とは単なる偏見ではなく、排除行為に結びついた偏見である。排除とは、そもそも当該社会の「正常な」成員として認識しないということを意味する。
そのため、差別は差別者の側に罪悪感を抱かせない。なぜなら、われわれが他者に対して罪悪感を抱くのは、他者を正当な他者として認識したときだけである。
つまり、排除するために必要な他者の認知は、最小で良いのである。「排除すべきカテゴリーに属するか否か」を知れれば良く、それ以上知る必要は無い。被差別者は特定の指標でもって簡単に排除され、それ以上の認知は行われない。
このことからも、差別が実在的な「差異」やその評価づけゆえに生じると考えることが誤りであると分かる。「現実に被差別者がいかなる特性を持つのか」「それが差別者といかなる差異があるのか」といったことを、差別者は考えようとしない。実際、過去の様々な差別において「差異」とされるものは、時代によって変化し、その社会において「正当」とされる価値観に依拠する。(例:ジプシーに対する差別は、中世社会においては「宗教的差異」が根拠で、今日は「住民登録の有無」が根拠であるとされる。)
〈差異の定式化こそ「差別の論理」の装置である〉
つまり、「差異の定式化」は、差別という現象を説明し、論理化する「差別の論理」の装置に過ぎない。(例:「女性は男と同じであるか、違うか」という問いの二者択一をせまる。これはどちらを答えても不利益が予想され、本質的に不当な問いである。)
実際のところ、誰もが知っているように、社会の中には実に多様な人々が存在する。当然、各々に固有の状況がある。なぜ、差別者と被差別者の間の「差異」だけが、カテゴリーとして取り上げられる必要があるのだろうか?
ここからも、差別があたかも「実在の差異」にもとづくものであるかのように論理化されていることが分かる。実在の差異がある場合もあるかもしれないが、差別はそれゆえに生じているのではなく、単にそう見えるだけである。
たとえば、障害者差別・性差別においては、一見すると能力や身体的条件の差異によって差別されているように見えるが、実際はそうではない。仮に「能力・身体的条件」それ自体が差別の根拠なら、「障害者」や「女性」を排除する論理はそもそも必要とされないはずだ(能力・身体的条件だけを取り上げれば良いから)。実際は逆で、能力・身体的条件の測定は非常に困難で明示的ではないのに対し、「性別」や「障害の有無」は明示化させられるとされ、それが能力・身体的条件の指標とされる、という順序で差別が生じている。結局のところ、女性や障害者は、女性であるゆえ、障害者であるゆえに差別されているのである。
言い換えれば、「女性は女性の固有性や特殊性によって差別されているのではない」ということになる。それらはそもそも差別者の考慮の外にある。差別においては、女性は単に「男ではない」標識を持つ者として意識されており、女性は能力や適性をそれ自体として認識されるべき位置にいない。そのことこそが差別である。
〈差別の論理のまとめ〉
AがAバー(=Aではないもの)を排除する(理由は「Aではない」から:同義反復)。Aバーが「B」という属性を持ち、AはBを持たない(ノットB)ことが主張され、それこそが「排除化の根拠」であるように意識される。
女性が男性から排除されるのは、「女性が男性ではないから」というだけである。しかし、あたかもその根拠は女性に帰属される属性(B)のせいである、というように仕組まれる。「ノットAはAではないから差別される」だと、トートロジーで不当性が明白になってしまうため、「ノットAはBである」という等式を持ち出し、差別の実在的根拠として提示する。
つまり、差別者-被差別者を、被差別者の有徴性と差別者の無徴性として描き出すのが差別である。
差別者の側には、被差別者に対する攻撃や悪意など全くない場合がほとんどで、被差別者からの告発に対しては「いわれのない非難を被った」としか思わない。立証できない告発は告発者の方が非難される。
差別の不当性は、こうした非対称的なカテゴリー使用自体にある。問題設定自体の不当性、非対称性を明確にしていくしかない。それなしに差別の解明はない。差別という現象の、意識的・言及的水準での把握、その問題設定自体の非対称性・不当性を明らかにする必要がある。
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(私のコメント)
本論文で具体例として挙げられるのは、女性差別・障害者差別が主で、他にジプシー差別が少し触れられる。最後に、この「差別の論理」に他の差別の構造を当てはめながら、より考察を深めたい。(下の整理はかなり雑だし、各例についても致命的なとらえ方の誤りがあるかもしれないことは断っておく。)
a.在日朝鮮人差別
- 日本人(A)が在日朝鮮人(Aバー)を排除する。
- この際、その人が本当に在日朝鮮人かどうか、実際どんな人か、などを詳しく知ろうとはしない。=外在的な標識で差別される。認知は最小で良い。
- 排除の理由は「日本人ではないから」=同義反復
- 在日朝鮮人に別の属性(B)が勝手に結びつけられる。日本人はBバー(Bがないもの)とされる。=差異の定式化
- 例「税金を払ってない」:実際には所得税も消費税も保険料も国籍がなんであれ払っている。(また、そもそも払えなかったとしても必ずしもその人に責任があるとは言えない。)
- Bを理由にAバーの排除(不平等な待遇)が正当化される。
- しかし、Bが不平等な待遇の根拠なのであれば、そもそもAバーを持ち出して排除する必要はないはずである。
- 税金を払ってない人は、国籍がなんであれ、いずれ然るべき機関が取り立てるのであって、「在日朝鮮人」という属性を持ち出して不平等な待遇を強いる必要はない。
- こうした差別に対する議論をしようとすると、定式化された差異だけが取り上げられ、個々人の固有の状況は閑却される。
- 結局、在日朝鮮人は在日朝鮮人であるがゆえに差別されており、不平等な待遇の正当性などない。
b.トランスジェンダー差別
- シスジェンダー(A)がトランスジェンダー(Aバー)を排除する。
- この際、その人が本当にトランスジェンダーかどうか、実際どんな人か、などを詳しく知ろうとはしない。=外在的な標識(戸籍・体型・服装など)で差別される。認知は最小で良い。
- 排除の理由は「シスジェンダーではないから」=同義反復で納得されない
- トランスジェンダーに別の属性(B)が勝手に結びつけられる。シスジェンダーはBバーとされる。=差異の定式化
- Bを理由にAバーの排除(不平等な待遇)が正当化される。
- 例:男女分けスペースから排除される
- しかし、Bが不平等な待遇の根拠なのであれば、Aバーを持ち出して排除する必要はない。
- 以上の差別に対する議論をしようとすると、定式化された差異だけが取り上げられ、個々人の固有の状況は閑却される。
- 結局、トランスジェンダーはトランスジェンダーであるがゆえに差別されており、不平等な待遇の正当性などない。
こうしてみると、本論文にもいくつか気になることがあると分かる。あまりまとまっていないので、以下にメモ形式で列挙しておく。
- 差別において、被差別者「Aバー」は必ずしもAの補集合(Aでないものすべて)ではないが、差別される理由は「Aではないから(Aバー)」である。よって、差別される理由を「Aバー」というのは良いが、被差別者を「Aバー」と表現するのは誤解を招くかもしれない。
- 被差別属性「Aバー」が、「Aではないという認知をされる」という仕組み(つまりAとAバーの境界線を引くシステム)自体が、マジョリティや権力者、または差別者によって作られたものであるという指摘が本論文ではあまりなされていない。
- とはいえ、ここに深入りすると「差別の論理」自体の差別性を指摘する方向に向かいにくくなりそうなので(差異の有無の議論に回収されかねないため)、本論文の趣旨に反してしまうのかもしれない。
- 女性差別に反対する時に、「差異」をめぐる議論にはめられたまま、「差別の論理」の枠組みを抜け出せなかったから、レズビアン差別やトランスジェンダー差別をはじめとするセクマイ差別に抗うことができなくなったという捉え方ができそう。
- 本論文は1985年のもので、ここでは被差別者が差別の論理に「はめられた」ことが強調されるが、いま読むに当たっては、それ自体が差別として展開しうることも合わせて考えたいところではある。
(棋客)