前回に引き続き、工藤万里江『クィア神学の挑戦』を読んで、自分の研究に引き付けられるところがあるか考えていく。今回は、第四章「下品な神学――マルセラ・アルトハウス=リード」をまとめてみる。
アルトハウス=リードがいう「下品な神学」とは何か。その問題意識は以下にまとめられる。
ここから、「下品な神学」は、解放の神学・フェミニスト神学、全体主義的神学への批判、クィア神学の三つの方向性を持つことになる。以下、それぞれについて詳しく説明する。
①解放の神学・フェミニスト神学
アルトハウス=リードの問題意識は、もともとアルゼンチンにおいて、教会と独裁政権の対決の中で、大きなリスクをともなうものとしてフェミニスト神学が樹立されたのに、それが中央に取り込まれ、北大西洋の神学マーケットで商業主義化したことにある。ここから、再び波風を立てるリスクを冒すべきと説き、「下品な神学」を提唱する。
「下品な神学」では、性的にあからさまな表現や、ジェンダー・セクシュアリティを過剰に見せる演出を用いて、「適切なセクシュアリティ」を規定する規範に対して格闘する。過去のフェミニスト神学で、男性中心主義は批判されてきたものの、性的規範に対しては不問に付されてきたことをアルトハウス=リードは批判する。
②全体主義的神学への批判
アルトハウス=リードは「一つの、唯一の神学」という見方(=帝国主義的・覇権主義的なイデオロギー)を批判する。
このイデオロギーのもとでは、人々の政治的、性的な営みや、人と人との関係性は、「一貫性のあるもの」として分類され、ここからはみ出すものは排除される。そして「聖書から何を見いだすか」(聖書解釈)もこのイデオロギーのもとであらかじめ決められてしまう。
これによって人々の営みは固定化され、抽象化される(=個別の複雑な生の状況に目が向けられなくなる)。現実にある、流動的で、逸脱的で、ぐちゃぐちゃな生の中にしかないものが、ないものとされてしまう。
ここから、「クィア」とは、奇妙さのことではなく、そうして否定されてきた現実そのもののことで、奇妙とされてきた本物の生活と経験を取り戻すプロセスである、と位置付けられる。
③クィア神学
アルトハウス=リードは、あけすけな性的描写から異性愛主義の脱中心主義を試みる。そのためには、神学的考察が、異性愛かつ正典的な法との苦闘の中にあることを知らなければならない。まず、法は、モノ・ラビング的で、一夫一妻・一神論・君主制を下支えし、これ以外に生きる術がないかのように規定する。この神学・異性愛イデオロギーの結びつきを、公の領域に出すことが重要である。
次に、身体性に依拠することを重視する必要がある。アルトハウス=リードによれば、神学者は、何よりもまず、自分自身の性的文脈に正直に神学をしなければならない(それは特に、自分のセクシュアリティを「存在しないもの」として振る舞える異性愛者こそ求められる。)
そして、アルトハウス=リードは、「下品な神学=クィアな神学」が、「一人称の神学」であると指摘する。一人称の神学とは、ディアスポラ的な、自己開示的な、自伝的な神学である。アルトハウス=リードは、「クィアである」と名乗るとき、自分が緊張の中にあり、これは一人で孤独に「自分の言葉に責任を取る」(自分の言説の責任を持つ)ことを意味する。しかしこれは、同時に、ある特定の闘いの中にあるコミュニティとともに主体化されることも意味する。
ここでいう「コミュニティ」とは、アイデンティティ・人種などの同質性を持ったものではなく、「見知らぬ者同士のコミュニティ」である。このコミュニティは、教会のドグマ・政治の土台にある、性の含意の複雑性を暴こうという目論見において、「強い疑いの解釈学」を用いることでつながる人々である。
以上から、アルトハウス=リードは、個人主義的な救いや、絶対的な不動のメシアを追い求めるのではなく、「対話的メシアニズム」を唱える。ここで、キリストは対話の中で絶えることなく語り直され、メシアは「進行中のメシア」として現れる。ここで現れるメシアは、個人的なものではなく、共同体的なものとなる。
ここから、もう少し具体的に、アルトハウス=リードの聖書読解の話に入っていく。一つ例を挙げておくと、「イエスが、生理で血を流す人の血を止めた」話に対して、女性たちが聖書を読んで語り合う場で出てきた解釈が紹介される。ここでは、イエスは血を止めるだけでは十分ではなく(=身体的苦痛の緩和だけではなく)、生理に付された宗教的・社会的規範に挑戦しなければならなかったという。アルトハウス=リードらは、イエスが、当時不浄とされていた女性に触れたことはラディカルであったとしながらも、宗教的規範で「不浄」とされるものをイエスが「止める」だけでは、その規範をイエスが受け入れたことを意味してしまうのではないかと述べ、イエスの行動に対する批判を共同体での語り合いの中から出てきた解釈として提示する。
このように、アルトハウス=リードはイエスの批判をすることを憚らない。また、キリスト教以外への神々への信仰を告白することもある。ここから、リードはそもそもキリスト教の信仰者と言えるのかという疑問も湧くが、キリスト教を外部化せず、信仰者として引き受けながら内部批判を試みていくことに意味を見出している。(これはフェミニズム内部の立場としてフェミニズムを批判したバトラーと似たところがあると思う。)
さて、長くなったが、ここから、自分のフィールドに接続して考えてみたい。
仮に『論語』解釈で考えるとするなら、そもそも孔子はいわゆる「奇跡」を起こす存在ではなく、その意味での「救済」を求められる存在でもないので、やはり文脈は大きく異なるところがある。ただ、『論語』の解釈に当たって、無条件に前提とされている規範があったのは同じで、それを分析することはできる。また、過去に試みられてきた孔子批判・儒教批判の中に、さらに隠された規範化が潜んでいるということも指摘できるとは思う。
また、語り合いの中で生まれる解釈を重要視するところにも着目したい。読書会の試みは、特に私の分野では古くから続けられていて、その重要性は何度も語られてきた(たとえば専門が違う人に新たな知識を教えてもらうとか)。ただ、あくまで文献の精読、特に筆者の意図を掴むことに目標が定められることが多くて、どうしてもそこに縛られることが多いというのはあるかもしれない。上の試みと接続するなら、生活と密着して、自分の体験から語っていくような読書会の場が必要になる。文献の精読と、そこから発見された日常や政治との接続を大事にしていくような読書会のあり方を探っていきたい。
結局は、規範への問い直しにつながるような、エキサイティングな気付きを『論語』(別に『論語』じゃなくてもいいが)や『論語』の過去の解釈から得られるかというところが課題になってくる。以前、橋本説の精読をした時には、そこそこいい批判ができたと思う。ひとまず、他の『論語』解釈者の説を批判していくことを試みてみて、そこから道筋を見い出していく方向で考えてみたいと思った。
(過去記事)
- 自分の研究の今後の方向性を考える(1) - 達而録
- 自分の研究の今後の方向性を考える(2)―橋本秀美・中島隆博 - 達而録
- 自分の研究の今後の方向性を考える(3):橋本秀美『論語―心の鏡』から - 達而録
- 自分の研究の今後の方向性を考える(4):川合康三 - 達而録
- 自分の研究の今後の方向性を考える(5):工藤万里江『クィア神学の挑戦』から - 達而録
(棋客)