達而録

ある中国古典研究者が忘れたくないことを書くブログ。毎週火曜日更新。

浅川雅己「マルクスにおけるジェンダーと家族―後年の共同体研究がもつ可能性の一つとして」

 先々週の記事で紹介したホリー・ルイス『The Politics of Everybody: Feminism, Queer Theory, and Marxism at the Intersection』について、もう少し深く考えていきたいので、関連する論考を読んでみる。今回は、浅川雅己「マルクスにおけるジェンダーと家族―後年の共同体研究がもつ可能性の一つとして」(『季刊経済理論』57-3、2020年、p.29-37)を取り上げたい。

 前回述べたように、『The Politics of Everybody』の第二章「マルクス主義ジェンダー」の第四~五節では、ヘザー・ブラウンMarx on Gender and the Family: A Critical Study』(Chicago IL: Haymarket Books, 2013)を用いて、マルクスが資本主義における女性の立場(家事労働、一夫一妻制、セックスワークなど)をどう考えていたか(またマルクス主義の立場からどう捉えるべきか)、について議論している。浅川論文は、このヘザー・ブラウンの研究に触れた数少ない日本語文献であり、まずこれを手掛かりにブラウンの議論を追いかけてみよう。

 浅川論文は、マルクスの『資本論』以降の文献に焦点を当てて、マルクスジェンダー・家族に関する研究について考察するものである。結論を一言でまとめると、マルクスジェンダー・家族についての見解は、『資本論』を最終到達点として分析するのでは見落とされるものがあるというもので、本稿で特に着目されるのは「モルガン・ノート」(マルクスがモルガン『古代社会』を抜粋・評注したノート)である。そして、「モルガン・ノート」研究として引用されているのが、ブラウンの書籍である。

 以下、浅川論文の引用を交えて、ブラウンの議論を整理していく。

一夫一妻婚家族を決定論として捉えないマルクス

 過去のフェミニストは、マルクスの家族観が固定的・権威主義的で、非歴史的な生物学的決定論の傾向を持つと考えてきた。しかし、ブラウンによれば、マルクスは「変化しうる制度としての家族」という見解をある程度支持している。マルクスがモルガンから抜粋する以下の一段が分かりやすい。

現代の一夫一妻婚家族について。まさに過去においてもそうであったように、それは社会が発展するにつれて発展し、社会が変化するにつれて変化しなければならない。それは社会制度の産物であり……両性の平等が得られるまでは、なおより一層の改善がされうると想像されねばならない。文明の絶え間ない進歩を仮定して、一夫一妻婚家族が遠い将来において、社会の要求にこたえることができないとしても、一夫一妻婚家族の後にくるものの性質を、予言することはできない。*1

 特に後段で、一夫一妻婚家族が他の制度に転換する可能性が指摘されている。ブラウンによれば、マルクスは家族を固定的なものとはとらえておらず、家父長的家族を社会の基礎的単位とみなす研究者をいたるところで非難している。たとえば、マルクスは個別的な小家族が人類の最初の状態で、これがのちに結合して氏族が成立したという主張(グロートら)を批判している。もう一つの例が以下で、一夫一妻婚家族を固定化するバッハオーフェンの主張に、エクスクラメーション・マークを入れて疑問を呈するマルクスの主張が見やすく出ている。

ギリシアの一夫一妻婚家族は、未開の上位段階以前のものではないだろう。極めてプラグマティックで、きわめてドイツ流の学校教師然としてバッハオーフェン自身がこの事実を取り扱っている。この点は以下の叙述に見て取ることができる:ケクロプスの時代以前には、子供達には母親しかおらず、父はいなかったので;彼らは単系だった。いかなる男性にも排他的に拘束されることなく、女性たちはいかがわしい(!)子供だけを産んだ。ケクロプスが(!)この状況を終わらせた(!)無法な(!)性的結合を婚姻の排他性に引き戻し(!)、子供たちに一人の父親(!)と一人の母親(!)を与え、そして、単系から双系にした(父系出自による単系にした!)」*2

 ブラウンによれば、バッハオーフェンの記述から、マルクスは三つの問題点を引き出している*3

  1. 近代的な慣習・法を基準とし、人類初期の社会を評価することの不当性。
  2. 「一夫一妻婚が子供に一人ずつの父母をもたらした」という理解に対する批判。(一人の子どもが一人ずつの両親を持つのは常にそうであり、一夫一妻婚がもたらしたものは子供に対する父親の関与の強化である。)
  3. 一夫一妻婚が双系出自をもらたしたという理解に対する批判。(むしろ一夫一妻婚は男性出自への移行をもたらした。)

 以上のように、「モルガン・ノート」におけるマルクスは、一夫一妻婚やそれに対応した小家族の散居という状態を、人類の初期状態に投影する議論に対して批判的であった。

資本主義と性別分業家族の形成

 近代的な労働者階級において性別分業家族が形成された要因を解明するには、先行する家族諸形態の歴史についての考察が必要である。その際重要となるのが、氏族制の解体(家族の個別化)と、それに伴う両性の地位の変化(家父長制の成立)である*4

 マルクスは、モルガンの「おそらく家族は、(南スラブ人のように)近親の諸家族からなっていた共同の世帯に庇護を求めた。奴隷制が制度になったとき、これらの世帯が次第に消滅したのであろう」という文章を抜粋し、次のようにコメントしている。

一夫一妻婚家族は、その独立した孤立的存在が可能となるためには、どこにおいても家内階級〔adomestic class〕を前提していた。そもそもこの階級は、どこにおいても直接に奴隷であった。*5

 この場合の「奴隷」とは、動産奴隷としての家内奴隷で、家族をもたず、次世代人口を再生産しない、一代限りの階層である。こうした奴隷は、その剰余労働を搾取する側にとっても、安定的な階級基盤にはなりえない。これを安定的な経営形態にするためには、非搾取階級が安定的に再生産できる制度が必要とされる*6

 ここから、階級対立とジェンダーセクシュアリティをめぐる対立が分かちがたく結びついていると分かる。ただこれは、「私有財産の成立が女性抑圧の原因である」というエンゲルスの主張ほどに単純な関係ではない。ブラウンによれば、マルクスは氏族社会の内部での社会的対立の発展の可能性について、以下のような見解を持っていた。

氏族婚のシステム、それはそもそもすべての氏族の間の平等を確証するものだったが、他の部族の征服の際にそれが反対物に転化する可能性である。もし、征服された部族が征服した側の婚姻関係に完全に統合されなかったとすれば、一つないしはそれ以上の氏族が社会的に劣位に置かれ、他のクランからは婚姻の対象とみなされなくなる。*7

 ここでマルクスは、氏族内の社会的対立の要因を、私有財産制以外に見出している。ブラウンによれば、マルクスは複数の要因を認めることによって、女性抑圧の原因を私的所有に還元するというエンゲルスの誤り(極端な還元主義的な決定論)を免れている。エンゲルスの議論は第一義的に社会的・経済的な力が社会の変化を説明しうるものと見るが、マルクスは偶然的な性質にも注意を促し、社会的・経済的力に加えて、人間の活動が社会的条件を変える可能性を指摘する*8

 この部分はやや難しく、私は理解が追い付いていないが、エンゲルスを批判する部分についてはルイスの主張と重なっている。

補遺

 浅川論文では「モルガン・ノート」に特に焦点が当てられているが、ヘザー・ブラウンが強調しているのは、マルクスジェンダー・家族に対する関心は生涯を通してのものであるという点にある。ブラウンの著作で扱われているのは、『1844年の経済哲学手稿』『聖家族』『ドイツ・イデオロギー』『プシェの自殺論』といった初期の著作(第二章)、『共産党宣言』と『資本論』(第三章)、『フランスの内乱』『ゴータ綱領批判』や記事・エッセイ(第四章)、「モーガン・ノート」(第五章)などである。浅川論文を見ると、ブラウンは『資本論』以後だけに焦点を当てているように見えるかもしれないが、そういうわけではない。

 また、ブラウンは明確にフェミニズムの文脈からマルクスの知的資源を活かそうとしているはずだが、浅川論文だとその文脈も見えづらいかもしれない。

 さて、ルイスの『The Politics of Everybody』に戻って、ルイスがブラウンを用いる箇所を見ていくと、マルクスが女性の地位に関心を払うだけではなく、その見解が家族やセクシュアリティにおける道徳主義的な観点から一線を画していることが示されている。このことは、先に浅川論文で見たマルクスの「!」の挿入からもよく伝わってくるだろう。(この「!」を挿入する位置、つまりマルクスが疑問を感じたポイントは、現代のフェミニストとさして変わらないように思える。)

 ルイスは、ブラウンの研究と関連させて、マルクスセックスワークをワークとしてとらえていたことも指摘しているが、以上の議論を見ればこれも当然のことと言えよう。以下、該当部分のルイスの主張を箇条書きで示しておく*9

  1. マルクスは、セックスワークはワーク(労働)であるとみなしている。
    • 同時に、女性に課せられた「非セックスのワーク」(例:家事労働)が、事実上のセックスワークとしてセクシャライズされることも認識している。
  2. フェミニスト(自称マルクス主義フェミニストでさえ)は、セックスワークをワークとみなすかどうか議論しているが、マルクスの経済分析は明確な回答を与えている。
    • 自分の労働から利益を得る人のために賃金を払って働く人=労働者
    • 賃金を払わない者が持ち込んだ収入で生活する人=奴隷商人
    • 労働者が生産した商品の利益で生活する人=資本家
    • セックスの権利のために他人から取引される対象とされる人=奴隷であり、商品である
    • 客から受けるセクシュアルな好意を引き換えに、上司から賃金を受け取る人=労働者
    • 売春宿を所有している人=小資本家(プチ・ブルジョワ
  3. 経済的な取引がセックスに関連しているという事実は、資本主義の仕組みを魔法のように変えることはないし、生産関係を絶望的な混乱の中に投げ込むこともない。

 一応注意しておくと、マルクスはこのリストの①ははっきり述べているが、②~③のような分かりやすい体系的な分析を残したわけではない(だからこそ後世議論の的になってしまったわけだ)。②はあくまで、マルクスの経済分析からセックスワークを分析すると当然こうなるという話であって(私も当然賛同するが)、マルクスの言葉を直接引用したわけではない。

 最近、日本共産党の党員と議論した人が、「セックスワーク・イズ・ワーク」を否定する党員がいてショックを受けた、と言っていた*10。こうした、セックスワークは廃絶すべきという言説は、「自分はあんなものは労働として認めない」という差別的な感覚と結び付いている、と指摘しなければならない。

 そうではなく、セックスワークを労働としてとらえ、その労働環境を改善しよう(たとえば労働基準法を守らせよう)、という方向で闘わなければならない、というのがマルクスマルクス主義者の主張であるはずだ。

 たとえば、無理やりセックスワークで働かされる人がいるのなら、それはセックスワークに問題があるのではなく、「無理やり働かせること」(そしてセックスワークがそういう形態になりやすい社会構造)自体に問題がある。セックスワークの現場で危険な目に遭うとか、見合った報酬を受け取れないといった事例で考えても、これは全く同じことだ。

 セックスワーク廃絶論は、セックスワーカーの権利の主張を難しくさせ、セックスワークの労働環境をよりひどい状況に陥れてしまう。ひどい状況にあることを訴えても、「そういうものだから仕方ない」という言説にもつながりやすい。

 セックスワークは確かに搾取である。しかし、その議論は、労働が全て搾取であるという前提に立った上でなされなければならない。「万国の労働者、団結せよ」と言う時、その「労働者」からセックスワーカーが排除されるということはあってはならない。

 

 論点はやや異なるが、菊地夏野「セックス・ワーク概念の理論的射程 : フェミニズム理論における売買春と家事労働」(『人間文化研究』24、2015)も合わせて参照されたい。また、性産業をめぐるフェミニズムの対立については、台湾のフェミニズムの歴史も分かりやすい例だと思う(台湾のフェミニズム - Wikipedia)。

(棋客)

*1:浅川論文, p.32

*2:浅川論文, p.33

*3:浅川論文, p.33

*4:浅川論文, p.33

*5:浅川論文、p.33

*6:浅川論文、p.33

*7:Brown, p.174, 浅川論文, p.34

*8:浅川論文, pp.34-35

*9:Holly Lewis (2022), "The Politics of Everybody: Feminism, Queer Theory, and Marxism at the Intersection", Kindle版, 142-143/398ページ。前回と同じく、訳文作成の際に山村さんの力をお借りしています。

*10:https://bsky.app/profile/kellypaabio.bsky.social/post/3lopzbpmwts2m