前回の続き。「マーヒーヤ肯定論」が3つに分類できるという話から。
p.66-68
- 普遍的「本質」は実在するが、それは存在の深部に実在するのであって、表面には出てこない。よって深層意識で「本質」を見ることを要求する。例:宋学の格物窮理。
- すべての存在者の普遍的「本質」が、濃厚な象徴性を帯びたアーキタイプ、「元型」として現れてくるパターン。シャマニズム・神秘主義を特徴付ける根源的イマージュの世界の成立する意識領域に典型的にみられる。例:イブン・アラビーの「有無中道の実在」、スフラワルディー「光の天使」、易の六十四卦、密教のマンダラ、ユダヤ教神秘主義カッパーラーの「セフィーロード」。
- 普遍的「本質」は表層で理知的に認知するところに成立するとし、この「本質」の実在を確認するにとどめ、その上で、その構造を分析し、その理論的・実践的帰結を追求する。例:孔子の正名論、古代インドのニヤーヤ・ヴァイシェーシカ派特有の存在範疇論。これは概念論に接近する。
p.84
まず、一つ目の立場について。存在界の事物には必ずそれぞれに「本質」があるという確信を、儒者は抱いている(≒ プラトンのイデア論)。個別のものそれぞれに「理」があるという理気論の発展につながる。その裏付けは、孔子の正名論、『孟子』の言葉にある。ここから、天意によって、超えてはならない限界線が自然に存在するという考え方になっていく。
p.103
宋儒は、そこに生成躍動する化育の世界を見出すが、イスラームの原子論者には、これは「本質」によって金縛りにされた世界にしか見えない。この考え方だと、事物に対する神の介入を許さないことになってしまい、神の奇跡の否定へとつながってしまう。そこで、イスラームの原子論者は偶然論や因果律の否定論を唱える。
p.111
なお、この問題は、人格神の有無が問題なのではなくて、禅も同じ課題に突き当たる。禅は、すべての存在者から「本質」を消去し、世界をカオス化するが、それで終わりではなくて、その先に新しい形で秩序を取り戻す。しかし、それはXがXとしての「本質」が措定されていない形でXとして分節されている状態である(無「本質」的存在分節)。井筒は、ここからインドの古代宗教詩『バガヴァド・ギーター』、仏教の意識三相説、禅の公案などを合わせて論じ、その内実に迫っていく。
p.122
ここで井筒は、「……の意識」がわけなく生起する理由として、「出来合いの分節が、文化的に与えられている」ことを指摘する。現実は初めから分節されており、そこでどんな事物を立てるかは文化によって違っている。つまり、存在が文化枠組み的に分節されているということで、「本質」は初めから文化的に措定されている、と言える。
p.175-179
次に、二つ目の立場について。これは、ある種の人間の意識深層に生起する「元型」(アーキタイプ)イマージュの形象性のうちに、事物の「本質」の象徴的顕現を見る、という現象のこと。ここが井筒が特に力を入れて議論するところである。
前提として、外的事物を「これこれのもの」として認識し意識することは、根源的にはコトバ(内的言語)の意味分節作用に基づく。そして、この内的言語の意味「種子」の場所を、「言語アラヤ識」と言う名で深層意識的に定位する。ここで生じる個々の語の意味作用とは、イマージュ喚起作用である、「目の前のXに注意を向けて、これを木と意識する」というとき、以下の段階を踏んでいる。
- 注意の焦点となるXのあり方がある
- 木という意味「種子」が言語アラヤ識で発動する
- イマージュを生み出す
- Xを木として認知する
イマージュは、個々の言語体系や、それを第一言語とする個々の主体の言語アラヤ識の内部構造によって、異なる形状を取る。たとえば、日本語話者の言語アラヤ識から湧出する木のイマージュには、細部の相違はありつつも、圧倒的な共通形状がある。これが普遍の実在として固定されると、「本質」が成立する。
※この「言語アラヤ識」というのが分かりにくいと感じたのだが、河原清志「根源領域からの意味の生成メカニズム ―鎌田モデルからみた井筒モデルと南方モデル―」で分かりやすく説明されているので参照されたい。
p.179-181
言語アラヤ識の深みから不断に現れては消える、数限りないイマージュの点滅の場所、イマージュの充満する内部空間がある。しかし、日常的意識が働いている限り、根源的イマージュは表面に出てこない。そんな中、突然、現実的事物との結合を離れ、事実性から遊離したイマージュが現れてくることがあり、人を夢想の状態に引き入れる。これは妄想・幻想とも言えるが、これを「妄想・幻想」とするのは表層意識から見たときの話で、深層意識ではこれこそが現実であり、存在深層の顕現である、ということになる。
p.181-193
表層意識から深層意識への推移する例として、シャマニズムを取り上げ、『楚辞』を分析する。また、そこに思想を織り込んでいくものとして『荘子』を取り上げる。
p.197-200
「想像的」イマージュは、深層意識のある特殊な領域に所属し、人間の深層意識に事物の「元型」(アーキタイプ)を形象的に提示する役割を持っている。ここにおいて、「本質」論とのつながりが出てくる。
「元型」とはユングの議論を参照したもので、普遍者、しかし人間の実存に深く食い込んだ生々しい普遍者を指す。これは、抽象的普遍者ではなく、具象的普遍者である。その意味で「元型」は「本質」だが、これは深層意識に想像的イマージュとして自己を開示する「本質」である。
では、「元型」的「本質」とはどういうものか。型(タイプ)とは、人間の存在経験の方向を前もって規定すると言う意味である。しかし、その自己形象化には決まった形がない。つまり、型として「方向」だけは決まっているが、実際にどんなイマージュとして現れるかは分からない。一つの元型が、異なるイマージュとして現れるということがある。しかし方向だけは決まっている。そして「元型」イマージュによってのみ構成されたシステムとして、『易』の六十四卦を例として説明する。
p.205
存在を分節し、事物を類別するという意味では同じく「本質」であるけれども、元型的「本質」は、普通の「本質」とは似ても似つかぬものである。その特異な点とは、個別の事物のかげに伏在する根源形象を、想像的イマージュ体験という形で開示するはたらきが深層意識にあるということである。
p.206
ここから、「表層意識」「深層意識」という二分では議論に無理が生じるということで、井筒は図示して説明する。図は省略するが*1、上からA表層意識/M「想像」的イマージュ/B言語アラヤ識/C無意識/意識のゼロ・ポイント、という構成になっており、下のゼロ・ポイント(点)から、Cが逆三角形に広がり、その上にB、M、Aのボックスが順に乗っかっている。
p.207-208
チベット密教の専門家のラウフの説明を借りて、イマージュ現象を継起的プロセスとして説明すると、以下の三段階になる。
- 「元型」:無意識の領域に成立
- 「根源形象」:無意識と経験的意識の中間にある特殊な意識領域で、想像的・元型的イマージュとして形象化する。
- 「シンボル」:「元型」イマージュが表層意識の領域に出てきて、そこで記号に結晶したもの
p.208-211
「元型」イマージュは、言語アラヤ識の領域で発生し、外界に直接の対応物をもたない(例:神話の超人的英雄のイマージュ、仏教のイマージュ空間に咲く花)。よって、言語アラヤ識で生起しても、経験的現実の世界に直結する表層意識(A)まで上がっていかず、M領域で止まる。ここは、奇怪なものの棲む世界。天使、天女、餓鬼、悪霊、怪物、怪獣が満たすイマージュ空間である。
p.211-214
こうしたイマージュが、その本来の場所であるM領域でどういう役割を果たすか?
これは、表層意識とは別の原理で存在を分節する。存在リアリティーそのものの象徴的分節であり、経験界の事物とはまったく異なった仕方で活動し、作用しあいながら、そこに独自の存在聯関を描き出していく。その存在文節の基礎単位が「元型」イマージュである。
p.214-217
言葉と存在分節の密接な関係を考えると、言語アラヤ識に隠れている意味「種子」の潜在エネルギーの発動によって、無分節の存在リアリティーが分節され、そこに分節の数だけの事物・事象が現出してくる、と言える。ここで一定のイマージュを喚起されるわけだ。
これを中心にする言語観を持つ考え方(深層意識的言語哲学)が、空海阿字真言、イスラームの文字神秘主義、カッパーラー文字神秘主義、西洋の文字象徴論(「コトバの新しい天使学」)といったものである。また、言語呪術は、発音されたコトバに促されて、言語アラヤ識が立ち上ってくる「想像的」イマージュの気配を、意識のM領域に立ちこめさせるものという点で、イマージュ喚起作用を用いていると言える。
以下、それぞれの詳しい説明は省略。
p.234-236
言語アラヤ識で形成される意味分節体には、即物的なものと非即物的なものの二種の別がある。経験的事実性の裏打ちのある、即物的意味分節は、即物的イマージュを生み、M領域を素通りして、表層意識に現れ、事物を「本質」的に認知させる。一方、経験的事実性を欠く純粋に非即物的意味分節体は、非即物的イマージュとなって意識のM領域に出現する。即物的であれ非即物的であれ、M領域に現れてきて、そこに一定の場所を占め、そこで働く限りは、すべてのイマージュは想像的性格、象徴的性格を帯びる。
こうして、M領域で拠点を固めてはたらき、人間意識に不思議な象徴的深みを与える「想像的」イマージュ、そのなかで中心的役割を果たすものが、「元型」イマージュである。これは、意識・存在の想像的エネルギーの最も原初的な、第一次的な凝集点、その自己顕現である。ここでは、深層意識の目で見た事物の「本質」が形象的に呈示され、表層意識の見る事物の「本質」とはまるで異質の「本質」になっている。
p.236-237
表象的意識の捉える「本質」は、概念的普遍者である。一方、「元型」的「本質」は、具体的普遍者であり、意識・存在のゼロ・ポイントで現成する、根源的存在分節の形態である。
ここには、人間意識の深層構造そのものを根本的に規制する「文化の枠組み」の性格が濃厚に反映している。時代・地域を越えた普遍性というのはあり得ない。たとえば、仏教徒が迷走的ヴィジョンでキリストやマドンナを見ないのは何故か。キリスト教徒の瞑想意識の中に、真言マンダラの諸尊、如来、菩薩の姿が現れないのは何故か。それは文化の枠組みが反映されるからである。
文化的枠組みの制約を受けていることが、「元型」的「本質」の特徴である。つまり、元型的「本質」とは、特定の文化的コンテキストに密着した深層意識が事物の世界に認知する「本質」のことで、「全人類に共通する元型」というものはない。
以下、マーヒーヤ肯定論の第三型の説明に入り、孔子の正名論などが例に出されているのですが、井筒自身さして重視している考え方ではないので、これは省略します。
長々とメモを並べてみたが、これをもとに何か感想を書こうとしても、あまり良い内容が思いつかないので、結局はきちんと理解できていない、ということになるのだろう。専門的見地からすると、「元型」的「本質」としての『易』の議論はなかなか刺激的な上に、本書の行論の中でかなり重要な位置を占めているから、井筒の読解を確認しながら細かく読解する価値はありそうだと感じる(西洋哲学的見地から分析したものではあるが、林哲平「井筒俊彦の「易」元型論」という論文もある)。本書のp.200前後を『易』などの原典と対照しながら詳しく見てみることを、ひとまず次の課題としておきたい。
さて、井筒は*2、日常的世界で認識される「本質」のもととなる「元型」的「本質」が、文化的枠組みの制約を受けると言っているのだから、これは明確にフェミニズムの文脈における「本質主義」批判として流用できる。言語アラヤ識に隠れている意味「種子」がもつイマージュ喚起作用を考えようが、より表層的なところでコトバがもつ本質喚起作用を考えようが、本質が(特に言語と結び付いて)後から生まれたものということには変わりがないからだ。
つまり、たとえば、女らしさ/男らしさ、母性/父性、そうしたものの「本質」などとされるものは、コトバの本質喚起作用や、言語アラヤ識におけるイマージュ喚起作用によって現れたものであって、そこに不変不動の「本質」などというものはない、ということになる。そして、それにもかかわらず、人が女らしさ/男らしさといったものに引っ張られ続けるのは、表層意識では本質が「喚起されたもの」であることに気が付かないからであり、また表層意識から離れたとしても、それが深層意識で生じる「元型」イマージュに起因するとはなかなか気が付かないから、とまとめられる*3。
で、こうした解体を不可能にさせる立場が、マーヒーヤ肯定論の第一型の方で、これが「本質によって金縛りにされた世界」であるというのはまさに本質を衝いた言葉と思う。こうした価値観が、たとえ「自然の化育」の躍動を生き生きと表現するものだったとしても、同時に、その本質規定の方向性から、男尊女卑や身分制を補完するものとして向かいやすいことは容易に想像されるところである。
ただ、このぐらいのことを言いたいだけなら、似たようなことを言っている人はたくさんいるわけで、わざわざ井筒を援用しなくても良い、というのは正直思ってしまう。(とはいえ井筒を援用する意味もあり、それは井筒を持ち上げる知識人たちへのカウンターとして使えるという点にあるのだが。)
で、井筒が力を入れて論じたところを資源として活用するなら、日常的経験の世界から離れてM領域や無分節の世界に足を踏み入れていく実践について議論できたらよい気がしている。が、どう接続できるのか分からなくて、何となくもどかしい局面にいる。ひとまず原典と格闘するほかなさそうなので、まずは先に示した課題に戻ってやってみようと思うのだが…。
(棋客)