最近、工藤万里江『クィア神学の挑戦―クィア、フェミニズム、キリスト教』(新教出版社、2022)を読んでいて、自分の研究と絡めて考えたことがあるので、少しだけメモしておく。まず、第一章「クィア神学の歴史と課題」の第三節「クィア神学とフェミニスト神学」の内容をまとめる。
クィア・フェミニズムがキリスト教にどのような立場で臨んできたかについては、いくつかの類型がある。たとえば、クィア・フェミニズムの視点からキリスト教に取り組み、キリスト教から離脱した思想家がいる。一方で、フェミニズム・クィアの視点からキリスト教の研究に取り組む人もいる。そして、後者の研究者の姿勢には、大きく二つの類型がある。
- 聖書解釈・教義を含む既存のキリスト教が、いかに男性中心主義に染まっていようが、キリスト教の本質はフェミニズム・クィアの視点と一致するという立場。ここから、より「本質」に近い(よりよく解放的な)聖書や教義の再解釈を試みることになる(本質を求める先が、イエスなのか、初期キリスト教共同体なのか、聖書なのか、には相違がある)。その方法は以下の二つの傾向に分かれる。
- これに対して、本質を前提としたり追求するのではなく、「キリスト教」「キリスト教信仰」といったものを脱構築していく立場。
自分がやりたいことから考えると、クィア神学における「キリスト教」のところに、儒教・道教、また広く中国思想を代入するとどうなるか、ということを試してみることになる。
まず①の方向性が(直接的な意味で)有効なのは、いまもキリスト教の信者が数多くいて、教会コミュニティもたくさんあり、政治・社会にさまざまな影響を与えているというのはあると思う。「聖書にこう書いてある」と言って差別的な思想を押し付けてくる場合に、直接的な意味で反論できるし、救いになる。(たとえば、「ガザ侵攻はユダヤ教の教えに則っている」という言説に対し、「そもそもユダヤ教にそんな教えはない」という反論を用意するのと似た方向性だと思う。)こうした方法は、聖書解釈が社会的・政治的にいかに影響を受けてきたかということを示すためにも重要だと思う。
また、以前にも似たことを書いたけれど、①の方向を志す場合、当然の前提として、「キリスト教には(クィアな)救いがある」という確信(信仰)をある程度持っていることは必要になると思う。別に全幅の信仰心である必要は無くて、疑わしい気持ちはあってその中で苦闘するのは当然なのだけど、とはいえ、そのことを全く信じられないのなら、①の方法は採れないと思う。
ひとまず、このことを儒教で考えてみる。たとえば『論語』を読めば、良くも悪くも現代まで生きている価値観が出てくるわけで、儒教的なものの考え方が現代の日本の影響を与えていることは確かではある。その意味で、儒教の「本質」を考えることにも意味があるだろう。ただ、儒教には教団という形があるわけではなくて、「私は儒教の信者だ」という自認がある人もそうそういないと思われる(そもそも儒教は宗教なのかという問いはひとまず措いておく)。もはや現代日本だと「儒教的」という言葉と「家父長的」という言葉は、ほぼ同義的に使われているようにも感じる。
また、そもそも、一般的な理解から言えば、儒教は「誰かが救いを求めて始めた思想・宗教」ではない(キリスト教とは違って)。マイノリティの救いがそこにあるという確信を得ることはかなり難しい。
というように考えていくと、「儒教の本質は実は~~だ」という方向の議論を試みるのは、(今の私がやる場合には)あまりセンスが無いんじゃないかなという気がする。むろん、過去に中国古典の再解釈の試みは常に行われてきたわけで、康有為が『論語』を大同思想の立場から再解釈したように、無理矢理に読めば、いくらでも可能性は開かれている。伝統的・権威的な解釈とされる鄭玄や朱子だって古典のめちゃめちゃな読み替えをしているわけで、クィアな再解釈を試みるのは自由だし、いくらでもやっていい。でもその仕事に確信を持って取り組むことはできないというのが私の今の感覚である。
すると、②の方向性だとどうなるのか、ということが気になってくる。たとえば、「儒教を固定された思想としてとらえず、絶えざる再解釈や実践のプロセスとして、パフォーマティブ(行為遂行的)なものとして捉える」というところは、中国古典解釈史をやっている自分の研究と重なるところがある。ただ、その次の問い、つまり「それをいかに実践していくか」をどう考えればよいのか、まだ見えていない。
上のまとめだけでは詳しいところは分からないが、工藤さんの本では、②については第四章「下品な神学――マルセラ・アルトハウス=リード」に詳しく内容が書かれているので、ひとまずここからその手法を学んでみたいと思う。次回は、第四章の内容から考えてみることにしたい。
(過去記事)
- 自分の研究の今後の方向性を考える(1) - 達而録
- 自分の研究の今後の方向性を考える(2)―橋本秀美・中島隆博 - 達而録
- 自分の研究の今後の方向性を考える(3):橋本秀美『論語―心の鏡』から - 達而録
- 自分の研究の今後の方向性を考える(4):川合康三 - 達而録
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