達而録

ある中国古典研究者が忘れたくないことを書くブログ。毎週火曜日更新。

文学部の修士課程~博士課程の7年間を振り返る(研究編)

 前回、研究するための環境面について振り返りを書きました。今回は、研究内容について、どの時期にどういうことをやっていたか書いていきます。なんとなくアドバイスっぽいことも書いていきます。専門的な内容になりますが、中国古典分野の研究をしたい人なら、参考になるかもしれません。

 一回生の頃は、第二外国語で中国語を取っていましたが、特に漢文の勉強をしたことはありませんでした。二回生の時、中国哲学史・東洋史の講義・講読に出て、漢文を読み始めることになりました。詳しい動機は覚えていませんが、漢文を読んでみると何だか楽しかったので、自然と続けることになりました。

 将来専門に研究することを考えるのなら、学部生の内に漢文に慣れ親しんでおくことは重要でしょう。特に、①中国語で音読すること、②辞書に詳しくなること、③出典を一通り調べられるようになること、を意識すると良いと思います。もちろん、中国語の学習も早いに越したことはないです。

 とは言いつつ、特に日本語話者の場合、漢字に慣れている分、漢文を学ぶのがもともと「有利」な側面はあります。いつになってからでも、勉強したくなったらぜひ飛び込んでみてくださいね。

卒業論文

 卒論は、後漢に書かれた独特な書物である王充『論衡』について書きました。特に王充が司馬遷史記』をどう読んだか、また司馬遷をどうとらえたか、をテーマに論じました。この時の査読でもらった言葉は、ポジティブなものもネガティブなものも、どちらも今でもとても励みになっています。

 確か、王充に出会う前は、中華の異民族政策をテーマにしたいと考えていました。たぶん、ナショナリズムへの疑問からこういう興味が湧いていたのだと思います。王充は王充で、儒教的な価値観への反発が見られる人とされることがあり(実際にそう言えるかは別問題ですが)、20世紀の唯物主義の流れの中で高評価を受けた人でもあります。なんとなく、反権力的な匂いのするところに引き寄せられていたんでしょうね。

 さて、一般論として、卒論では、先行研究を踏まえているかどうかよりも、①自分なりの明確な「問い」を立てて、②その解決のための「方法」を示し、③それを実践して「結論」を出す、という論文の基本をしっかり意識すると良いと思います。

修士論文

 博士まで進みたいとぼんやり考えており、修士の段階から、到底ネタ切れにはなりそうにもない、大きなものをテーマにしたいと考えました。そこで、伝統的な学問の中でいわゆる「正統」とされてきたど真ん中をやろうと思い、『五経正義』をやることにしました。『論衡』は面白い書物なのですが、きちんとした版本がないということもあり、博論でやるのは心もとないような気がしていました*1

 とにかく原典を読もうということで、『五経正義』を丁寧に読み、少しでも疑問に感じた点をカードにまとめてメモしていきました。修士論文に限らず、博士に入ってから発表した論文も、この頃に書き溜めておいたメモからできたものがほとんどです。

 修士論文の研究では、先行研究をきちんと踏まえていること、整理していることが求められてきます。おすすめは、「信頼できる文献をざっと見渡して、内容を整理し、現在の課題の急所を掴む」作業を、専門以外の分野でもある程度できるように練習することです。たとえば、「現在のパレスチナ情勢に至る経緯について」、「フェミニズムセックスワーク」など、さまざまなテーマでやってみましょう。(私の場合はWikipedia執筆で自然とこの方法を学ぶことになりました。)

 さて、修士論文自体については、今思えば、『五経正義』を全部やるという心構えではなく、『五経正義』の中から部分的に面白いと感じるところを深めていって、そこから論文につなげていく方が良かったと思います。ただ、この時は『五経正義』全体をテーマにすることにこだわっていたので、全体を論じられるようなテーマとして、『五経正義』の「編纂」に焦点を当てることになりました。結果として、博論の一部には組み込めたのですが、博論の「核」と言えるものにはならなかったので、博論の構想はまた別で立てる必要が出てきました。

 修士論文の時には、博士に進むということで、少し肩の力が入って、「大きいテーマの結論を出そう」みたいな感覚があったんだと思います。そうではなくて、漢文を読解することから出てきた素直な疑問から、研究を深めていくような方向性を意識すると良かったように思います。

博士論文

 そういうわけで、修士論文はやりたいことをできたというわけではなかったので、とにかく自分が考えたことをしっかり書き切れるような博論にしたいと考えました。もともとは『五経正義』や義疏だけで博論にするつもりでしたが、全体の骨格を考えると、後漢の鄭玄から始めると全体の筋を通すことができそうでした(このあたりは指導教員とよく話し合いました)。そこで、まず正面から鄭玄から取り組みつつ、個別のトピックで面白そうなものを南北朝経学から探していき、全体でつなげていく、という感じで研究を進めました。後者については修士の時の蓄積で目星がついていたのが大きかったです。

 鄭玄となると経学の代表選手ですから、先行研究も膨大にあります。卒論の査読で、文章の分かりやすさ、情報整理の上手さを評価されたので、むしろ先行研究がややこしく、込み入っているぐらいの方が強みを活かせるかもしれないとも思いました。

 先行研究の整理・批判の際に注意するべきことは、その研究の方法論や、無意識下で研究の前提とされている事柄、また全体の論旨を支える重要な具体例を批判すること、つまりはクリティカルな批判をきちんと示すということです。そのためにすべきことは、原則としては、一つ一つの研究をきちんと読むことに尽きます。ただ、学会の議論を収録した文章や、研究の方法論やロジックを追求した専門書を読んで、方法論を議論することに慣れるのも有効だと思います。

 私の場合は、博論ならある程度分量をしっかり書けるので、まずはとにかく自分が言いたいことを書き切ることを心掛けました。そして、中国古典の研究としてどうか、先行研究にない新しいことを言えているかといったことは、そこから一歩離れて、「自分の言いたいこと」を客観的に評価し、その意義を考えていくという方向でやってみました。これがいい方法なのかは分かりませんが、こういう方法もあるということです。

 博士課程の時には、学会での発表や、査読誌への論文投稿を積極的にすべし、とされます。ただ、私はあまりできなかったです。コロナと重なっていたというのもありますし、出不精で人前に出るのが苦手ということもあります。学会発表は、業績や人脈から考えればやるべきですし、すごくいい助言をもらえて資料を丁寧に送ってもらえたという話を聞いたこともあります(もらえないこともあります)。論文投稿は有益な査読意見をもらえます(もらえないこともあります)。まあ、いろいろなケースがありますが、どちらも積極的にやるに越したことはないでしょう。

 しかし、業績主義になって自分を追い込むのも危険です。同世代で業績をたくさん出している人を見てへこむ、焦る、嫉妬する、といった話もよく聞きます。たまたま私の場合は、同世代で業績をたくさん出している人を見ても、「すごいなあ」と思って終わりで、あまりそういう焦りを覚えることはなかったです。こういう気の持ちようを自然とできるのは、かなりの特技(?)なのだと友人に教えてもらいました。こういう私の特性が、分かりやすい成果の出ないこの分野の研究に向いているという面はあるかもしれません。

 雑にまとめると、自分のことをよく把握して、自分と上手く付き合っていく方法を見つけるのが大事です(言うは易しですが…)。大学の相談室やカウンセラーや外部の支援など、さまざまな手助けを借りていくことも大切です。私も文学部の相談室にはお世話になりました。

 さて、本題に戻って、これからの研究をどうするのか、についてははっきりした展望を持てていないです。ぼんやりやりたいこと自体は浮かんでいるのですが、いわゆる「研究」のパッケージにできるかどうかが分からない、という感じです。手堅く「研究」を進めつつ、他に書きたいことはこのブログに書くという、ここ数年の形をしばらくは続けることになるのかもしれませんが、もう一歩踏み出したいところではあります。

(棋客)

*1:いま考えても、やれないことはないと思いますが、『論衡』一本で博論全部をやるのはあまりお勧めしません。博論の中の一つに『論衡』ならいいと思いますが。