ジュディス・バトラー『分かれ道 ―ユダヤ性とシオニズム批判―』(大橋洋一・岸まどか訳、青土社、2019)を少しずつ読み進めている。まだ半分も読み終えていないのだが、ひとまず「はじめに」の内容をもとに、簡単なメモを残しておく。
〇本書の主眼
本書の狙いは、「イスラエル国家への批判」と「反ユダヤ主義」が異なることを証明することにあり、これによって以下のことが可能になる。
以上は、当たり前のことであるはずだが、近年の論調では、「イスラエルの占領政策に対する批判」=「反ユダヤ主義」という烙印を押される。つまり、社会正義を求めるユダヤ人の闘争は、反ユダヤ的であるとされてしまう。バトラーはこの言説の状況に対して、本書を著した。バトラーの狙いは、ユダヤ的思想やユダヤの言説の中から、シオニズム批判を見い出していくことで、イスラエル批判が反ユダヤ主義ではないということを示すことにある。
ユダヤ性としてイスラエル批判をするという試みは、フェミニズムとしてフェミニズム批判を行った『ジェンダー・トラブル』と重なるところがある。色々なとらえ方ができると思うが、私はこの試みに、批判対象を外部化・異物化せず、徹底して自分のものとして引き受けながら論じていくバトラーの姿勢を見て取る。
〇この狙いが、ユダヤ性の「例外」を指摘するものではないということ
ここから議論をするにあたって、注意すべき点は以下である。
- 反シオニズムのための論理や言説を、「ユダヤ性にある例外的な倫理的資源」「シオニズム批判もユダヤ的なもの」としてはならない。
- つまり、平等・正義の諸原則は、さまざまな特定の文化・歴史資源から導出されたものではあるのだが、その一方で、そのどれにも「所属」していないものである。
そこでバトラーは、①ユダヤ性に対するシオニズムの覇権的支配に、異議申し立てをすること、②同時に、シオニズムの暗示するもの=植民地主義的抑圧支配に反対すること、の二つが求められているとする。
ここから、平等・正義・共生・国家暴力批判は、これらが「排他的にユダヤ的価値観でなければ」、そのときに限り、ユダヤ的価値観であり続ける。これらの価値観を明確化することは、ユダヤ的枠組みの一義性・排他性を否認し、それ自体の「離散」に耐える。むしろ、この「離散」(地理的状況だけではない、倫理的様態としての離散)こそ、正義を考える条件である。
ユダヤ的アイデンティティの特徴とは、「それが他者性によって妨害されること」にあるのではないか。これは、「異教徒との関係が離散(ディアスポラ)を規定する」こと、そしてその根源的な倫理的関係を規定するということ。他者性との関係が、「ユダヤ人であること」の述語となっている。この関係性には、「主体」の統一的性格・自己同一性・単一性を「妨害する」ことが賭けられている。主体を世界の中心から引きはがすようなことが、主体に起こる。
この「離散」への議論が、本書の大きなテーマになっていくと思うが、まだ内容はしっかり読めていないので、まだ全貌は分かっていない。
〇リベラルの立場
リベラルの中には、イスラエルがユダヤ人国家であると論じ、国家は世俗的なものでなければならないというリベラルな根本原理に対する例外として、イスラエルは機能すべき、またはユダヤ人のためだけのリベラルな民主制として擁護すべきと論じる者がいる(その根拠は、ユダヤ人はナチスによるジェノサイドという例外的な状況に遭ったから)。しかし、そもそも「ユダヤ人のためだけのリベラルな民主制」というのがパラドクスである。(なお、イスラエル国内では、国境内のユダヤ人には絶大な特権を付与するが、パレスチナ人に対しては、収奪した土地の帰還権を認めていない。)
左翼シオニストは、イスラエルにおける「宗教右翼」の台頭を嘆くが、そもそもユダヤ国家という文脈において、「世俗的」とは何か?
ここでアーレントは、「ユダヤ性」とは文化的・歴史的・政治的カテゴリーであるといい、このカテゴリーが、宗教的実践に参加しているかもしれないし、していないかもしれない、と述べる。
アメリカでは、「あなたはシオニストか?」という問いが、「あなたはイスラエルが存在する権利を信じるか?」という問いと同じ意味で使われる。しかし、バトラーは、よりよい問いかけとして以下を提示する。
近年にはユダヤ人とパレスチナ系イスラエル人、ならびに占領下で暮らすパレスチナ人が居住地としている土地に対して、また進行中の入植プロジェクトの一部であるところのシステマティックで反復的なパターンの土地収奪を通して、自らの土地を奪われた何十万というパレスチナ人がもはや住むところのない土地に対して、いかなる形態の政体が正当的なものとみなされるべきだろうか?(p.41)
この問いに対しても、バトラーはサイードやアーレントを引用しながら議論を深めていく。
〇アーレントのジェノサイド論
アーレントが正しかったことは、アイヒマンが、地上で誰と共生するかを選択できると考えていたことを論じた点にある。アーレントにとって、ジェノサイドが許容できない理由とは、「私たちは実際のところ地上で誰と共生するか選べない」ということにある。
現実に、多種多様な人々が、すでに私たち以前に暮らしている。地上を自らのものと権利主張できる人々は存在しない。そのような権利主張をすることは、ジェノサイド政策に加担することである。(=「国民国家」や、その前提となる「等質的国民」への批判の基盤となる。)
必然的に異種が入り交じる人口のために、平等の様式を確立するような政策によって、地上に共生する責務がある。ここから、入植型植民地主義が不当であること、パレスチナ人の継続的な財産没収・共生移送も不当であることが分かる。
つまり、ホロコーストから学ぶべきことは、「イスラエルがユダヤ人にとって歴史的・倫理的に必然になった」ことではない。「国民国家が自己確立を図る際に、「純粋な国民」の理念に合致しない住民から権利剥奪をするようなことはしてはならない」ことを学ばなければならない。
ここからは、「〇〇人の民主主義国家」みたいな概念が、そもそも他者への暴力から成り立つことを端的に理解することができる。日本において、在日朝鮮人を含めた外国人に(永住権を持っていたとしても)選挙権が与えられないことは、その例として分かりやすいだろう。
〇バトラーの個人史
本書でバトラーは、詳細な個人史については語らないものの、ナチス体制下での家族の喪失が、バトラーのジェンダーについての考察に影響を与えたということが仄めかされている(p.43-44)。
この点について、岸まどか「訳者解説」(p.457-481)では、バトラーへのインタビューをもとに、以下のようなことが紹介されている。
- バトラーは、シオニズムと固く結ばれた場所で育った。
- 母方の家族の多くがハンガリーで殺害された。
- シオニスト色の濃い場所で育ち、ユダヤ思想に深く根ざした教育を受けた。
- 二十歳の頃、「イスラエルの現状は南アフリカのアパルトヘイトと大差ない」という友達に対し、その言葉を必死に否定しようと議論した。
- サイードの著作を持ち帰った日、母が激高しテーブルをひっくり返した。
- シオニズムとのつながりから自分を引き剥がしたとき、魂を引き裂くような、自分がバラバラになるような感覚を覚えた。
そして岸さんが紹介している、バトラーの『自分自身を説明すること』では、以下のように述べられているという。
- 人は、常に自らの外に存在する社会的規範・権力の「呼びかけ」や名付けによって、認識可能な主体として創り出される。
- 自分について説明しようとすると、人は、自分を形成している規範との関係を語る以外の言葉を持たない。
- しかし、これは、私たちの存在が規範によって完全に規定されることを意味しない。
- むしろ、他者の苦痛を前にして、それに応答を迫られた私たちが自分自身の責任=説明を与えようとするとき、私たちは「自分を否応なく育むもの」としての規範や権力について、批評的距離をもって検討せざるを得なくなる。
- それは私という主体を形成する規範を、そしてそれによって形成された自らを、批判し、時には解体する行為である。
- そしてその批評行為の中で、私たちは熟慮する主体としての自己を再創造する。
この説明は、そのままバトラーが本書『分かれ道 ―ユダヤ性とシオニズム批判―』を著したことと繋がってくる。つまり、バトラーは本書の執筆によって、自己をばらばらに解体しつつ、熟慮する主体としての自己を再創造したと言える。
また、バトラー自身も仄めかしているが、こうした思想の経路をたどったバトラーの「とり乱し」や「トラブル」は、やはり『ジェンダー・トラブル』に通底すると考えるべきだと思う。以前、このことについて少し言及したので(藤高和輝『バトラー入門』についての(熱を込めた)感想 - 達而録)、参考までに付け加えておく。
(棋客)