先日出版された橋本秀美『孝経―儒教の歴史二千年の旅』(岩波書店、2025)を早速読んだので、その読書メモを書いておく(以下敬称略)。以下の過去記事も参照。
本書は、全体としては「書物誕生」シリーズ(橋本秀美『論語―心の鏡』)と似ており、『孝経』がどのように読まれてきたかということを丹念に追いかけたものである。既存の概念から分析していくような方法ではなくて、実際の「読まれ方の記録」や「作られた本の体裁」といった、『孝経』に携わってきた人々の営みから迫っていく内容になっているのがユニークな点だ。特に読書好き、古典好きの人には興味のある記述が多いと思う。一方、「儒教って何だろう」という疑問から本書を手に取った人からすると、歯がゆいさを覚える人もいるかもしれないが、私個人としては、これはこれで「儒教のアスペクト」の一つとして受け取ってほしいところだ。
私の率直な感想は、堅実な資料と知識に裏打ちされた内容は、初めて知ることばかりで、あっという間に読了できる楽しい本だった、というものだ。全編を通してとても読みやすく、初学者の方にもぜひおすすめしたい本である。
ただ、全体として、平易に書かれている分、「そこまで言い切れるかな」と思う箇所もいくつかある。たとえば、鄭玄についての評価は、鄭玄とそれ以外でそんなにすっぱり二分できるかな、というのはちゃんと考えないといけないと思うが、これは私の今後の課題として受け止めたい。
さて、本書の最後には『孝経』全体の翻訳がある。これは鄭注の理解に基づいて作られた『孝経』最初の訳注であるという意味で、非常に意義深い試みである。鄭注は独特なところが多く、鄭玄の意図を汲んだ翻訳を作るのはかなり難しいのだが、この本ではまさに達意の訳がなされていると思う。以前自分では読めなかったところが、筋の通るように読解されていて、感銘を受けるところが多かった。
一例として、以前ブログで取り上げたことのある以下の一節を挙げておきたい。
『孝経』士章「資於事父以事母,而愛同。資於事父以事君,而敬同。故母取其愛,而君取其敬,兼之者父也。」
本書の翻訳が以下(p.201-202)。
人の行いを考えた時、父に仕えることと母に仕えることを較べると、大事にする気持ち(「愛」)は同じ。人の行いを考えたとき、父に仕えることと君主に仕えることを較べると、敬意を払うこと(「敬」)は同じ。だから、母については大事にする気持ちが主で、君主については敬意を払うことが主であるのに対し、両者を兼ね備えるのが父に対する気持ちだ。
以前の記事で、「資」字を「人之行」や「行業」と訓じる鄭玄の解釈を紹介し、敦煌文献の『孝経鄭注義疏』でもこれに言及されていることを述べたが、この場合に経文全体がどのような意味になるのか理解できず、これ以上詳しく検討することはできなかった。分からないまま放置していたが、この橋本訳を見て、すっきり理解できたように思う。(橋本の句読では「資」の後ろに句点を入れていて、より分かりやすい。)
以下、橋本の補説も掲げておく。
【補説】①「資」は、普通「かりる」と訓ずる。しかし、「父に仕えることに借りて母に仕えれば、愛は同じ」では、父に対する愛が母に対する愛に先行するように理解されてしまう。実際には、母子関係は父子関係以上に絶対的で疑問の余地の無いものだ。そこで鄭注は、「資」を「人の行い」と解釈した。その場合、「以」は「与」と同じで、「~と」と訓ずる。
ここで言われているように「以」を「与」と同じとして考えると、確かに筋の通った経文理解に達することができると思う。
さて、経文の訳は上でよいと思うのだが、この補説の内容を注釈なく言い切るのは問題があると思う。鄭玄が(または当時の社会通念として)「母子関係は父子関係以上に絶対的で疑問の余地の無いもの」と考えていたかどうか、また「父に対する愛が母に対する愛に先行するように理解されてしまう」と何がまずいのか、ここだけではよく分からないからだ。少なくともここの鄭注で鄭玄はそんなことは言っていない。
また、「絶対的で疑問の余地の無いもの」という言葉で何となく説明された気にはなるものの、厳密に言えば、母子関係が「絶対的で疑問の余地の無いもの」と言えるのは何故なのか、そしてそれが「敬」ではなく「愛」と結びつけられるのは何故なのか、といった疑問は解決されていない。そもそも、この経文の後半で「母への「愛」と君主への「敬」を兼ね備えるのが父に対する気持ち」だと言っているのだから、少なくとも『孝経』経文では、父子関係こそが「絶対的で疑問の余地の無いもの」とされているのではないか?という反問は当然浮かぶ(し、否定した痕跡がない以上、鄭玄もそう考えていたのではないか、という指摘は当然だろう)。
また、少し別の話になるが、p.212では経文に「父子之道」とあるのを、解説ではすべて「親子関係」にまとめている。親子一般を「父子」に代表させたという解釈も可能かもしれないが、常識的に考えれば、父が母に優先されるという今述べた思想が作用していると理解されるだろうし、これを注釈なしで「親子関係」にパラフレーズするのは(鄭玄の『孝経』理解に迫る上でも、そうでなくても)問題があると思う。
私見を挟むと、『孝経』では「父」だけに限定せず「父母」と連用する表現も多く、父の母に対する優先を全面的に展開していると言い難い面は確かにあるが、「兄」「父子」という言葉は出てくるのに「姉」「母子」という言葉は出てこなかったり、先述したように父を優先する思想があることは確かで、男性中心主義的であることは否定しようがない。『孝経』には直接的に「女は男に従え」的なことが書かれているわけではないが、これはまさに橋本が言うように「統治者階級」のための経典であった『孝経』の中では、女性ジェンダーは端から相手にされておらず、透明化されているだけ、と理解されるべきであろう。
くどくどとまわりくどい書き方をしてしまったが、橋本とてこうした点で異論があるわけではないだろう。ただ、それならそれで、このあたりの言及をさりげなく避けるのはやっぱり気になる。特に注釈者の意図に迫るという橋本の方針に照らすのならば、尚のこと言及するべきところだと思う。*1
細々した疑問を書いてしまったが、全体を通して、多くの方に推薦したい図書であることには変わりない。本書を通して、儒教の営みの一部分を知るのはとてもよい方法だと思う。
(棋客)
*1:ただ、結局のところ、なぜ鄭玄が「資、人之行也」という通常とは異なる訓詁をつけたのかという疑問は残る。皮錫瑞『孝経鄭注疏』では、下文に「母取其愛、而君取其敬」とあるから重複を避けたと説明している。ただこれが採るべき説なのかは正直分からない。