斎藤賢『『史記』はいかにして編まれたか:蘇秦・張儀・孟嘗君列伝の成立』(京都大学学術出版会、2025、プリミエ・コレクション)を、著者よりご恵贈いただきました。元となった博論も読んだことがあり、改めて書籍の形で手元に置いておくことができるようになり、嬉しい限りです。以下、簡単なものですが感想を書き残しておきます。
目次
- はじめに
- 序章 『史記』編纂過程・手法解明のための視座
- 第一章 蘇秦列伝の成立
- 第二章 孟嘗君列伝の構造
- 第三章 張儀列伝の編纂
- 第四章 『史記』と蘇代
- 終章 『史記』の描く戦国史の特徴
- 参考文献
- あとがき
- 索引
内容
中国戦国時代を体系的・編年的に記す現存唯一の史料である『史記』。しかし、その記述には内容の矛盾や年代のズレをはじめとして、さまざまな問題が存在する。それは本当に錯誤や誤記なのか? 蘇秦・張儀・孟嘗君列伝を手掛りとして、その編纂手法と成立過程を探り、書き手と史料の相互交流を蘇らせる文献学的研究。
(引用元:https://www.kyoto-up.or.jp/books/9784814005680.html、2025.4.10閲覧)
ちなみに、「プリミエ・コレクション」とは、京大に博士論文を提出して博士号を取得した研究者が、その博論をもとに一般書に仕立てて書籍化したシリーズである。最新の研究でありながら、比較的読みやすく、おすすめできる本が多い。本ブログでも、これまでに以下の記事でプリミエ・コレクションの本に触れたことがある。
さて、本書は、タイトルの通り、『史記』の成立過程を特に戦国時代の記述に関して研究したものである。いま、序章をもとに本書の主旨を(私なりの理解で)まとめておくと、以下のようになる。
戦国時代を通時的に理解しようとすると、その基礎的な資料は、依然として『史記』を用いることになる。ここで「依然として」と言う意味は、近年、秦簡・楚簡といった出土資料の発見によって、先秦史の研究が大幅に進歩したという前提がある。よって、いま「戦国時代の研究をする」と聞くと、こうした出土資料をメインに使う印象があり、『史記』といった伝世文献を主とする研究は(相対的には)減少していると、一応言えるだろう。しかし、こうした出土資料には、戦国時代全体を通時的に書いた資料は無い。そこで、そうした研究をするためには、依然として『史記』が基礎的文献になるというわけだ。
となると、『史記』の戦国時代の記述が重要になるのだが、ここには多くの問題があることが知られている。それは、内容の矛盾や紀年の錯誤などが数多くあり、利用に困難がつきまとうということだ。そこで、『史記』各篇の緻密な比較分析によって、編纂方法を明らかし、『史記』を用いて戦国時代を研究する際の史料学的な困難を解決することが、本書の主眼である。
過去の『史記』研究の有力なパターンの一つが、司馬遷の人格と『史記』の内容を結びつける研究で、これは司馬遷の人格がどのように『史記』の記述内容に影響を与えたかを分析するものである。しかし、本書は、史料学的分析に際しては、司馬遷の人格と『史記』の編纂は区別する必要があるとして、こうした方法は採らないとする。あくまで、『史記』の各記述の、どの部分が太史公の改変を被っており、どの部分が原資料そのままなのかという分析を、個々の篇の精緻な比較検討を通して行うことが本書の作業である*1。
また、過去の『史記』研究の結論では、『史記』内の矛盾する記述は「異なる原資料を保存しようとしたから」、また「伝写の誤りである」と説明されることがある。しかし、こうした解決方法は、それ以上何の知見も得られないもので、そこから読み取れることがある可能性をつぶしてしまっている。本書は、こうした矛盾から、太史公の作業の痕跡や、太史公の認識の変化を読み取るように努めている。
加えて、序章では、過去の戦国紀年の研究と本書の方法の違いも説明されている。銭穆を代表とする過去の戦国紀年の研究は、あくまで「史実を復元しよう」という観点からなされたものである。ここで『史記』は当然重要な位置を占めてはいるものの、ただの「多数の史料のうちの一つ」として扱われるだけである。しかし、本来『史記』の特異な点は、系譜・紀年・説話といった性質の異なる史料を結合し、戦国時代という一つの時空間を、体系的に記述しようとしたものであるという点にある。太史公の作業は、自らの紀年をもとに、史料を取捨選択し、系譜を組み込み、整合性を取れるように調整したことにある。その意味で『史記』は他の史料とは区別される。
こうした前提と目的をもとに、第一章から具体的な検討に入っていく。最初に取り上げられるのは『史記』蘇秦列伝である。まず、蘇秦列伝の前半(蘇秦栄達説話)と後半(燕斉反間説話)に分けて、『戦国策』と『史記』との比較を行い、それらの説話が生じる背景・展開を明らかにする。その上で、太史公がそれらの説話をどのように取捨選択・配列したか、そこにどのような意図がはたらいているか、についての議論に進む。
第一章、p.39の以下の一段は、本書を貫く態度として、また筆者の歴史研究への向き合い方を示す言葉として、簡潔で分かりやすいものであろう。
現在では、史実としての蘇秦を、前二八〇年代前半に主に燕斉間の外交に従事し、前二八四年の斉湣王敗滅以前に車裂に死した人物であるとする見解が主流となっており、『史記』の記述とは大きく異なる。また、それに伴って『史記』蘇秦列伝を虚構として退ける傾向にある。しかし、一方の史料を史実とみなし、それと矛盾する史料を一概に否定するのでは、史料を正当に用いたとは言いがたい。蘇秦が歴史的に実在した人物であるのか、また存在したとすれば、蘇秦がいかなる生涯を辿ったのか、ということは暫時待考とせねばならない。まず解明すべきは、蘇秦列伝のごとき蘇秦像がなぜ生じたか、である。なぜならば、『史記』に至るまでの蘇秦像の変遷を辿り、蘇秦列伝の形成過程を明らかにしてこそ、『史記』蘇秦列伝を正しく評価し得、またそれによって初めて、蘇秦に関わる諸問題を精確に認識できると考えるからである。(p.39)
私の勝手な感覚として、「実際はどうだったのか?」「本当は何があったのか?」という問いに対して答えを出すことにしか価値を見出せないのなら、それは歴史学ではない、というものがある(至極当たり前のことなのだが)。本書は、この一段に代表されるように、「史実」を再構成するものとして『史記』をとらえなおし、本書の分析を通して再度再構成していく試みと言え、まさしく「歴史学」の研究書であると思う。
これと少し関連するところとして、だいぶ飛ぶが、終章の以下の一段も引いておきたい。
「仮構」とは一般的には「実際には存在しないことを作り上げる」ことを指す。ただし、本書で「仮構」と表現する場合、それは当然ながら太史公が「故意に出鱈目を書いた」などといったこととはまったく異なる。……本書でいう「仮構」とは、ほとんどの場合、太史公が自身の戦国史認識や原資料相互の記述・認識の整合を図って原資料に改変を施したことにより、結果として元来の資料にない記述・認識が生じた、ということを指して用いている。(p.229)
『史記』におけるこの「仮構」の実態を、蘇秦・張儀・孟嘗君列伝を題材として探ったのが本書である、とまとめることもできるだろう。
第二章以下、孟嘗君列伝、張儀列伝の研究に進んでいくが、ここでは省略する。
全体を通して、前提を一つ一つ踏まえて、分かるところを分かる、分からないところは分からないという点を明快にしながら、筋道の立った議論を展開している。そしてその上で、一書全体で一つの論旨を貫徹していることに感服させられる。
内容自体が高度ではあるものの、できるだけ噛み砕いて、分かりやすく伝わるように工夫されており、中国史研究に興味のある方にはおすすめしたい本です。みなさまぜひトライしてみてください。
(棋客)
*1:実は、ブログ筆者が先日提出した博士論文でも、過去の鄭玄研究が、鄭玄注から鄭玄の政治的意図などを過度に読み込む傾向があることを指摘しており、本書と研究対象は異なるものの、似た問題意識を持っていると感じている。