達而録

ある中国古典研究者が忘れたくないことを書くブログ。毎週火曜日更新。

「思想強い」って他人に言う人、めっちゃ思想強くねって話

 以下の文章は、「思想が強いね」とか「政治的意見は怖い」と感じる人と、どう対話の糸口を掴むかってことを目的に書いたもの。あまり原則的な議論にはなってないけど、誰かがどこかで使える言葉があれば、と思って書いた。



 先日、バーで隣になった人が、「戦争反対・健康最高」と書かれたTシャツを着ていた。「そのTシャツいいですね」と話しかけると、お礼を言われた後に、「さっきまで飲んでいた友達には、「思想強いね」って言われたんですよ」という話を教えてくれた。それを聞いた私は、それは嫌だね、何が「思想強い」だよ、と伝えて、その人と色んな話をした。

 だってさ、「戦争反対」と「健康最高」なんて、「そりゃあそう」でしかないというか、めちゃめちゃ当たり前のことしか言っていないわけで。

 あえて言うなら、この文言に対して「思想強い」と感じる方が、相当に「思想強い」のでは、と思う。つまり、「戦争反対」という言葉に「思想強い」と感じるあなた、相当に「思想」強くないですか? ってこと。

 

 今、あえて同じ言葉で逆手に取る意味で、私は他人に向かって「思想強い」という言葉を使った。でも本来は、「思想強い」という言葉自体、あまり使いたいものではない。「思想強い」という言葉自体が、根本の問題を認知しにくくさせる効果を持つと思うからだ。

 まず、人の「思想」や「意見」というものは、その人のそれまでの人生の中で、(自分の意思がどうであれ、)いつの間にか形作られていくものだ。たとえば、もしあなたが、「人は男女で結婚して、子供を産むのが当たり前」だと考えているのなら、その考え方も、あなたがそれまで歩んできた人生の結果として形成された、一つの「思想」「意見」である。「戦争反対と言う人は思想が強い」というその考え方だって、あなたが人生の中で出会った様々なものの影響によって生まれた一つの「思想」である。

 私を含めてみんな色んな思想をもっていて、時にはそれに振り回されたり、また人を振り回したりしながら、生活している。たとえば、「年長者には敬語を使うべし」「お金がない人は自己責任だ」「日本は日本人が暮らす場所だ」……こうした主張も、すべて一つの「思想」だ。ちなみに私はこの三つの「思想」には同意しない。もちろんこの私の考えもまた一つの「思想」だ。

 なのになぜ「あの人は思想が強い」「政治的意見は怖い」という感覚が出てくるのかというと、それはその人が自らも「思想」や「意見」の持ち主であることを認識していなかったり、また「誰もがそう」とか「自然なこと」とかいう言葉でごまかして、認識していないフリをしていたりするからだ。自分は「思想がない人」「意見がない人」というポジションに立ちたがる姿勢は、「政治的」なものを忌避する姿勢とよく似ている。

 

 思想に強いも弱いもない。というのは前提の上で、「「戦争反対って思想強いな」と感じる、あなたのその強烈すぎる思想、ちょっと自分で向き合ってみてよ」とは思ってしまう。もちろん戦争反対だけではない。「天皇制は当たり前」「結婚制度は当たり前」「国籍差別は当たり前」……なあ、どれも「思想強すぎ」やしないか?

 と、たまにはこういう愚痴をこぼしてみるのも許してほしい。

(棋客)