達而録

ある中国古典研究者が忘れたくないことを書くブログ。毎週火曜日更新。

『四書集注』の音注について

 これまで、「山の学校」の『世説新語』を読むクラスで得た知見を共有してきました。私は他に『論語集注』を読む授業、『大学章句』と『大学或問』を読む授業もしておりまして、今回はそちらを題材に、多音字の読み分けについて整理しておきます。

○「見、賢遍反」

 中国古典を読んでいると、「見」の字の読み分けに出くわす機会は多いと思います。以下のように区別するのが常識的なところでしょう。

  • 見 jiàn みる(見)
  • 見 xiàn あらわれる(現)

 『経典釈文』では、二つ目の読み方の場合に「賢遍反」と音注が付きます。古勝隆一『中国注疏講義』にも同様の解説があります。

 この認識は間違ってはいないのですが、この二つの意味の対立だけでとらえていたので、授業で『論語集注』の以下の例を見たときに「あれ?」となりました。

論語集注』八佾

 儀封人請。曰:「君子之至於斯也,吾未嘗不得見也。」從者之。出曰:「二三子,何患於喪乎?天下之無道也久矣,天將以夫子為木鐸。」

〔朱注〕「請見」「見之」之見,賢遍反。

 文脈上、どちらも「見る」(会う)の意味ですが、「賢遍反」の注が付いています。『釈文』も見てみましたが、一つ目の方に同じく「賢遍反」の音注がついています。

 そこで『四書集注』を「賢遍反」で検索してみたところ、どうも「目上の人に会う」の意味の時に、「賢遍反」と読んでいるらしい、と分かりました。以下の例が典型例です。

論語集注』季氏

 冉有、季路見於孔子曰:「季氏將有事於顓臾。」

〔朱注〕見,賢遍反。

 念のため先行研究がないか調べてみると、森賀一惠「『經典釋文』と朱熹注音」(『富山大学人文学部紀要』57, p.73-119, 2012、https://toyama.repo.nii.ac.jp/records/252)がヒットしました。丁寧に調べてあって、非常に使いやすい論文です。

 この論文を見ると、確かに「賢遍反」で「目上の人に会う」の意味の読み分けがあると説明されていました。『群經音辨』で明確にこう説明されているそうです。そして、なぜ「あらわれる」の読み方でこのような意味になるのかについて、以下のように説明されています。

 目下の者が目上の者に会うときは、下の者が上の者を「みる」のでは礼を失するので目上の者の前に目下の者が「あらわれる」という表現をする、という発想である。(p.89)*1

 この説が推測なのか、根拠があるのかは分からないのですが、ひとまずそういうものとして納得しておこうと思います。

 なお、土田健次郎訳注『論語集注1』(平凡社、2013、p.302)では以下のように解説されています。

 「請見」「見之」の「見」はどちらも「まみえる」の意味で、日本漢字音は「ケン」。もう一つの音の「ゲン」の時は、「あらわれる」の意。

 ここまでの議論から分かる通り、この解説は不正確です。「まみえる」の意味とは別のもう一つの音が「あらわれる」の意味の音、というわけではありません。むしろ「あらわれる」と同じ読音の時に「目上の人に会う」の意味になるわけです。

○「語、去声」

 こちらもよく見かける音注です。以下の二種の音に分かれます。

  • 語 yǔ 上声
  • 語 yù 去声

 授業では、以下の部分を読んでいるときに出てきました。

論語集注』八佾第三

 子語魯大師樂。曰:「樂其可知也。始作,翕如也。從之,純如也,皦如也,繹如也,以成。」

〔朱注〕語,去聲。

 この読み分けについて、森崎論文では以下のように説明されています。

 ことばという意味なら上声、ことばを告げるという意味なら去声のようである。(p.114)

 この説明では、上声なら「ことば」(名詞)、去声なら「ことばを告げる」(動詞)という読み分けをしているように見えますが、これは厳密には不正確です。というのも、述而篇「子不語怪力亂神」、郷党篇「食不語」などの「語」は明らかに動詞ですが、「去声」という注釈は付いていないからです。(ただ、名詞の時に上声になるというのは正しいです。)

 一方、土田訳注では以下のように説明されています。

 「語」が「告げる」という意味の場合は、去声。「かたる」や「ことば」などの場合は上声。(p.297)

 こちらの説明だと、同じ動詞でも去声なら「告げる」の意味、上声なら「かたる」の意味、という読み分けがあるように受け取れます。どちらも動詞の用法があるという理解は正しいですし、名詞「ことば」の時に上声になるというのも正しいです。しかし、同じ動詞だとして、「告げる」と「語る」の間にどういう意味の違いがあるのか、よく分かりません。「告げる」の時は去声、「語る」の時は上声、と読み分けをしているとは考えにくいでしょう。この説明も誤解を招きやすいと思います。

 改めて、「語」に去声の指示がある例を調べてみると、たとえば以下があります。

論語』雍也「子曰:中人以上,可以上也;中人以下,不可以語上也」

論語』子罕「子曰:之而不惰者,其回也與」

 これらを見ると、「語」の下の目的語の位置に、語りかける相手が来ていることが分かります。つまり、目的語の位置に来る字が、「語られる内容」ではなくて、「語りかける対象」であることを明示するために、発音を通例から変える、とイメージすると良いでしょう。

 確かに、この読み分けがないと、「語~~」という文があったとして、「~~に対して語っている」(去声)のか、「~~のことについて語っている」(上声)のか、区別がつかないですね。この区別をするために読み分けが必要なわけです。

 「語」の読み分けについては、古勝隆一『中国注疏講義』の以下の解説が明快だと思います。

・上声「語」:話をする(動)、言葉(名)

・去声「語」:~に語りかける(動)

 (棋客)

*1:受講生の方に指摘していただきましたが、森崎論文では、この一段の直前の箇所で「目上の者が目下の者に会うときは「みる」「まみえる」という表現で良いが……」と説明しています。日本語の「まみえる」は目下の者が目上の者に会う時に使われますから、この説明は少々混乱を招きます。