このブログの昔の記事を眺めると分かる通り、私の専門は中国古典で、特に儒教経典(経書・四書五経)の解釈の歴史を辿ることを中心にやってきた。ただ、実はここ二年ほど、「新しく漢文の文献を読み始めた」という体験をあまりできていない。もちろん漢文にまったく目を通していないというわけではなくて、授業準備や原稿の校正などであれこれ見てはいるのだが、腰を据えて勉強できているという感じではない。
その分、以前よりも広い分野にわたって読書はできているはずだし、その記録はこのブログにときおり残している………のだが、最近はなんとなく文字が上滑りして、あんまり頭に入ってきていないような気がする。このもやもやというか、焦燥感の要因は、きっちり文献に向き合うということができていないからだと思う。
なんとかして、『辞源』片手に漢文の原典をしっかり読み込んでいくような、そういう時間を作らなければと思う。別に論文にならなくてもいいのだから……
次に何を読むか考えるために、いま目を通す機会が多い文献について、ちょっと整理しておきたい。
- 鄭玄に関するもの
いま博論を出版するための校正作業中なので、自然、目を通すことになる。ただ新しく何かを読んでいるわけではない。博論では『毛詩箋』をやりのこしているので、黄焯『毛詩鄭箋平議』あたりを読もうかと思いつつ、だいぶ前にパラパラ眺めただけで終わってしまった。鄭玄研究の学界を見渡すと、次の熱いトピックとして易注や緯書注もあると思うのだが、正直難解で手に余るところがある。
……というか、鄭玄は修士~博士課程でずっとやってきて、一応博論として「まとまる」ところまで行き着いたわけで、ちょっと自分の中で飽きてしまっているのかもしれない。(その結果、博論の直接的な意味での継続となる研究をあまり考えられていないというのが、一番のストレスの要因なのかもしれない。)
ちょっとずらして、輯佚書をもとに、魏晋南北朝期の経学著作を何か読んでみるというのはいいかもしれない。と思って『玉函山房輯佚書』を眺めてみたが、やはり特定の佚書に絞る方向だと、あまりいい題材が見つからない。 - 劉咸炘『推十書』
これも一つ原稿が出る予定があり、最近も目を通している。劉咸炘と章学誠とのつながりについてはその原稿である程度論じたので(昔このブログでも長々と書いた)、次は道教についての劉咸炘の議論を読んでみたいと元々は考えていた。というのも、劉咸炘は、祖父の劉沅の影響もあり、道家・道教について色々な文章を残していて、章学誠の他にこれも大事なトピックになるはずだと思ったからだ。そこで、ここ一年ぐらい、思い出した時に少しずつ読んでいるのだが、あまり蓄積できていない。これも原因は明確で、基礎知識が足りていないのと、興味がめっちゃ湧いているかというと正直微妙だからだ。
最近『推十書』から眺めてみたのは、「三虚」「全真教論」「道教征略」「女徳」など(たまたま昔コピーしていたという理由)。せっかくなので、試しに日本語訳してブログに載せてみるのもいいかもしれない。それか、劉咸炘は電子テキストがあまりないので、他の興味がある方がいるかもしれないし、自分で文字起こしをしたところを公開してみるか。「三術」「経今文学論」などのデータが手元にある。 - 朱熹『四書集注』、『大学或問』
授業で扱っているので、自然、読む機会が多い(そもそも学部生の頃から読んできた本でもある)。しかし結構雑に読んでしまっている。せっかく授業で読むのだから、もっとじっくり調べて丁寧にやればいいのだが、「仕事に時間をかけすぎるのはどうだろう」とか考えてあまり集中できない。あと、なぜか朱熹を読むときには「研究すでにいっぱいあるしな…」とかそんなことを考えてしまってモチベーションが落ちてしまう。普段はあんまりそういうことは気にせずに本を読める方なのだが(それなら鄭玄だって山ほどあるわけだし)。不思議だ。
でも、最低限、読んでいて気が付いた素朴な疑問を書き溜めておく、ぐらいのことはしておくといいよね。忘れないようにしよう。 - 『世説新語』
『魏晋清談集』のトークイベントをやったのと、これも授業で扱っている関係で、読む機会が多い。やっぱり面白い。本文も面白いし、劉孝標の注釈も意図が明確で読み応えがある。これは劉孝標が野暮なツッコミを入れているという見方もできるところだ。
ただ、研究欲を刺激されるというより、二次創作してみようかとか、そういう方向に気持ちが向く感じがする。ふと思い出したのだが、昔そんな記事を書いたこともあった(『世説新語』小噺 - 達而録)。昔から変わらない…。
ここから、新しく読む本の候補を考えてみる。めっちゃ適当、思いついた順に書いてます。
- 林平和『禮記鄭注音讀與釋義之商榷』
- 以前ブログでも取り上げたことがあるけど、精読できたわけではない(林平和『禮記鄭注音讀與釋義之商榷』を読む - 達而録)。論文のアイデアの種になりそうだとずっと思っている。ただ、こういう心構えがあると、「論文の種になる箇所を探す」ような読み方になってしまう面がある。別にそれはそれでいいんだけど、今求めているのはそれじゃない、という感じがする。これは、記憶の隅に留めて置いて、また今度にしよう。
- 以前ブログでも取り上げたことがあるけど、精読できたわけではない(林平和『禮記鄭注音讀與釋義之商榷』を読む - 達而録)。論文のアイデアの種になりそうだとずっと思っている。ただ、こういう心構えがあると、「論文の種になる箇所を探す」ような読み方になってしまう面がある。別にそれはそれでいいんだけど、今求めているのはそれじゃない、という感じがする。これは、記憶の隅に留めて置いて、また今度にしよう。
- 劉沅『孝経直解』
- この本が面白いのかは全く知らないが、劉咸炘をやるなら劉沅の著作を一つぐらいは読んでおいた方が良かろう、という考えから、これをチョイスした。いま『孝経』も授業で扱っているのでちょうどいいし、量も少ないので読み通せそうだ。あと、木版本の画像を入手できたので、印刷して赤点を入れながら読めるのも魅力になる。
実際読むかは置いといて、ひとまず印刷して座右に置いておこう。
- この本が面白いのかは全く知らないが、劉咸炘をやるなら劉沅の著作を一つぐらいは読んでおいた方が良かろう、という考えから、これをチョイスした。いま『孝経』も授業で扱っているのでちょうどいいし、量も少ないので読み通せそうだ。あと、木版本の画像を入手できたので、印刷して赤点を入れながら読めるのも魅力になる。
- 劉咸炘「墨乱」「冷熱」
- 考証学者による経書注釈書
- 『論語』『老子』
- 何震
こうして書いてみると、授業で読む文献にも工夫の余地がありそうだと気が付いた。確かに、仕事として考えるなら、既に読んだことのある文献の方が確実に良い(準備にかかる時間が減るし、教える内容の間違いも比較的減るから)。正直、未知の文献を授業できるレベルまできちんと予習していたら、準備時間で最低時給をはるかに下回るだろう。実際、いま中島敦を授業で扱っているのだが、準備にめちゃめちゃ時間がかかっている。
でも、全く未知の文献を選定して、仕事として嫌でも読まなきゃいけない状況にして、毎週必ず新規の文献に向き合う時間にするという手もある。今年は新規のコマが多くてそこまで考える余裕がないけど、来年度はまた考えてみてもいいかもしれない。
……と、ここまで書いてふと思ったが、「博論の先の研究」となった時に、自分ではついつい「鄭玄や義疏・正義について研究を深める」ことばかり考えていたが、「博論の方法論で他の題材を切っていく」という読み方を試してもいいかもしれない。たとえば、朱熹『四書集注』に鄭玄と似たロジックは見られるか、段玉裁ならどうか、とか。
などとごちゃごちゃ考えていたら、読みたいものを絞りたいはずが、どんどん発散してしまった。これではあまり解決になっていない。
来週のブログ更新で、明確な計画を立てたいと思う。で、まずはそのために、読みたいものを紙に刷るとか、どの資料が手元にあるか、また電子データで持っているかとか、そのあたりの下準備をしておきたい。
(棋客)