達而録

ある中国古典研究者が忘れたくないことを書くブログ。毎週火曜日更新。

北沢恒彦という人

⚠この記事には、センシティブな内容が含まれています(自死への言及)⚠

 

 現在、北沢恒彦についての展示会が京都工芸繊維大学にて行われている。私は北沢のことは全く見聞きしたことが無かったのだが、友人が強く勧めてくれたので、一緒に観に行ってきた。

www.museum.kit.ac.jp

 北沢恒彦京都市中小企業指導所の職員として1970年代から1990年代にかけて京都の商店街、小売市場、個店の商業診断調査を行い、まちのあり方を思案した人物です。その調査には「京都ベ平連」や「思想の科学」など北沢が所属した市民活動の仲間をはじめ、京都工芸繊維大学京都精華大学などの学者、学生、写真家、デザイナーなどが参画しました。彼らは、大型店舗やスーパーに圧倒され失われつつあった京都の商いの場をそれぞれの視点で分析し、記録を行いました。

 本展覧会では美術工芸資料館に寄贈された資料を通じて、北沢恒彦らがどのように「まち」を思考し、調査を実施したのかを読み解くと共に、ポスト経済成長期の京都の姿を、彼らの調査の記録である診断報告書、巡回レポート、写真、北沢と商人との手紙から描き出します。

(上記サイトから引用、2024.3.27閲覧)

 以下、この展示を見て、溢れてきた感想を言葉にしておく。(数日経ってから、記憶が薄れながらも勢いで書き上げているので、情報の正確性については保証しません。また、北沢は著書もあれば伝記もある人ですので、本来であれば色々確認して書くべきところでもあります。ただ、展示会を見た後の自分の初期衝動を書き記しておきたくて、勢いを削がないように一気に書きました。なので内容は当てにしないでください。)

 展示のメインになっているのは、京都市内の商店街や商店が多い地区についての「診断報告書」である。まずこの報告書自体が面白い。この調査は、市役所職員であった北沢が、行政の仕事としてやったもので、街の観察(見た目、デザイン、音など)、アンケート調査の結果、街頭インタビュー、店の種類や経営状況の定量的な調査など、とにかく充実しているし、そこにしっかりとした「生活」が見えるのが本当に素晴らしいと思った。いわゆる「客観的」なデータ集めをしながらも、それだけにはこだわらず、街頭の意見や北沢自身の意見も随所に盛り込まれ、一つの書籍として非常に読み応えのあるものになっている。

 さらに、だからといって文章だけにこだわるわけではなく、店の種類(生鮮食品・乾物屋・日用品……など)をマッピングした地図や、人の導線や雰囲気を盛り込んだ地図、何気ない日常(しかしさりげなくその商店街の特徴が伝わるもの)を映した写真とイラストも多い。こうした地図を見れば、どこにどんな店が足りないかを判断するのは一目瞭然だ。写真にもいちいち北沢のコメントが付されていて、看板の出し方やスペースの活用方法(地域の老人のコミュニティスペースになっている写真とか)などについて意見が細々と書かれている。

 普通、この手の行政の調査は、定量的なデータしか載っていないだろうし、場合によっては大企業の意向に沿った調査内容が出るように設問が歪曲されているなんてこともあるかもしれない。しかし、北沢の調査は、そういうものと全く対照的な調査報告書になっている。それは調査方法やその出力方法だけではなく、その中から出てくる結論の方向性にも明確に表れている。たとえば、地元の商店街の買い物客のアンケート結果では、商店街に求めるものは「ゆっくり日用品を買い物できる場所」であるという答えが圧倒的に多く、大型商業施設を求める人はあまり多くない。北沢が調査をした時期は大型スーパーの進出期と重なっており、ライフの進出に特化して作られた調査書もある。そこには「ライフの主張の矛盾と問題点」という章もあったりする。

 調査報告書の中には、調査に対する誠実さが感じられる北沢のコメントもある。よく強調されるのは、予断を持って調査してはならないということで、インタビュアーの選定などに際してその点に注意が払われるように工夫した痕跡が見える。実際、(おそらく北沢は敬遠したであろう)フレスコの利点を語るインタビュアーの記事も報告書に掲載されていたりする。

 もっとも驚くべきことは、この成果が、北沢が一人でやったものというわけではなくて、行政の組織の中でなされたものということにあろう。あくまで北沢は仕切り役であって、実際の調査は、各地域に適した人を任命し、大学生のアルバイトなども活用しながら行われた。これが、研究者個人のフィールドワークとか、誰かの趣味とか、そういう個人でなされたことだったなら、個人的に感心はするけれども、驚嘆するには至らなかったと思う。しかし、これを行政の組織として、人を動かしながらやっていたというのが本当に信じがたいことだ。この手法を役所に通すある種の政治力も感じるし、それを受け入れる役所の判断にも強さを感じる。

 この数々の報告書を見て、京都という街について思いを馳せずにはいられなかった。東京に引っ越してから、たまに京都に戻ると実感するが、京都はなんだかんだいって、やっぱり住みやすい街だ。そんなに遠出しなくても、個人商店だけで一通りの買い物を済ませることができる。なんとなく寄り合って話をできる空間があちこちにある。でも、こういうものは、みんながなんとなく「いいなあ」と思っているだけでは、資本の波に飲み込まれて、あっという間に消え去ってしまう。その分岐でどう抵抗するかということの試みとして、北沢の仕事は評価されるべきだと思う。

 そういう「住みやすい街としての京都」は、昨今のインバウンド偏重の市政のなかで徐々に失われつつある。しかし、北山エリア再開発問題京都府立植物園の再開発、京都府立大学共同体育館のアリーナ化など)が住民運動によって阻止されるなど、資本化への抵抗が垣間見える瞬間もある。その背景には、北沢の仕事をはじめとする、色々なものが作ってきた土壌というものも、確実にあるだろう(実際、北沢は1990年代に北山エリアの調査も行っている)。京都でしばらく生活した者としては、この街に意志と理想をもって関わってきた人たちがいたことを再確認することができ、非常に感慨深く思う展示であった。

 当然のことながら、北沢の仕事ぶりにも、批判しなければいけないところもあるのだとは思う。たとえば、展示を見る限りでは、男性中心主義や健常者中心主義への批判、みたいなものはあまり見えなかった。都市計画において、車椅子や点字ブロックの導線を組み入れることは最低限のことだと思うが、そういう話は見かけなかった。女性表象の人物の写真にルッキズム的なコメントがある箇所も少しあった。もちろん全ての資料が展示されるわけではないので、他の文献では違うことを言っているかもしれないが、このあたりはもう少し詳しく調査書を見てみたいと思った。

 

 さて、読者の方々は、では結局「北沢とは何者なのか?」ということが気になっているところだと思う。展示はこのことにもよく触れられていて、北沢の高校時代の文章や、北沢が関わっていた文筆グループの記事なども見ることができる。

 北沢は1950年代前半に鴨沂高校に通っており、当時の高校新聞に面白いことが書かれている。そもそもこの新聞自体が面白くて、自治会の中央執行委員長の選挙とその抱負(フハイした自治会を立て直すとか書いてある)とか、校長とのインタビュー(校長がざっくばらんに喋っていて面白い)や、「平和憲法を守ろう」というテーマの記事、それに紛れて修学旅行の行き先の投票があったりする。終戦の時に5~6歳という世代だから、戦争への危機感というものが色濃く反映されていて、今の大学でも到底叶わなくなったことを高校でやっていて素晴らしい。

 で、その紙面の中に、「火炎瓶を高校に投げ入れて学生が逮捕された」という記事があり、そこに北沢の名前がある。当時は朝鮮戦争反対運動が盛んで、共産党が非合法下にされた時代でもあり、おそらく北沢の行動もその文脈にあるものだと思う。文集に載っている北沢が書いた小説には、時間厳守を説くシーンで、レーニンの言葉を引き合いに出したりしている。メモ帳にも、マルクスレーニンの言葉がよく出てきている。簡単に言えば、北沢はいわゆる極左活動家で、なおかつかなりの行動派だったのだ*1

 その後、北沢は日本共産党を追放された後、「ベトナムに平和を!」連合の京都の事務局長を長らく務め、左派の活動をずっと続けてきた。市役所に入る前に働いていたところでも労働争議をやっていた。文章を書いて世に出すこともずっとしていたようで、『思想と科学』の編集や、編集グループSUREの立ち上げ(退職後)も行っている。文章が多いだけではなくて、スケジュール表やファックス・手紙など、かなり細かいことも記録に残していて、こういうところにも活動家っぽさを感じる。

 こういう、明確な極左であり、おそらく高い理想があった北沢の歴史を知ると、北沢の役所での仕事ぶりが、また別の観点から見えてくるように感じる。はっきり理想がある中でも、自分の持ち場や生存の糧(典型的には職場)で生きていかなければならないことの矛盾に、活動家は悩まされるものだ。目標は何か?他にもっとやるべきことがあるのでは?欺瞞ではないか?搾取に加担しているのではないか?……などなど。で、そういう悩みの中で、一つの実践として選び取ったものが、中小企業診断士としての仕事だったのだと私は思う。そして実際に結果を出した*2ことに、しみじみと感じ入るものがあった。自分も頑張ろう、と月並みな事を思った。

 

 さて、最後に、北沢の最期に触れておきたい。展示会では伏せられていたので分からなかったのだが、後で調べて、北沢が1999年に65歳で自死したことを知った。

北沢恒彦 - Wikipedia

 確かに、展示されていた年表を観た時、かすかな違和感があった。年表には、1999年の4月に「活動を終了した」とあって、その後に出先の資料を整理して実家に送るなどし、その年の11月に亡くなったと書かれていた。準備が良すぎるという違和感(病気で先が長くないと思っていて、身辺整理をしていたのか?とぼんやり思っていた)と、こうした筋金入りの活動家が「活動を終了する」ってどういうことだ?(どこでどんな方法でも「活動」はできる、って考えそうなものなのに)という違和感である。

 北沢がなぜ死んだのか、自分はよく知らない。北沢自身の著書もあるし、北沢の死後に編まれた北沢恒彦とは何者だったか?』という本もあるので、色々読んでみてから考える必要があるのは分かっている。でも、頭であれこれ考えてしまうのも止められない。

 もう十分やりきったと思ったのかもしれない。病気だったのかもしれない。自分のやってきた活動記録を整理できるうちに死のうと思ったのかもしれない。多分、たくさんの断絶も経験してきたのだろう。思想的に相容れないと分かっている人との決裂もあれば、同志と信じて疑わなかった人との切ない結末もあったと思う。そういう関係が影響したのかもしれない。納得できないことも山ほどあっただろう。結局自分は何もできなかったと思ったのかもしれない。もちろん今の私には何も分からないが、とにかくあなたと話したかった、そんなことを思った。

 

 この展示はあと一週間ぐらいやっている。3/29にはギャラリートークもあるらしい。お時間のある方はぜひ行って欲しい。特に京都に住んでいる方は、きっと感慨深いものがあると思う。

 

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※追記して、ホームページにまとめなおしました。

 北沢恒彦という人--閑閑空間

(棋客)

*1:「犯罪者」への抑圧があまりに厳しい現代を生きていると、火炎瓶を投げ入れても市役所職員になれるのだから、いい時代だなあ、とかそんな感想を抱いたりもした

*2:もし北沢が今の京都の街を見たなら、あまりの変化に自分の仕事が「結果を出した」とは言えない、なんて考えそうだが、それでも、時計の針を遅くさせる効果はあったと思う。