最近読んだ本のうち、学ぶところの多かった本について、雑に感想を書いておきます。また詳しく書き直すかもしれません。下を読むと批判が目立っていますが、どれも面白く読みました。おすすめです。
◆小谷汪之『中島敦の朝鮮と南洋』(岩波書店、2019)
中島敦は、日帝植民地下のソウルで中学時代を過ごし、そして死の直前には、日本語教科書作成のためにこちらも日帝植民地下のパラオに赴任したという経歴を持っている。中島敦のあまり知られていないこの経歴について、中島敦自身の文章をふんだんに引用しながら、時代背景を踏まえつつ整理されている。知らない資料を色々知ることができる本で、勉強になることが多かった。ただ、中島敦を頑張って擁護しようとする著者の態度はやや気になるところだ。
中島敦の南洋の叙述は、「蔑視」や「差別」とまでは言えないという態度を著者は堅持する。確かに、中島敦は、パラオでの日本語教科書作成という自分の仕事に疑問を抱いていたことを吐露している。しかし、その吐露の言葉も、植民地支配自体への批判ではないし、支配者として特権を持ってパラオに訪れた自身の立場への疑念というわけでもない。中島敦の南洋描写から伝わるのは、他者化された「非文明的で素朴で純粋な原住民」像でしかないし、また明確な琉球人への中傷の言葉も記録されている。そんなに無理して擁護せず、批判すべきは批判したらいいのでは、それが研究者に求められることなのでは、と思った。
私はむしろ、中島敦は、一高出身の当時の「エリート」としてまさに典型的な人だったのではないか、という印象を抱いた。このあたりをもう少し掘り下げて欲しかった。
◆古怒田望人/いりや『クィア・レヴィナス』(青土社、2025)
レヴィナスという人の名前すら怪しい自分には、正直難しいなあ、と思いながら前半を読んだ。私みたいな西洋哲学の素養がない人間は、本書の一行目の「よく知られているように…」で始まる文章の中身を知らない自分はどうやら想定読者から外れていそうだ、と感じてしまい、読むことに引け目(?)を覚えてしまうのだ。
でも、第六章~終章まで読み進めていくと、私にも理解しやすい議論になって、とても面白く読めた。特に「差異」と「同質性」を扱う第六章が心に残ったので、少し振り返ってみたい。
まず、ベルサーニがウィティックの言葉を引用した一段を掲げる。
差異の概念は、その概念についての存在論的な側面を何も有していない。差異の概念とは、主人たちが支配の歴史的状況を解釈するための方法でしかない。(p.183-184)
つまり、男たちや白人たちは差異を有さない一方、奴隷たちと同様に黒人たちは差異を有する。男/女、主人/奴隷、白人/黒人のように、上位者が被差別者を劣位に置くために差異を抑圧構造として組み込んでいる。そしてこの階級間の抑圧を自然化するのが異性愛関係である。
この言葉から、私は江原由美子「『差別の論理』とその批判―『差異』は『差別』の根拠ではない」*1を思い起こした(この論文については、以前ホームページの記事にまとめた→差異は差別の根拠ではない--閑閑空間)。
江原は、「差別」の論理で持ち出される「差異」は、実際にはその差別の根拠にはなっていないと述べる。差別は、「被差別者の有徴性」と「差別者の無徴性」を作り出す。逆に言えば、権力者が「差別」構造を正当化するために「差異」の概念を持ち出すと言える。これらの江原の指摘は、先のウィティックの議論と重なっている。
江原の場合は、差別の論理によって持ち出される「差異」が強調されることで、他の「差異」が見落とされ、本来存在する各々の固有性・多様性が顧みられなくなる、という議論に進む。一方、ベルサーニは、差異に基づく抑圧関係とは異なった関係性のあり方を、〈同質性〉に着目して議論していく。そこで提示されるのが「ホモネス」の概念である。
ホモネスに関する新しい省察が私たちにもたらす可能性があることは、差異による価値づけを適切に切り崩すこと―あるいは、より正確には、乗り越えられるべきトラウマとしての差異の概念ではなく、むしろ同じさを脅かすことなく、その補完となるような差異の概念である。(p.186)
抑圧関係としての差異を切り崩す「同じさ」という繋がり合い方によって、支配や抑圧を生むのではない「差異」(=「同じさ」を補完する「差異」)が可能になる。このタイプの「同じさ」は、主体のアイデンティティを固定するものではなく、むしろ動揺させながら、自己の他者の境界線を曖昧にした交じり合う関係性を生み出す。(逆に言えば、主体のアイデンティティを固定するような「同じさ」は、差別と抑圧を生む。)
著者はこれを、レヴィナスの「愛撫」論と連関させて理解し、(非性器的なセクシュアリティとしての)「皮膚の接触」による自己の拡張と重ねて議論を進めていく。個人的には「そりゃそうでしょ」と思うのだが、この感覚がなかなか「普通」ではないということも私は思い知らされてきたので、この議論は共感しながら読んだ。
もっとも、この「同じさ」で繋がる方法は、実際には関係性の数だけ複雑に多様に存在するはずだ。あくまで、その方法の一つとして、(従来は性規範・再生産規範の根源という見方をされてきた)セックスや身体接触にも可能性がある、という意味でこの議論は受け取るべきだろう。(そう受け取らないと、この「同じさ」に到達するには、こうした体験が必要になる、という意味になってしまう。)
抑圧関係としての差異を切り崩す「同じさ」の体験を、どう作っていくか。言葉でのコミュニケーションだけではなく、音楽、演劇、ゲーム、スポーツ、登山、編み物、美術、写真、性的接触……きっと人と人の数だけの無限の方法があるはずだ。そんなことを考えた本だった。
一つ、自分がよく分かっていないところを告白しておくと、「なぜ筆者がレヴィナスを選んだのか?」ということ。もちろん、レヴィナスが哲学研究において重要な位置にあることや、レヴィナスをクィアリーディングすることの大切さ、そしてそこに筆者の実存が賭けられていることも分かる。その上で、レヴィナスという対象を選んだ根本の動機を知りたいと思った。つまり、レヴィナスには賭けてもいいものがあると直感した読書体験があったから選んだのか、それとも、今の哲学界からすると戦略的な意味でレヴィナスをクィアリーディングすることが必要であると考えて選んだのか。もちろん、どちらか一つに決められる話ではないかもしれない。この点は、今の私自身の研究の課題と重なる所もあって、興味が湧いた。
◆遠藤正敬『戸籍と無戸籍』(人文書院、2017)
戸籍制度の歴史を丹念に追いかけて、現在の形で運用されるまでを明らかにした本。戸籍が適当で煩瑣で非合理的な制度であり、そして差別の温床として機能してきたことががよく分かった。
ちなみに私自身、親の離婚の事情で無戸籍になりかけていたという過去がある。役所の人が機転を利かせて、出生届の提出をわざと遅らせるように助言をしてくれて、今の両親の戸籍に登録されることになった、という経緯らしい。こんなことで人生が左右される制度は、本当におかしいと思う。
「戸籍のある人もない人も同じように生きられる社会」が目標というのが筆者の立場だという。これ自体は至当な見解だと思う。ただ、「戸籍制度をなくそう、解体しよう」という主張が本の中には出てこない気がしたが、読み落としたのだろうか? 戸籍制度が残っている限り、戸籍を持つ人とそうではない人の差がなくなることはないだろう。結局それを実現するには、戸籍を制度として存続することを拒否するしかないのではないか、と私は思う。そこまで踏み込んだ主張が必要だと思う。
また、同じ著者の『天皇と戸籍』(筑摩書房、2019)も読んだ。天皇には戸籍はない。天皇は「皇統譜」に記載され、その臣民が「戸籍」(=臣民簿)で管理される、という形式が戸籍制度の由来だからだ。戸籍制度の解体とは、つまり天皇制の解体でもある。
(棋客)